22年11月03日 コレチェキ


素晴らしいメイドとは、過労で死んでしまったメイドのことである。
                           ——「コレチェキについての詩集」より

 

  玄関口で靴の紐を結ぶのに15分もかかった。片側に5分、もう片方の足に10分。躰が重い。木曜日。コレチェキをもらいに行かなくてはいけない。このばかげた習慣をやめようという瞬間は何度もおとずれるのだが、しかしそうなるとわたしは休日に何をすればいいのだ? 映画? トーストと卵を食べにブランチへ出掛ける? おもしろくない。だったら、素敵な女性と関係を持つのはどう? 勘弁してくれ。はっきりと覚えていないが、わたしは5年ほど前に恋をしていた時期がある。詩の朗読会で出会ったリディアという女だ。彼女は料理が上手で、たいていの女がそうであるようにべらべらとおしゃべりをするようなタイプではなく、わたしはたいへん気に入っていた。高額な支払いを惜しまず、繰り返しデートに連れていった。しかし彼女は、わたしがどれだけ頼んでも、コレチェキを書いてくれたことはなかった。ウディ・アレンからの引用。男女の関係はサメに似ている。つねに前進していないと死んでしまう。わたしとリディアはまさにサメの死骸のような状態で、気づいた頃にはすっかり会わなくなっていた。

 コレチェキはわたしに何かを思い起こさせてくれる。日々の労働では感じられない何かをだ。しかし周りの人間はどちらかと言うと、労働や苦しい生活に堪え忍ぶことこそ、ほんとうの審美的感覚が身につくと考えているような気がしてならない。シャツを血で汚すことがそんなに偉いものなのか? 祈りながら生きる? くそったれ。酒、シガレット、コレチェキ、この3つがあればわたしは何だって書くことができる。何だってだ!

 今よりずいぶん前の話。わたしは機内雑誌である若くして亡くなった詩人についての特集記事を読んだ。その詩人はコレチェキについての素晴らしい詩をたくさん残したが、酒さえ飲めばすべてうまくいくという考えを公表したせいで、誰からも理解を得られないまま事故で死んでしまった。彼によると、コレチェキを受け取る人間は2種類いる。コレチェキの表面だけを眺めているやつらと、コレチェキの表と裏を両側から眺めているやつらだ。前者はみじめだ。チェキの裏に書かれた連絡先に気づくことができず、死ぬまでメイドカフェに通うしかない。後者は、他の物事についても両方の視点になって考えることができる。世界には貧しい人たちが大勢いること、青春の光には影があること、恋は追い掛けてはいけないこと、人生で負け続けているやつがいること、自分よりもかわいそうな人間がたくさん存在すること。だがわたしに言わせれば、コレチェキを両側から眺めているやつらは悲惨だ。彼らは物事を両側から眺めることができるがゆえに、何もかもわかったような気になっている。耳の聞こえないやつが感じている世界は、耳の聞こえないやつにしか感じることができないはずだ。彼らはメイドのことを勘違いしたままメイドカフェに通い、ほんとうのことを何ひとつ理解せずに呑気な顔で死ぬのである。

 11月3日。わたしは秋葉原の路上でいつものように飲んでいた。iPhoneに繋がったイヤホンから流れるエルトン・ジョンの『タイニー・ダンサー』を大声で口ずさむ。通りがかった人たちが怪訝そうな顔でわたしを見る。まだ若くて健康そうなわたしが気が触れたような行動をとっているのが不思議なのかもしれない。やれやれ。

 路上で二度吐いてから、本店6階に並んだ。1か月前に新しく入ったばかりのメイドがやってきてわたしを店内へ案内する。彼女は長くてきれいな茶髪を頭上で不自然な形に束ねていた。わたしはビールとIちゃんのチェキとコレチェキを注文。

「はじめまして……あれ? 以前もどこかで会いましたっけ?」と新人メイドが言った。

 わたしは何も答えなかった。

「わたし、まだ入ったばかりですの。この階でお給仕するのはまだ3回目で……」

「それは結構」

「ええ……えっとぉ、チャブさんは何階によく行かれるのですか?」

「さあね。色んな階に行くから」

「はぁ、そうなのですね……えっと、強いて言うなら、何階が多いんでしょうか?」

「何が聞きたいの?」

「えっ?」

「ヨーロッパに旅行へ行って、パリだけ見て帰るやつなんていると思うかい?」

「お水を持ってきますわ……」

 本店6階のIちゃんがコレチェキを書きにやってきた。彼女とは何度か会ったことがあるが、まともな会話を交わしたことは一度もない。というのも、彼女は人間の言葉を話すことができなかった。彼女は生まれてすぐにオオカミに連れ去られた。それから17年間、サークル活動で森へ遊びにきた大学生の集団が彼女を発見するまで、彼女は自分のことを四足で歩く獰猛な野生動物だと勘違いして育った。やがて彼女は大学の研究室へ連れて行かれ、更生のための教育プログラムをたっぷりと受けた後、人間らしさを取り戻すためにメイドカフェで働いている。

「やあ、Iちゃん」

「ガルッ、ガルガルッ」

「調子はどう?」

「ガルガルッ!」

「メイドの仕事はもう慣れたかい?」
 
「ガルッ! ガルガルッ!」

「お会計を頼む」

 わたしはお会計を済ませて店を出た。Iちゃんのところには、オオカミに育てられた不遇な少女を一目見ようとたくさんの民衆が毎日やってくる。まるでサーカスの見世物。皮肉なのは、仮に彼女が人間らしさを取り戻したとしたら、彼女の今の人気はすっかり消えてなくなってしまうところだ。彼女には、今のままでもじゅうぶん素敵だと言って認めてあげる誰かが必要である。そしてそれは少なくともわたしではない。

 わたしは階段を上って本店7階へ並んだ。本店7階にはMちゃんがいた。わたしはかつて彼女に何度もコレチェキを書いてもらったことがある。彼女が素晴らしいコレチェキ書きの名手であることは誰もが認めざるを得ない。が、彼女のコレチェキには強い副作用がある。幻覚、幻聴、自律神経の乱れ、躁鬱感、思考の分裂、ふらつき、無気力症候群。わたしはMちゃんのチェキだけを注文した。

 しばらく経ってから、ステージの上でMちゃんがわたしの名前を呼んだ。わたしたちはティム・バートン監督が若い頃に撮った映画『マーズ・アタック』で、火星人たちが人間の顔を小型犬のからだに移植して笑い転げるシーンを模したチェキを撮った。

「ねえ、あなた、今回もあたしのコレチェキを入れなかったわね」とMちゃんが言った。

「だったら、どうしたって言うんだい?」わたしは言い返した。

「別にいいのよ。ただ、あなたが心配なの」

「ふん」

「病院には行っているのかしら」

「君には関係ないことだね」

「あなたがあたしのコレチェキを入れない理由はわかるわ。悪夢を見るのがこわいのね」

「こわくないね」

「いいわ、とんちき。あなたはそのまま何も残せずに死んでいくのよ」

「オーケイ、それがわたしの求めている人生さ……」

 彼女と話す時間はまだ残っていたが、わたしたちはそれ以上のことを話さなかった。それでいい。わたしは彼女と話すべきことの数十倍、書くべきことがある。ただ、ちょっとだけ刺激が足りないだけだ。Mちゃんとのコレチェキ……コレチェキ……コレチェキ……。

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