第十六話 つじつまとほころび
伊賀晃とは女子寮の門の前で別れた。お互いに簡単な挨拶だけを済ませすぐさま背を向け会った。伊賀晃も自分と同じように早くこの場を立ち去りたいと思っているように感じた。唯一違うのは私をよく知る人が顔を見たら私と気づかないくらいぐしゃぐしゃに顔が腫れた惨めな姿をこれ以上見られたくないと思っていることだ。
玄関でスリッパに履き替え、部屋に戻る間にも私の目からは自動的に涙が溢れ続けていた。私は厳重に隙間なく確実に誰にも見られないように2段ベッドのカーテンをぴちりと閉めて横になる。
伊賀晃からもらったハンカチは水浸しになり、手で触って分かるくらい目は腫れていた。
ここまで人の体から水分が溢れでることがあるのかと一人関心していた。体の隅々に分布する水という水を顔に集め涙腺から外に流していく。指の先から水が無くなっていきしぼみ、ひからびてからからになる。それは徐々に体の中心に広がっていき心臓と頭部だけが残る。それらも徐々に灌漑で干上がり縮小されていくアラル海の様に侵食され、終に鼓動が止まり思考が停止する。
そんなことを想像したが指先は干からびないし心臓も止まらない。頭がぼうっとするだけだ。
私の何がいけなかったのか。何が足りないのか。今から悪い部分を全部、ウイルスに侵されたパソコンの中身を綺麗にするようにがらりと正したらまた忍者を目指してもいいのか。
伊賀晃の機嫌を直すことはできるのか。次に彼に会ったらどんな顔をすれば良いのか。
いっそのこと全部やめて実家にも戻らず逃げてしまおうか。何もかも捨てて。そしたら、何に対しても向き合わなくていい。
眠ることもなく、ひたすら2段ベッドの天井の板をぼんやり追いながら考えをあちこち巡らしていく。
気づけば陽はとっぷり落ち、冷えた空気が入り込んでいた。
うるさく鳴るお腹を押さえながら重い体を一所懸命に起こす。
こんなに落ち込んでいても何か食べたくなる自分が本当に面倒だと思った。きっと、大政奉還をした直後の徳川慶喜も同じきもちだったはずだ。
ベッドのカーテンを開け、スリッパを履こうとかがんでいると、音もなく部屋が明るくなった。
「……っ!?なにあんたいたの?」
よりにもよって、同室の中でも一番見られたくない中川春菜がそこにいた。大きな目をさらに大きくしていた。
私は顔を思い切りそらし、知らないふりをして部屋を出ようとする。
「ちょっと待ちなさい」中川春菜が言った。それでも部屋を出ようとしたら制服のスカートを掴まれた。
「なに?」
「あんた、伊賀先輩に振られたって本当?学校中の噂になってる。東雲三希が伊賀先輩を連れ出して、告白しに行ったって」
告白だって?なぜそう言う話になっているんだ。戸惑う私のことは気にせず、中川春菜は「ちょっと詳しく教えなさいよ」と話しを続けた。
「ただいまー……」
「千成、東雲ここにいたよ」
「東雲さん!顔が腫れてる……じゃあ、ほんとうに?」
「ほんとうってどういうこと?」
「だから告白の話だって」
私は深いため息をした。伊賀晃を呼び出して屋上に連れて行かれ私の信じていたことを全否定されたあげく泣き崩れて戻ってきたという事実を、こんな短時間で脚色されて広まることにすごく驚いた。訂正の言葉が上手く出て来ず、口をつよくつむぐしかなかった。
「あの伊賀家の御曹司相手に良くやるよね〜」
「うん、すごいと思う」
「伊賀晃ファンクラブの目をかいくぐって告白したのも賛辞に値する出来事だよ。私なんか呼び出すことすら難しい」
「東雲さん、いつでも相談に乗るから言ってね」
「は、はぁ……」
本人放置してどんどん話を前へ進めて行く二人に生返事だけして、冷えたご飯を口に運んでお茶を濁した。
空腹に負け、彼女達を避けて食堂に行くことが出来ず成り行きで一緒にご飯を食べる事になってしまった。
黙々と目の前のお味噌汁、生姜焼き、キャベツ、トマト、小松菜のおひたしを口に放り込む側で勝手にありもしない放課後の出来事と、私の伊賀晃に対する好意を想像して話し綴っていた。
もちろん周りには他の女子生徒もいて、聞き耳を立てていた。それがまたさらなる噂話を作り、今みたいに捕まるのかと思うとめまいがしてきた。
早くこの席から離れたい。
噂話に尾ひれが何本もついて面倒なことになる前に逃げ出したいと言うこともあったけど、徐々に増えてきた上級生の視線が私にも分かるくらい刺々しかった。
「ひゅー……こわっ。伊賀家のぼっちゃまに手を出すべからずだわ」
「春菜ちゃん狙ってたの?」
