知ってるよが詰まった毎日を抜け出したい
今日は一日休みだったので、よく行く居酒屋の店長と昼前から山に登った。秋晴れの六甲山を堪能する間もなく1時間半ほどでせかせか下山し、銭湯をカラスより早く出て、立ち飲み屋ですずめの涙ほどのアテをつまみにビールをガバガバ飲んでいた(本来これが目的の会)。
気がつけば小学校の下校時間らしい。ちびっ子たちがゾロゾロつれだって、または母親と学校の方面から歩く様子が中から伺えた。
するとその中の1人が入り口からひょこっと顔を覗かせて
「えーッみんな立ってご飯食べてんのー!?」
だけ言いお母さんに引きずられて帰って行った。
店内大ウケ。
家でやったら多分怒られるんやろうなぁ。子供って素直よなぁ。と皆んな和やかな雰囲気になっている間、昔母親に連れられ、スーパーに行った時のことを思い出していた。
「えーッパパイヤってパパのこと嫌いな植物なん!?」
向かいの通路で何かしらの野菜を手に取っていたおばさま達が肩を震わせているのと、母親が顔を真っ赤にしてちゃうから!静かにして!というのをよく覚えている。
あ、なんかウケてる。気分はいいな。でもパパイヤってパパが嫌い意外に何あるねん。と子供心に真顔だった。そう、こちらは至って真剣なのだ。
あの頃は毎日が大発見であった。ツツジの花はちぎって吸ったらチョー美味しい。でも一瞬で味がなくなる。ならいっぱいちぎって吸いまくろう。学校の植え込みをまるハゲにしたら、友達と一緒に呼び出されてしこたま怒られた。つつじが可哀想でしょう。と言われた。可哀想ってどんな感じなんやろう。帰り道まるハゲの植え込みを眺めながら帰ったら、少し寂しいような切ないような気持ちになった。これが可哀想か。
大人になると必然的に全部知ってるよ。ほらこうなると思ってた。の繰り返しになる。世紀の大発見をすることが本当に少なくなった(たまにはあるんかい)。
こんなに全て知ってるよに囲まれて生きるようになるとは、想像もしていなかった未来そのものである。
人間は学ぶ生き物らしいから、それが当たり前っちゃ当たり前なのだろうが...。
想像もしていなかった、知ってるよにまみれた未来(今)に立って考える。果たしてあの頃は未来の想像という行為をそもそもしていたのだろうか?
将来の夢はなんですか?の質問は、ほぼ全国民ならぬ全世界の人が問われたものだと思うが、その時は質問に対する答えを見繕っただけではないだろうか。本当に未来はどうしているかなんて、あの頃のツツジハンター山田少女にとってはどうでも良かったのだ。
そんな今、これからの未来を想像してみようと考えを巡らすが、どう足掻いても年越しはそばにしようかうどんにしようか、はたまたワインパーティーにしようかくらいの未来しか考えられないのである。
あ、そういえば今年は年越しで夜勤なんだった。残念。
想像なんて微塵もしてなくて、開けてびっくりの瞬間を楽しみたいものである。この前はネパール料理屋さんでひとり手食にチャレンジしてみた。思ったより熱くなかった。すげー、でもこれどうやってうまく食べんのや。そう思ったのと、周りの目を気にしてすぐ手を拭きスプーンに持ち替えてしまった。
今決めた。来年2025年は知ってるよが詰まった毎日と、周りの目を抜け出して、子供の頃のような知的好奇心丸出しの1年にしよう。目の前のことしか考えないフレッシュな1年にしよう。
あれ、もうすでにこれが来年を想像してるってことやないの。あかんやん。で振り出しに戻る。
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