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各自の意見は「等価」という意識の大切さ
「自分のことは案外わかっていない」という説がある。
それは一見真実のようにも映るが、筋違いの説だと私は捉えている。
各自の意見は等価であることが対話の大前提
他人が自分をどう評価しているかという側面と、自分は自分のことをどう評価しているかという側面があって当然なのだ。
評価というものは、各自の「独断」で決めることが「思想の自由」として認められている。
だから、私は、自分のイメージと「全く違う女性像」を押し付けられることに対して抵抗はするが、自己イメージと「全く違う女性像」を他人が抱くことは仕方がないと許容している。
寧ろ、その許容があって初めて、自己イメージの真実を伝え続ける権利を得ると考えるのだ。
人と人が対等に対話できるためには、各自の意見は等価であることが大前提なのである。
大前提を崩す行為を無意識に行う人々
相手の自由な思想を許してこそ自分の自由な思想も許されると考えている。
だから、私は他人の意見が自分と違っていたとしても、原則は自分の意見は○○、あなたの意見は××。「お互いの意見は違いますね」という対等な関係で違いを確認し合える相手ならそれはそれでよいというスタンスだ。
相手の評価に自分の評価を寄せていく必要もない。単に「意見が違いますね」というだけのことだ。
しかしながら、「自分の経験が多いから、自分の判断のほうが優れているはず!」であるとか、「自分のほうが年長だから、自分の判断のほうが正解だ!」と主張する人たちがいる。
実際、自分の評価はあくまでも「自己評価」なのだ。その評価を他人に強要することはできない。
と同時に、周りから勘違いな自己評価だと指摘を受けることは筋違いであるし、冒頭に述べた「自分のことは案外わかっていない」という指摘を受けることも論外である。
他者からの評価と自己評価とが一致していないからといって、「自己評価が間違ってますよ」と、嘲り笑うなど愚の骨頂だろう。
サンプルの1つという認識で発言していこう
例えばもし、私のことを誰かが「固定観念コチコチに固まった女性像」として認知したとしよう。そして、「自分のことは案外わかってないものだよ。あなたはとても女らしい。古風な女性像そのものだ。」と評価したとする。
しかしながら、それはあくまでの「他人の意見」としてのサンプルの1つでしかない。だから、その言葉に感化されずに「社会通念上の女性からはかけ離れた内面を持つ女性」という自己評価を持ち続けることは何ら問題ない。
もちろん、そのような不当と感じる評価を他人から受けることはストレスにはなる。だからといってガチガチに喧嘩をしていくこともしなくてよい。
だが、「自分のことは案外わかってないものだよ。あなたはとても女らしい。古風な女性だ。」的なことを「唯一無二の真理」であるかのように私に意見を押し付けてくる人がいたとしたら、場合によっては戦うだろうし、大抵は距離をおくことになるだろう。
各々の意見は、あくまでの一個人の意見「サンプルの1つ」でしかない。そういうスタンスで他人と関わってこそ、対等に対話もできるだろうし、発展的な会話もできるというものだ。
一方的に意見を押し付ける人との関わり方
どのような意見であっても、「全ての意見は等価であり平等である」という信念のもとでなければ、対話などできない。
「あなたの自己評価間違ってますよ」などと、各自の判断を見下したような態度の人とは、同じ土俵に上がってはいけないのだ。
自分の意見が「絶対評価」であるかのようなスタンスの人は、どのような会話をしても「自分の意見が正解」という結論しか認識できない脳の仕組みを持っているかのよう。
これまで度々そのような方を関わってきたが、離れる以外に対策がみつからない。
延々と泥沼にはまっていくしかない苦しみを早急に予見して、その関係に足を踏み入れないことも賢者の選択といえるだろう。
「自分のことは案外わかってない」という表現の適切な使用は
「自分のことは案外わかっていない」などという言葉は、自分自身に使うものだ。
他人からの意見を聞き、自分が納得したときに「そうだな自分は自分のことが見えていなかったな」という気持ちを自ら示すときに使う言葉である。
そのような表現を「自己評価が間違ってますよ」と他人が指摘するときに使うのは、筋違いを超えて、一歩間違えば言葉の暴力にもなり得るだろう。
しかしながら、そのような自覚もなく安易に言葉を使うから、対人関係で問題が起きるのだ。
適時適切な言葉を使うこと。思いやりの心で他人と対峙する姿勢。何より、意見は等価という原則を忘れずに生きていきたい。
それは学歴の上下を超えた人としての教養でもあるし、貧富の差を超越した人の器を表す指標でもあるのだから。