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蕎麦つゆを作る

 昔から蕎麦が好きだ。
ずっと折り合いの悪かった父との思い出の中でも、唯一と言っていい楽しい思い出は街に出た時(静岡の人間は市の中心部に出かけることを「お街に行く」と言うのだ)に食べさせてもらう「岩久」の箱そばと共にあった。
 父は郵便局員で、市内数カ所の局を異動で回っていたせいか街中の美味しいお店をいくつか知っていた。それは天ぷら屋だったり鰻屋だったりしたが、市内に何軒かある「岩久」の中でも呉服町の岩久にはよく連れて行ってもらった。
 「箱そば」はふつうの蒸篭ではなく一重の重箱に蕎麦と徳利に入ったつゆ、大きめの蕎麦猪口と薬味がセットになったものだが、なぜかうずらの卵が付いているのが子供の頃の僕にとっては何か特別な印象を与えていたように思う。古くからの蕎麦店だが、がちがちの蕎麦の名店というよりは街の食堂といった趣もあるお店で親しみやすく、僕はいつも連れて行ってもらうのが楽しみだったのである。
 
 そんなわけで蕎麦っ食いに育った僕だが、やれ挽きぐるみだとか、挽きたて打ちたて茹でたてとか、蘊蓄を垂れるほどの蕎麦っ食いではない。ちょっと小腹が空いた時にズズっと手繰って食うのが好きであって、遠方の名店に出かけるようなこともない。まぁ、ツーリングで大石田や北海道は幌加内など蕎麦処に行けば思わず暖簾はくぐるけれど。
 そういった具合だから家で蕎麦を食べる際はもっぱら乾麺を茹でて創◯のつゆなんかでお手軽に食べていたのだが、そこで今般の「丁寧な暮らし」である。もともと濃縮の麺つゆが好きではなかったカミさんのリクエストもあり、最近は出汁とかえしで蕎麦つゆを用意している。
 一般的なかえしの作り方は醤油5:砂糖1:みりん1と言われているが、僕はこれより少し甘めに作るかな。孫も食べたりするのでしっかり煮切って醤油にも火を通すやり方だ。そのかえしと出汁を別々に食卓に出して各自好みの濃さに割って蕎麦つゆにしてもらうのが我が家の食べ方。
 こうして作ったつゆの美味しいこと。かえしは少し寝かせた方が良いのかも知れないが、引き立ての出汁で食べる蕎麦はやはり美味しい。とは言っても蕎麦自体は乾麺の中でまぁまぁ気に入ったものか、半生のものが店頭にあればそれを使う程度で言うほどのこだわりはない。でも以前お茶関係の仕事をしている時に製茶問屋さんから聞いた
「素人さんは茶葉の味はまず分からないんだ。皆さんが美味しいと言うのは殆どが火香(焙煎香)の事なんだよ。」
を当てはめれば、素人が蕎麦店の良し悪しを言う時、つゆが甘いか辛いかと言うのは結構な割合を占めるんじゃないかと思うのである。

 僕の好きな故立川談志師匠の小噺で、今際の際の親父に何か思い残すことはないかと息子が訊くと江戸っ子の親父は
「一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆにつけて食いたかった。」
という落ちがあったが、僕もこんな気の利いたことを言ってあの世に行きたいと思うのである。


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