吉川英治『新・平家物語』感想 扇の的
平家物語の有名なエピソード「扇の的」。中学時代の授業で、古典『平家物語』の「祇園精舎」と「扇の的」を教わった記憶があります。私は「扇の的」は平家の雅なお遊び、というイメージを持っていました。
「扇の的」の狙いは何でしょう
平家の状況
「扇の的」は屋島の戦いで行われました。屋島の戦いの前、一の谷の戦いでは清盛の弟の忠度、甥の敦盛などが戦死。平清盛の息子、重衡は捕縛されました。
そもそも、平家軍というものの「大きな家族と家族の集合体」(吉川英治『随筆新平家』)です。戦争とはまったく縁のない人たちがたくさんいたのです。その人たちは「あの人が亡くなった。この人は捕まった。大怪我をした人たちがたくさんいる」と聞けば、悲嘆にくれるに違いありません。
平家はそういう重苦しい空気に包まれていたのだろう、と思います。
「扇の的」の意味
國學院大学の野中哲照教授によりますと、「扇の的」は戦の勝敗占いなのだそうです(國學院大学ホームページ)。
戦いの真っ只中、どうして占いなど行ったのでしょう。
それは、平家に漂う重苦しい空気を変えたい、という思いが働いたのではないかなあと私は思います。今は雅なお遊びではなかったと考えています。
小舟の扇の的を源氏の武士が射落とせば源氏の勝ち、失敗すれば平家の勝ち。波で揺れ動く扇の的を射落とせる武将などそういるわけでもなく、まして源氏は海の戦いは苦手だから射落とせまい、と想定したのかもしれません。
平家が勝つと占いが示せば、平家軍の空気は明るくなるでしょうし、源氏軍の士気は下がるはずです。
おそらくそんなことを平家は考えたのではないかな、と想像をたくましくしています。
『新・平家物語』の「扇の的」
扇の的と並んで立つ女房
平家のなかで扇の的をのせる小舟に乗る、漕ぎ手と女房の人選が始まります。漕ぎ手はすぐに決まりましたが、さて女房はなかなか決められないだろうと、平知盛は思います。
ところが知盛の母である二位の尼(清盛の妻の時子)付きの女房、玉虫がその役を引き受けると申し出ました。
玉虫の恋人は戦死していました。彼女は死に場所を探していたのでしょう。
「扇の的」その後
一日の戦闘を終えて、源氏軍が引き上げ始めたころに、扇の的をのせた小舟が沖に出てきました。
義経の命を受けた那須余一(一般には与一ですが『新・平家物語』では余一)は、見事に扇の要に矢をあてます。源氏も平家も喝采しました。無名の選手がいきなり金メダルを取ったような晴れがましい場面です。
そして私の知っていた「扇の的」はここまでです。その後の話は…。
扇の的をのせた小舟の漕ぎ手は余一が扇に矢をあてたことに興奮して、踊り始めました。それを見た義経は、余一にその漕ぎ手に矢を放てと命令します。そして余一は漕ぎ手を射殺し、源氏と平家の兵たちが入り乱れた戦闘となりました。
なんと後味の悪いことか。古典『平家物語』でもこのように描かれています。決して吉川氏の創作ではありません。
教科書には那須与一が漕ぎ手を射るところは割愛されていたので、初めて「扇の的」のストーリーを知った私でした。
さらにその後の那須余一
『新・平家物語』ではその後の運に見放された余一が描かれています。
余一は弟の大八郎とともに源氏軍にいましたが、弟は義経直属だったのに対して軍監奉行梶原景時の配下に所属していました。
梶原景時は自分の許可を得ず勝手なことをしたとして、余一に謹慎を申し付けます。さらに他の武将からの妬みもありました。自分の郷里に戻った余一は病に伏せってしまいます。
梶原景時の謹慎処分は義経への当てつけとも思われますが、規律を厳しくすることは軍の統率には必要なことですから致し方ないのでしょう。ただ義経も責任があるはずですから彼も謹慎でいいのかも、とも思いますね。
伝説のなかで
余一の立場
那須与一はモデルはいたけど実在しなかったと言われています。國學院大学ホームページで野中哲照教授の説明を読むと、彼の史料が少なくて扇の的のエピソード以外では、名前が見られないそうです。
吉川英治氏は史料が少ないことを逆手にとり、さらに名前も与一から余一に変えて、扇の的のスターの人生を自由に創作したのかもしれません。
弟 大八郎のこと
余一の兄たちは平家軍に所属していました。源氏軍は余一と大八郎だけ。この立場も微妙ですね。
大八郎は弟の立場のせいか余一に比べるとのびのびしています。彼も実在していない人なのでしょう。「扇の的」のあと、一時は義経討伐軍に加わされますが、九州征伐にまわされてそのまま平家の落人集落で過ごす、といった動きをみせます。
また、僧形になった熊谷直実とも再会します。熊谷直実は、若き武将平敦盛を討ったことをとても悔やんでいました。まるで自分の息子を殺してしまったかのように。
彼は法然上人の弟子となりました。その姿で大八郎の前に現れ、大八郎と少し話します。二人の会話は戦争の虚しさ、愚かしさを感じるものでありました。
玉虫のこと
「扇の的」と小舟に乗った玉虫。彼女の伝説が熊本県にあります。 玉虫が平家の落人集落に居たという伝説です。
安徳帝とともに入水した二位の尼を追って海に沈んだ玉虫が、建礼門院とともに助けられて九州まで逃げのびたと考えれば、おかしなことではありません。
さらにこの伝説だと余一の息子が九州征伐に来て、そのまま玉虫と結ばれたことになっています。大八郎が平家の落人集落で暮らしたことと合致します。
作者吉川英治氏が、この伝説をもとに大八郎の話を創作したのでしょう。
余一の話は切ない
『新・平家物語』の那須余一。有能な人なのに運に恵まれなかった人でした。才能あふれる人、天才、と呼ばれることに私たちは憧れるのですが、才能があるから幸福になれるとは限りません。その典型が『新・平家物語』の那須余一です。
那須余一はとても生真面目に描かれているので、彼の「扇の的」以後がとても切なくなります。どうしても抗えない運命というものがあるのだなあ、とため息が出ました。
参考資料
國學院大学ホームページ 「謎多き坂東武者、那須与一の素顔に迫る」野中哲照
【公式】熊本県観光サイト 「鬼山御前の墓」