採血ルーティンを笑顔に変えた「袖すり合うも多生の縁」
例に漏れず、私は採血されることが好きではない。
だが笑顔で臨むことはできる。
採血にまつわる愉快な思い出があるからだ。
◇
採血が嫌いという理由には、痛いからということもあるだろう。だが、私の場合は、それが理由ではない。採血前のルーティンが面倒だから嫌いなのだ。
名前や生年月日の確認の他、採血前に尋ねられる言葉。
「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」
表現は幾らか違っても、アルコールに対するアレルギーの有無の確認をされる。
何度も通っている採血室で、しかもほぼ毎日のように採血に通っていた時期、この質問が繰り返されることが面倒で仕方がなかった。
だが、ある時から、その質問が好きで好きで仕方なくなる。
採血室でのご縁のおかげだ。
◇
その病院は、混雑すると採血待ちに1時間は当たり前だった。採血室の座席は6席ほどで、いつも混雑していたのだ。
患者の仲間うちでも採血待ちの長さが話題になっていた。「採血室がヤマ。あれが終われば後はもう楽ちん!」といわれるほどの難所である。
月・水・金と採血が続く毎日を過ごすうち、すっかり常連さんになる。採血をされること自体がルーティン。まるで採血室に通い続けるロボットのようだとさえ感じた。
皮膚も心も鈍感になっていった。
何も感じないほうが楽だ。
当時の私は、そう思っていたのだ。
◇
ある日のこと。
採血の順番が来て、指定の席に座り、いつも通りの会話が始まる。
「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」
ルーティンの質問に答え、虚ろな心持ちで私の腕は駆血帯が巻かれるのを待つ。
ふと、隣の席の会話が耳に入ってくる。患者は年配の男性だ。
「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」
隣の席でも同じルーティンが行われている。年配の男性は耳が遠いのか、大きな声で質問を繰り返すよう促していた。
ルーティンの質問を聞きなおすということは、ひょっとして、この方は初診なのかもしれないな。私はチラッと隣席の様子を伺った。
男性は何やら楽しそうに微笑みを浮かべている。採血にウンザリしている風ではないから、やはり新患だなと判断した瞬間、会話の続きが耳に飛び込んできた。
「んーーーっ。アルコールぅ??アルコールなら大丈夫だぁ。ふふっ。毎晩、毎晩、おいしぃーくお酒をいただいてますからぁ!はっ!はっ!はーっ!」
ゆっくりと明瞭な語りが辺りに響く。
続けて、晩酌の内容、即ち、お酒の種類や量の説明をされていたが、その会話は頭に入ってこなかった。
笑いを堪えることに必死になっていたからだ。
◇
あの方のお顔は覚えていない。朗らかな声のトーンで楽しそうに晩酌の話をされていた印象だけが残る。
一生に一度きり、ほんの数分隣の席に座っただけの関係。もちろん、消息の知りようもない。
だが、私はあの愉快な体験を忘れられないのだ。
採血のたびに、注射のたびに、点滴のたびに、小さな贈物を受け取っているような気持ちになる。
「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」
あれ以来、この質問に対して、私は明るい気持で言葉を返す。
「はい。アルコールでカブレたことはありません。」
あの方とのご縁に心の中で手を合わせつつ。