見出し画像

【海と音楽、それだけが変わらずにわたしが好きなもの】


【変わらずわたしが好きなもの】
生まれてこのかた変わらずわたし
が好きでい続けていると感じるものは
・海
・音楽
である

なぜだろう?それを知る為に
ナイトクラブで朝まで踊り散らかした後
そのまま海を感じることにした
そしてその理由をどちらも考えて
言語化してみることにした。

わたしは今クラブ後早朝電車で江ノ島に向かい海で寝て出会った釣り人の手伝いをし食べ歩きをし風呂に入り江の島近くのミュージックBARでたまに踊りつつもこの文章を書いているところだ。
渋谷enter、電車、海、江の島、太陽、釣り人、釣れたウミヘビ、食べたサザエ、あまりサービスの良くはない高い風呂施設、レタスチャーハン、オッパーラ、素敵な音楽、水
SPECIALTHANKSは早めに言っておこう
最後まで文を書いていると
SPECIALTHANKS枠はすごい勢いで
また増えてしまうだろう予感がするから

______
海が好き(誰かとの共感世界の中で)
山が苦手(誰かとの共感世界の中で)
(ひとりきりで全ての人間としての記録は消去出来るとしたら、どちらも同じ価値を感じていると思う)
どうして山にそこまで魅力を感じず
海には安心を感じるのか?
今日の出来事を用いて違う視点から
考えて詰めて今日のところの自分の正解を
出していきたいと思う

①銭湯に入っていて
おばちゃんが入ってきて波が生まれると不快
(人間同士の気の使い方、まともに見られる方法(相手に危険がないように表現している、疲れる。誠意を人間としての人間の中で生きていく中では必要な為)
②銭湯に入っていて
おばちゃんが入ってきて波が生まれたが
わたしは湯船に浸かりお湯との一体感に
気持ちよくなり、無限に近い波を感じている
ような世界に没入していた際に
新しく体に当たってきた波は
おばちゃんが起こしたことに変わりはないが
・おばちゃん(人間)ということを
   わたしは認識していない
・そして自分は人間で在ることを忘れている
・人間世界でいる上での緊張を忘れている
という条件が揃った際に
「おっと、新たな波だ!刺激だ!」
つまり新しい体験が出来るとわくわくする
不快という感覚は全く生まれない

いつも①であったのに、
②を初めて経験した際に
この波というものを感じるのは
とても心地良いものだと再実感した。

という実体験で得た仮定した価値観
をそのまま介在した中で考ええいくと
・波とは小さく小さくまで感じ考えていくと
全てのものに発生し続けている生き物
なのではないかとまた仮定する

その量を考えていくと
海の方が密度が高い
生物,物質が触れ続ける安心
それぞれの波が輪郭を知覚させてくれる
ならば密度の高い方が
快楽や安心への効率は高いのでは?

山は密度が低い(海に比べれば)
日本の中で都会にいるようなもの同じ
その喧騒は大して日常(都会)と変わらない

わたし人間としての生活を生きて(都会分↪︎全ての物質の量や種類)を日常で感じているよりかはもちろん
山に自分が行っての(山分↪︎全ての物質の量や種類)日常から離れてそこを味わう分は情報量が増えている事は明らかであるが。

なので山に行っても退屈と感じるのは
わたしは小さい頃から海を知っていることでせっかくならばもだと欲しいと感じていることと
(量の多い方を昔から知っている)


全てピッタリと輪郭が交わり合う中で
全ては一つだったことを知覚出来る安心感と
その上での自分の今の輪郭を感じる
(もっと心地良い方法へのヒントになる)
ということが出来る
そのやり方も何度も何度も海に行って
一番心地良い方法を自分の才能にできたから
もう愛で出来ていることを知っていたんだ

そういうと愛し合いたいという欲求と
互いを知覚し合いたいという欲求からの
セックスの交わりという物は
足りなくて仕方ないから寂しくなって
まだ足りずにセックスしていくのかな?

