戦争と歴史的感情資料
戦争文学というカテゴライズがあるらしい。戦争文学という名前自体、ちょっとマッチョイズムを感じて無骨な感じで良い。アメリカのロストジェネレーションとか、そういうイメージ。でもわたしが戦争に関する小説として思い浮かべるのは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』とトーマス・マンの『魔の山』だ。
先日久々にヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読み返した。主人公は楽園であったような善を賛美して悪を否定する幼少期を去り、自身の中に確実に存在する「悪」に苦しみながら、統一された神らしい「アプラクサス」や、彼を誘惑するデミアンらに傾倒しつつも、自身の信仰や神への道を模索していく。物語は本当に繊細に進んでいき綿密ですらあるのに、最後の最後で突然ハンマーでぶん殴られたような終わり方をする。「戦争」が始まったのだ。そしてこの戦争とは、第一次世界大戦である。ヘッセの他の作品にしてもやや唐突な終わり方をするものもあるのだが(ヘッセが本当に最後まで集中力を切らさずに書いたものは、『春の嵐』くらいなような気もする)、その中でも『デミアン』という小説は意図的にこのように終わらせている印象がある。ヘッセ自身も、「戦争」にぶん殴られたように思ったのだろうか。
同じように、トーマス・マンの『魔の山』も最後はハンマーでぶん殴られたような終わり方だ。主人公がサナトリウムから逃げ去り、物語自体も逃げ去るように終わる。しょうがない、「戦争」が始まったのだから。トーマス・マンはこの『魔の山』の執筆に5年以上の歳月を費やしているのにも関わらず、そして大戦の始まりそうな怪しい雰囲気をそっと香らせるように小説の中に表現しているのにもかかわらず、やがて始まってしまった第一次世界大戦はやはり唐突に青年の成長を奪い思考を奪い、物語を奪っていった。
両作品はドイツで1920年ごろに出版され、それは大戦の戦間期にあたる時期だ。第一次世界大戦の開戦が、ものすごく大きな衝撃を少なくともこの両者に与えたのは、間違い無いのではないかと思う。主に戦争について、戦時中の状況について直接書かれた戦争文学作品もたくさんある。でもわたしは、戦争によって唐突に終わらされてしまうこの二つの作品が、当時の衝撃とどうしようもなさを生々しく刹那的に表現している気がする。歴史的史実の資料ではなく、歴史的感情の資料として、二つの文学作品は当時の手がかりになると考える。