見出し画像

専門を持つ意義「ジェネラリストorスペシャリスト」

「自分の専門はこれです」といったモノをみなさんはお持ちだろうか?

私は、それらしいものがない。

「専門は1つではなくてもよいけれど、2つ、せいぜい3つくらいでは?」という言葉を、学生の頃、異口同音にいわれた。私がアレコレと首を突っ込みたがる性質(たち)なのを心配してのことだろう。

実際、その言葉で耳にタコができたが、今もその癖を治せずにいる。



専門の定義は「深く理解して人に説明できるほどの基本を持っているということ」であり、かつ、「知識の枠とその中身を知っている」ということのようだ。

一方、専門家ほどではないが、それに近い形でそれに通じる知識を持っているというケースもある。

専門家から話を聞くことができ、意味のある相槌をうてるくらいの知識はあるという具合だが、教養の範疇に収まる専門知識とされることのようだ。

専門家ではないが、専門家の聞き役程度はできる教養。

その程度の教養を節操なく持っているというのが私の思う自己像である。



大学の学部生の頃、米国へ何度か語学留学をしている。

語学学校では、テーマを決めていろいろな議論を行う。その中に、「ジェネラリストorスペシャリスト」というものがあった。

この議論では、ジェネラリストとスペシャリストを次のように定義していた。

ジェネラリストとは、何でも広くできるタイプで、コレといった専門はない人。スペシャリストとは、何かの専門を持ち、専門のことにだけ精通している人。

それぞれのメリットデメリットを上げ、今までの時代はどちらが好まれたか、現代ではどうかを議論しあった。

インターナショナルな人が集まるという語学学校ならではの特性を生かし、どこの国ではどちらの傾向が好まれるかという議論もなされた。

そうして、今後は、どちらが優位であるか?あるいは、自分はどちらを目指したいか?と議論は進んでいった。



「日本はジェネラリストを好む傾向があるのでは?」と唐突に質問されたことを覚えている。

日本を代表するほどの人間ではないが、一旦、日本を出たら日本代表のように扱われてしまう。だから、私は仕方なく答えた。

根拠としたのは、高校入試や大学入試の科目の多さ。複数の科目に偏りなく優秀な成績を収めることが求められる傾向にあると答えたと思う。確かに日本はジェネラリストを好む傾向があるのかもしれないと。



語学学校での議論は、スペシャリストになることのほうが「人間として自然な成長の結果」という結論になった。

何かに偏りがあるのが当たり前で、それをジェネラリストにさせる行為は「矯正(=correction)」のような印象を受けるのだとか。

また別の意見としては、表面上ジェネラリストに見せるために、本来なら何かのスペシャリスト的な要素を持っていても、そのずば抜けてデキる部分を切り捨てて無駄にしている可能性があるという。

例えば、もし、全て100点をとったという試験の結果があったとしたら、どの科目かは200点くらいとれる能力があるはずだといった意見だった。



結論ありきの議論のようにも思えて、個人的には若干不満の残る議論であったが、1点だけ、私は強く同意した部分があった。

スペシャリストとして「専門」を持つようになると、専門以外のことに口出しをしなくなるのだという。

それが専門を持つということなのだと。

だから、専門を持つということは、専門以外のことの専門家を尊重することにもなるのだと。

なるほど、そういう目線もあるなと納得した。



自分は何の専門家であるのか?

未だ見つけられそうにない。

けれども、「自分が専門としないことには口出しをしない」というスタンスを固辞し、他者を尊重する生き方を求めていく気持ちは変わらずにある。

それを心がけていけば、いつか自分の専門がみつかるのではないかという淡い期待をいだきつつ。