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心の病を克服する:「のびのびと生きる」姿勢に宿るチカラ

心の状態がよくない。そういう病は多数あるにも関わらず、よく耳にする病名はある程度決まっている。

「うつ」という病が圧倒的に多いのではないだろうか?

私が心を病んでいたときにも、「うつ病?」と聞かれることが多かった。

しかし、病名について丁寧な会話をしてみると、友人らとの間でも「そういうことはないだろうな」という結論になる。

なぜなら、うつになりがちな性格や気質に私が当てはまらないからだ。

うつ病になりやすい気質(性格)としては、生真面目、完璧主義、自分に厳しい、凝り性、気を遣うなどがあげられ、そのような性格のためにストレスを受けやすいと考えられます。

引用元:
すまいるナビゲーター「うつ病」 


子どもの頃から自由奔放な性格だった。

生真面目や完璧主義ということもなかった。

部分的に変態すれすれのバカ真面目だったり、部分的に手抜き大魔王(=手抜きの名手)だったりする。

「手をかける塩梅」を采配することが楽しいと感じる性格なのだ。

そのため、バカ真面目な側面しか見ていない人には、うつ病の可能性を疑われることもあった。だが、総合的に私の人物を見ている「近しい人たち」からは、「うつ病なんてアリエナイ!」っと、鼻で笑われるほど「おおらかな性格」だったのだ。





今は、自分の病名を知っておくことは治療の一環とでもいう向きがある。

SNS等でも「私は○○の診断を受けてます」と公言されている方も多く見受ける。それほど「診断名を知る」ということが、一般的になってきているのだろう。

それはそれでよいのかもしれない。

だが、私が心の病を治療していた当時、今から30年ほど前は、心の病に限らず診断名というものを聞かされることなく治療を受けることが通例だった。

尋ねたら教えてもらえたのかもしれないとは思う。

けれども、尋ねるという気にならなかった。

治療を受けていた心の病の名前を知らずに私は通院を続けていたのだ。





当時から、「うつ病」について記述された書籍は店先にならんでいた。

「うつ病」に関する本、それら周辺の本を、必死で読み漁った時期もある。心の病に対してできる努力をしたいと考えたからだ。

病に困っていた部分も多かったため、病を治すという目標に関しては、バカ真面目な特質が現れたのだろう。

努力の結果、「私はうつ病ではない。それどころか、うつ病にさえなれない性格だ」と知ることができた。

では一体何が悪くて私は通院をしているのだろう。疑問を感じなかったといえばウソだった。

けれども、主治医に対して、診断名を尋ねることはしなかった。

「尋ねる」という選択肢が浮かばなかったからだ。

「おおらかな性格」が顔を出したのだろう。





今となっては「診断名を尋ねなくてよかった」と思うしかない。

私自身の持つ「おおらかな性格」こそが、正確な診断の手がかりだったのかもしれないと思うからだ。ひょっとしたら治癒への道筋を描くヒントになったとさえ思う。

心の病が完治したと思える今。闘病の時期から一定の年月が経ち、この手がかりは「私だけの特例」として心のうちに秘めておいてよいものなのかと考えるようになった。

「心の持ち方」を広く分かち合う。

その手段のひとつとして「書く」という選択肢を模索している。