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ビートルズがくれる「自由」というギフト ~LET IT BEのギターソロに育まれる寛容性~

ビートルズの「LET IT BE」には、いくつかのバージョンがある(ビートルズの楽曲には、ほかにも「別バージョン」を持つものがあるけど、ひとまず話題を「LET IT BE」に絞りたい)。私が初めに聴いたのは、アルバム・バージョンだった。シンプルであるがゆえに心を揺り動かすピアノの和音から始まり、ほかのパートが重ねられていき、ディストーションのかかったギターソロが奏でられ、文字通りの「大団円」を迎える本曲は、この先も老若男女に愛されつづけるはずの傑作だ。
 
大団円という表現を使ったけど、ビートルズが(この曲がリリースされてから間もなく)解散してしまったことはハッピーエンドではないと思うし、歌詞に込められているのは楽観論ではないとも思う。身を任せようというメッセージは、そうすれば必ず幸せになれると保証をするものではなく、そうするよりほかない時間帯が人生にはあるものだよねと、トラブルに襲われる人を労わるものだと私は解釈している。
 
あまりにも奥深いこの歌詞について、これ以上を語ることは難しい。このレポートで主張したいのは「原作」だけが素晴らしいとは限らず、それぞれのバージョンに良さがあり、どれを好んで聴くかの自由が、リスナーに与えられていることである。そして、そうした自由を与えてくれるのは、つまり、どう料理されても感動を誘う曲を残してくれたのは、やはり原作者だということでもある。
 
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前述したように、私はアルバム・バージョンの「LET IT BE」から聴き始めてしまった(それがアルバム・バージョンであることを知りさえもしなかった)。のちにベーシストに転向することになる私が、唯一、流れるように弾けるギターソロが、この「LET IT BE」アルバム・バージョンのものである。グリッサンドやチョーキングといった技巧を求めはするものの、速弾きではなく和音を含みもせず、それでいて抒情的なソロを、どうしても弾けるようになりたいと思った。何百回、あるいは何千回、練習したか分からない。ある知り合いは「自分の親も、同じようなことを言っているよ、最初に覚えたギターソロはこれだって」と語る。
 
17歳だった私が、所属していたバンドのミーティングで、得意気に奏でてみせたソロを聴いて、年長のキーボーディストが「アルバム・バージョンを選んだんだね、そこがまた通(つう)だねえ」と言ってくれた。そしてリーダーは、チョーキングで出すべき部分(音)などを丹念に示してくれながら「ジョージ・マーティンをリスペクトするなら、本来はシングル・バージョンを選ぶのが正道と言えるのだけどね」と語った。そこで私はシングル・バージョンも聴いてみたのだけど、自分にとってはアルバム・バージョンのほうがクールに聴こえるなと感じ、そんな自分は「歩くべき道」を逸れているのかもしれないと思いもした。
 
そうやって身近な先達(市民ミュージシャン)に導かれてロックを知りはじめた私は、大学生になってから「専門家の考えを謙虚に知ろう」と思い立つ。初歩的な音楽誌は、ミスターチルドレンのアルバムが出るたびに読んでいたのだけど、ビートルズを論じる教養書の類も読んでみようと決めたのだ。中山康樹氏の著した「これがビートルズだ」を買い、はたして真相はどういうものなのか、知るべく努めた。中山氏は本書で「LET IT BE」のギターソロについては触れていないけど、アルバム・バージョンの装飾が大仰であることを指摘して<<名曲が拷問に耐えている>>とまで述べる。フィル・スペクターというプロデューサーも、その名を広く知られる存在ではあるようだ。それでも私が「こちらが好きだ」と感じた道は、中山氏のようなプロからすれば、やはり邪道であったわけだ。
 
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謙虚であることと卑屈であることは紙一重である。それから数年が過ぎ、社会に出てから、あることを契機に私は「どんな意見を先達が持っていようが、自分が好きなものを聴きつづけよう、そして奏でよう」と考えるようになる。それは傲慢な決意をした瞬間であり、同時にある種の寛容さが備わった瞬間でもあった。つまり、自分の意固地さを受け入れてほしいのなら、別の側を支持する人の(ある種の)意固地さも尊重しなければと思い始めたのだ。それは私が成長したことを意味するのかもしれないし、ポール・マッカートニーが偉大であることを意味するのかもしれない。たとえ「拷問」を受けようとも揺るがない旋律を、ポールは生み出したのだ。シングル・バージョンも、アルバム・バージョンも、そして「Let It Be... Naked」のバージョンも、それぞれの価値を持つ。きれいごとに聞こえるかもしれないけど、そのように私は心から思う。
 
そういう思いは、ポール・マッカートニーのワールドツアーで披露された「LET IT BE」を聴いて、より強いものになった。私は更に傲慢になり、更に寛容にもなった。メンバーとして選抜されたラスティー・アンダーソンは、決して目立とうとはしない。ポールの歌声をかき消すようなことはしない。それでも、奏でたのは、シングル・バージョンのものともアルバム・バージョンのものとも違う、ハードなソロだった。
 
手数の多い、ベーシストには(ギターを捨てた者には)真似できないソロには、アンダーソンの誇りが込められているように感じられる。それはポールと同じステージで、世界的な名曲の「LET IT BE」を奏でている誇りであり、そして自分もポールと同じ、ひとりの人間である誇りなのではないか。いわゆる「完コピ」をすることで、原作者への敬意を表すことは勿論できるだろう。でも自分の受け止め方を見せて、自分の感性を示して、それをしたって「LET IT BE」の輝きが弱まらないことを証明する、そうした敬意の表し方もあるのだ。自分の衝動に「身を任せる」ことは、必ずしも先達の顔に泥を塗ることになりはしない。心からの敬意を抱いているのなら、それは何かしらの形で相手に伝わるものだと思う。
 
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この拙文は当然、ビートルズへの(特にポール・マッカートニーへの)敬意を表したものだ。そして自分を育んでくれたバンド仲間や、音楽誌を編んでくれた人たち、そして中山康樹氏への感謝を込めたものでもある。さらに言うなら、自分の価値観が今後も認められ、自分もまた他者の価値観を認められること、それを願って書き上げたものである。
 
※《》内は中山康樹著「これがビートルズだ」より引用

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