名残惜しいくらいが丁度よい関係なのかもしれない:姑と私
先日、栗の実を手に入れた。季節ごとの美味しい食べ物に目がない私は、心がわくわくと躍るのを感じた。
つやのある栗の皮を見つめ、調理方法を思案していたら、ふと、姑にも食べてもらいたい気持ちになったのだが、私にはそれを行動に移す勇気がなかった。
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新しい夫婦の形を目指す。
これは私の意向であり、夫はそれに従った形で今がある。
だが、夫の家族は、私の意向を強く後押ししてくれたともいえる。夫の家族、即ち、夫の母親は、姑と嫁という感覚を全く無視しているからだ。
「無視」というと、一見、印象はよくないかもしれない。けれども、この関係は案外居心地がよいものである。
姑と私が同席して、一緒にご飯を食べたことは数回程度。年に一度あるかないかの頻度である。
姑の手作りの料理を食べたこともなく、私の手料理を食べてもらったこともない。いわゆる、至極全うな「他人関係」を築いているのだ、私たちは。
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滅多に会うこともない。私の存在すら忘れているかもしれない。それでも、決していがみ合っているわけではないし、相手への印象はよい(はずだ)。
世間一般的に姑と呼んでもいいのかと思うほどの希薄な関わりだが、時々、つい美味しいものを届けたい衝動に駆られる。季節ごとの美味しい食べ物を目にしたときには、姑に食べさせたい気持ちになってしまうのだ。
時には、夫を介して食材だけを届けることはある。
だが手作りの食べ物は御法度だ。決して踏みこんではいけない領域なのだ。
何がこの判断をさせるのだろうか。敢えて言葉にするなら、距離感を適切に保つ本能が判断しているとしかいいようがない。
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姑と私は「他人同士」であると互いに立場をわきまえる。そのおかげで、関係を維持できるとしたら、関わらない判断は大事なこと。
名残惜しいくらいが丁度よい関係なのかもしれない......と思いつつ、自分で炊いた栗ご飯を食べた。