まとめると、

海は宇宙
山はもっと密度のある都会に変わりない
+動物対植物の対峙的な戦争芸術
(わたしは無感覚と価値観がないので解らない

______

わたしは音楽が好きで在る意味
心地良く音楽を聴いて身体が自然と
その波に乗ってしまうように
他のものの輪郭にそってその形の波を把握していくことと、その輪郭を感じたときに自分の輪郭は全てひとつに繋がっている(身体以外の輪郭なんだと思う、なんだかわからんけど)
そこの輪郭の差異に、
心地良くないヒントが隠されているという発見欲への満たされ
が含まれているのだと思う

人間同士が無意識にコミュニケーションの中で共感を乞いている
なぜ?
ほとんどがそれありきで会話を進む

まるで義務のようにも感じる
わたしはそれに合わせてきた
 ↪︎出会った全ての人間に、その人と良好のコミュニケーションを取るためには。自分の存在を半分相手のために嘘をついてきた気分だった。ごめんなさい、わたしはまだ人間の誰とも繋がっていません。(なんとなくだけれど、キリスト教的な点からみるとわたしはくそったれなんだろうと思う)

それは現実の重ね合わせてあげることで
相手に2倍の力にしてあげることも出来る
と応援のような優しいチカラにもなるから
相手にわたしの力を掛け算出来たらな
と人を愛し続けているけれど
そういう意味があったので許してください

_

つまり現実なんてそれぞれの解釈で
どれも違う世界とまではいかないけれど
たいてい相手の話なんて聞いてないし
共通言語も各々の経験、そしてそこの中での感情で左右された価値観が広がっている中で
やっと受け止めるそして解釈するんだから
話しても話しても
突き詰めれば自分のことも相手のこともときにわからなくなる

解釈を手放すと本当の世界を見ることができて本当の世界を見ている同士の友人などが出来るのではないか?
とスピリチュアルにハマっている人はその理想を持っているようにもみえる
解釈がズレあっていることに気づいたことが寂しいと感じたのでしょうか?なぜ?

わたしにとって寂しいと言う感情は
自分の生きている中で味わったことがないから
(狙いを定めた相手を手に入れたくてそのために洗脳をかけたくて、執着や憎悪的な愛に付随しているような陳腐な感情のことを寂しいというのはおこがましいと思うので、の体でいうと)

他人様が当たり前に会話の中に織り混ぜてくる、わたしにとってはそいつがそいつ自身を下げているような言葉(エネルギー、かっこよさとして自分をわざと出している人(合理的な獲得の為の営業手練手管のような自分を下げるパフォーマンスではなく)や
楽しいはずの空間の中に各々がシャイや新しく心地良い感覚への驚きの上で受け止めれてない(自己超越しようとしてるのに自己超越出来ない、出来たふりになっている人)
なぜそんなにもなにかを欲しがっているんだろう

全ては波で
生きることも死ぬことも同じ
しかし生きているうちの波との違和感や差異
を生きているうちには感じたり
それを表現して
本来ぼくら全てが繋がっている一つの波に
繋げていこうとしたりしていることは
出来るしそれに価値を見出す人が多いので
そうやって文化やより美味しいもの
心地良いものが増え成長していった
のではないか人の作った世の中は

琴線って多分ここの近くにあるとも
予感している

ゴミをポイ捨てせず
ゴミをゴミとして片付けるのは
それがゴミだから
散らばる事が許されないものを
結束させた価値ではない

ひとつひとつの責任を取る分
人間は美しいという美徳がある
そしてそれはつまり現実への解像度
が上がる訳であるから
解像度上がってるやつはかっこよく見え
先程の現実照らされたい現実照らし合いたい
そこへの癒し
わたしのまだわからぬわたし以外の
人間たちの孤独の問題も絡むのだろう
______

これではまだ音楽を作りそれを
堂々と広く伝えようとは思えない
わたしは悪いものを増やしてしまう自分を
許すことが出来なくてどう評価されど
その結果は自罰的になることだろう

自分の何かが足りないと思う
なにかとはなんなのか?
それは本当に必要なものなのかん
博愛主義でいたい理由はなんだろう?
を次回の記事では考えていこうと思う

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?