「ちょっとね、でも辞めた。無理だわ。私には荷が重すぎる」
部屋に戻ってもこの話は続いた。なぜこんなにもぽんぽんマシンガンの弾のように言葉が出てくるのか。
「そんなに伊賀晃の取り巻きはすごいのか?」
「あんたは東雲家のお嬢だから簡単に手は出して来ないだろうけど、私みたいな中途半端な立ち位置の家の人間なんて背後から突き飛ばされればかわいい方よ」中川春菜が言った。
「私も聞いたことある……寝ている間に拉致されて、池に沈められたとか、生き埋めにされたとか……」羽黒千成が言った。
「卑劣なやつらだな」私は目の前に広げられたポテトチップスを一つ口にいれた。
「殺しが許されていない一族たちがやることだから、内容はかなり盛られてはいるでしょうけど、何人か退学してるから酷い嫌がらせを受けていることは間違いないはず」
「殺しの許し?なんの話だ」
私が何気なく発したその言葉に、二人とも鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「え……?冗談でしょ?」
中川春菜が最初に口を開いた。私は冷静に「本気だ」と話した。
「忍業界で、人を殺していいのは国から許可を受けた蜘蛛霧衆とそこから直に委託された伊賀家、甲賀家の一部の人だけ」羽黒千成がぽつぽつと説明しだした。
「他の忍者が人を殺すと普通の人と同じく刑務所行き。こんなの常識でしょ?」中川春菜が呆れた顔で言った。
「え、じゃあこの学園では武術や暗殺術は習わないと言うこと?」
「当たり前じゃない。私たちがそんなの習っても使ったらブタ箱ロードよ。あんたが家でこの学校についてどんな説明を受けたかはしらないけど、ここは“普通”を勉強するところ。みんな家業があって、そのための特殊訓練や変わった生活を家では強いられるから。先生や職員が徹底して一般の学校と変わらない“普通”を演じて、卒業後、社会に溶け込みやすくするための訓練機関なのよ」中川春菜が話した。
「じゃあ、あの簡単すぎる勉強も……?なぜ真面目にみんな聞いてるんだ?」
「簡単かどうかは人によるけど、真面目に聞いたり答えるのは成績にかかってくるからね。学校や寮生活に馴染めないと進級できない子もいるみたい。あんた学校も寮の当番もサボってるから中々、イエローカードだと思うわよ」中川春菜がにやにや笑いながら言った。
「春菜ちゃん……寮の掃除は私たちも……」
羽黒千成の一言で中川春菜は徐々に鬼の形相に変わって行く。感情と表情がよく変わる女だなと思った。
「そうだ……東雲光希……あんた明日から逃がさないからね」
「なんのことだ?」
「掃除よ掃除!あんたがサボった期間、余分に掃除しないといけないわ、連帯責任でポイント下がり続けるわ大変だったんだから」
「ポイント?」
「普通を演じられたか見られるポイントよ!あんた、私たちが留年したら責任とってもらうからね」
だからあれだけ目くじら立てて私をしつこく追い回していたのか。ようやく彼女の行動やきつく当たられたことに対し、納得した。
私は伊賀晃の言葉をゆっくり思い出していた。この学校の方針と彼の言葉が少しずつ結びついていく。
忍者の仕事と何が関係するのかはまだ靄がかかっているけども、このまま逃げるのはすごく悔しい。
「ねえ、聞いてるの?」中川春菜がぼぅっと明後日の方を向いて考えている私に詰め寄る。
「う、うん。掃除もするし、学校も行く。でも、実家で掃除したことないから分からない…いつも掃除係がやってたから」
「つくづくお嬢様ね……。そんなの教えるから、とりあえずでてこい!それとね」
中川春菜は片手で両方のほっぺたを思い切り挟んだ。とっさに腕を振り払おうとしたが敵わなかった。
「教えてください。お願いしますでしょ」
「は、春菜ちゃん……」
「このお嬢には徹底的に教えこまないとね。悪い事をしたら“ごめんなさい”何かしてもらったら“ありがとう”も言えるようになりなさい」
「ふひょ…ほ…」
「なんだって?」
「春菜ちゃん……外してあげないと」
「おっとそうだった」
私はようやく痛みから解放された。こんな屈辱は初めてだ。
「で、返事は?」
「……善処する」
「むかつく言い方ね」
こうして明日から本格的な学園生活が始まった。
強引で口うるさく世の常識を指導してくる中川春菜に後々たくさん助けられることになるとは今の私はまだ知る由もなかったのである。
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