父 (ICU:入院1日目)

父の記録を残します


まず、父は現在68歳。
私は30歳で独身。

突然のことでした。
母からの電話、とても恐怖と不安のある声で
”お父さんがモアイ中に倒れた” …と。


※モアイとは沖縄の風習で、親しい友達で月1に集まる飲み会です。
 少し違うところは、お金を出して集めて、
 月で順にお金を回収し自分のために使ったり、
 モアイ仲間との旅行代として貯めたりと
 そのモアイでの目的や、やり方は違います。




一瞬なんのことだかわからず
でも急いて準備して母を迎えて病院へ。


病院での出来事の前に父が倒れるまでの様子を話します。

私は沖縄県出身で那覇に在住。
父と母は名護市在住。那覇と名護市は約60kmぐらい離れており
車で約1時間半から2時間程度の距離です。

父は月末にいつもモアイで那覇に帰り、私の家に来ます。
いつも母と一緒にきますが、
今回は私が名護祭りに行く予定があり、
実家に泊まることになっていました。
なので父と母は別々に。

父はモアイでお酒は飲まないので、
モアイが終わったあと、深夜2時ごろに
名護にいる私を拾って実家に帰る予定でした。


父が倒れる日
仕事が終わり急いで那覇に向かって
ともだちと合流し、祭り会場へ。
久しぶりの祭りの開催で、まだコロナ禍ではあるが
かなりの人が集まり、コロナ前の雰囲気を感じました。

友達の家に帰っている途中、母からの電話で
急いで病院へ向かったというわけです。

電話での母の声はとても震えており、
恐怖と不安とで今まで見たことのない表情と焦りを感じました。


今まで父と母は病気せずにここまできました。
病気はしていないというのは語弊がありますが
詳しく話すと長くなるので割愛し、簡潔に言うと
自営業でとても忙しく、病院に行ける時間すらなく
自営業を引退し、やっとできた時間で健康診断を定期的に
行ってはいたという形になります。
ただ結果は悪いもので、高血圧と中性脂肪も高い結果でした。
病院では薬を処方されていましたが、
病院は評判が悪く、いい先生ではなかったです。

話は戻り、


名護から那覇へ
高速を飛ばし、どうか間に合ってほしいという気持ちで
走りつづけ、いつもならなんでもない道が
とても遠く感じました。
時間は夜9時。

夜10時過ぎに病院につき、
付き添ってくれていた父の友達が迎えてくれました。
今処置中だと。

詳しく話を聞くと
とても無事でいられるかわからない状況でした。

父は夜7時前、母にモアイに行くと電話していたそうで
その時は普通だったと。
しかし、父がモアイをしているいつものスナックに行くと
気分が悪いといって水を飲んですぐに
痙攣、四肢硬直は始まり倒れたと
いびきをかき出し、友人がこれはまずいと思い
脈と呼吸を見ると、とても早く脈が打ち、呼吸も徐々に浅くなってきたので
救急車を呼び、その場で心臓マッサージを実施。

救急車は5分程度で到着。
その間もずっと心臓マッサージを行うも
不整脈は改善せず、
救急病院についても変わらず、要は心肺停止で到着したそう。
病院に着いた時点で約30分経過、
病院で心拍再開したのは約50分後


その間に私たちは面談室に待機し
父の処置が終わるまで待っていました。


父に会えたのは深夜1時過ぎ
父の姿は朝とはまるっきり変わり
人工呼吸器、エクモを装着している状態でした。

実は朝父と顔を合わせていました。
父はモアイの前日に家に来ており泊まって
翌日に歯医者に行った後にモアイに行く予定でした。
そのときはなんでもない会話をして笑顔で
私を仕事に送り出してくれました。
今でもその時に顔を忘れません。


先生から説明を受けました。

父は心肺停止の状態で到着、
すぐに心臓を調べて
左側の根っこの部分の血管が塞がっていた
動脈硬化による ”急性心筋梗塞”  だと。
すぐに心臓カテーテル手術を行い、
重篤な部分の血管をカテーテルで開通
まだ他にも動脈硬化で塞がっている部分があるが
とりあえず優先的に行い、
心臓の心拍を補助し、体循環を人工的に行うために
人工呼吸器と循環型エクモ(VA-ECMO)をつけたと。
自己心肺の再開は約2時間後。
それでも通常の5分の1程度の動き
ほとんどエクモで体循環を促している状態。
もちろん自発呼吸なし。

私は医療従事者であったため
説明を聞いてすべてを理解しました。

まず、急性心筋梗塞を発症すると
時間の勝負で、数十秒から数分の間で生存率が低下し
致死性不整脈で死に至り、突然死と言われることが多い
とても怖い病気です。

急性心筋梗塞に至るにも色々な過程があり
自覚症状もあるため、気づくこともありますが
父の場合はとても急な出来事でした。

しかし、
たまたまモアイで倒れ、
すぐに心臓マッサージをしていただき
途切れなく病院まで行けたこと。
救急の病院に循環器ドクターがたまたま当直で居て
沖縄のコロナ禍の中、偶然にもエクモが2台空いていたこと
たまたまと言っていますが、本当に奇跡に近い状態でした。
そのまま倒れて処置していなかったら
父はそのまま亡くなっていたと思います。
父の命を繋いてくれた父の友人や、病院関係者に
とても感謝したのと同時に父がよく生きていてくれたと。

それからというもの
心臓マッサージで胸骨が内胸動脈を傷つけているとのことで
2回目の処置へ。
それまでに2時間経過。深夜3時をすぎていました。

なぜか父は助かると根拠のない気持ちがありました。
今思えば、現状を信じきれておらず
受け入れていないからだったのかと。

父がICUに移り、落ち着いたのは
翌朝の6時ごろ
私は不安で頭痛と腹痛で下痢を繰り返してました。
感じたことのない恐怖と不安と焦りと
これからどうしていくのかという気持ちで
精神がおかしくなりそうでした。
それは母も同じで、私より母の方が心配でした。

入院手続きを行い、一旦家に帰りました。
外は明るく晴れていて、太陽も上り
こんなにも太陽が煙たく、鬱陶しいと感じたのは初めてでした。



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