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[映画]インフィニティプール
ブランドン・クローネンバーグ監督作品
「インフィニティ・プール」を見て感じたことを書いていきます。
以下、ネタバレも含みますので
未鑑賞の方は鑑賞後にお読み頂くことをお勧め致します。
また、あくまで個人の感想ですので
こんな見方もあるよね、というレベルでお楽しみください。
誰しも、自分自身の性格に直したいところや、気に入らないところはあるものだと思う。
当然、私も例には漏れず、自分で嫌だと感じる性格を持ち合わせている。
例えば優柔不断なところや、つい人任せにしてしまうところ、恥を恐れるところなど、あげればキリがない。なんなら、自分の好きなところよりも、嫌なところのほうが簡単に見つけられるくらいである。そんな性格も、自分の嫌なポイントの一つであるので、甚だ救いがたい。
もう10年近くも前にはなるが、就職時の面接では、自身の美点をアピールしていかなければならなかったため、私のような性格の人間にはかなり堪えた記憶がある。
そんなネガティブな性格を活かせる職業が無いものかと感じるが、世の中そう上手くはいかないので、なんとか折り合いをつけて日々生活している現状である。
今回鑑賞した映画「インフィニティ・プール」については、私のような、自分の性格の中に嫌いなポイントが多くある人にこそ見てもらいたい映画だと感じた。
本作の監督を務めるブランドンクローネンバーグ氏は、何を隠そう鬼才デヴィットクローネンバーグ氏のご子息である。
そして親子共々グロテスクかつSFチックな表現が多く、カルト的なファンが多い。なんとも血筋を感じずにはいられない。
一方で、やはり親子で作風の違いも見受けられる。私が感じているのは、表現しようとする対象についての違いである。
息子であるブランドンクローネンバーグ氏は、自他の境界線や自我の存在に深く踏み込んだような、哲学的な表現が多い。
前作の「ポゼッサー」では、他人の意識に入り込める世界をベースに、自我の有様を描いていた。
そして今回「インフィニティ・プール」では、自身のクローンを作成することができる世界をベースに話が進められていく。
クローンを作成する目的についてだが、本作では"身代わり"のためである。
金を待つ人間は、罪を犯した時にクローンを作成して身代わりとして処刑させることができる。
そして、クローンは見かけ、記憶までそっくりそのまま保持している──
それがこの世界におけるクローンの使用方法である。こんなすごい技術他にいくらでも使い道あるだろ!という野暮なツッコミは、ここでは控える。なにせ舞台は政治的に閉ざされたリゾート地。金持ちの観光客は限られた区域でリゾートホテルを満喫し、貧乏な地元民は治安の悪い地域で日々の暮らしに追われているのだ。
この地域では、クローンの使用法はこれ以外ないくらい正解だろう。
ご多分に漏れず、本作の主人公ジェームスもクローンを作成し、身代わりにしていく。
鑑賞中、このように感じた方は多かったのではないかと想像する。
「殺されたのは本当にクローンなのか?」
殺されたのがどちらであったのかは、本作の理解にあまり重要でない箇所であると思うが、
強いて言えば、私は、殺されたのはクローンではないと捉えている。
それは本作において、このクローンの殺害が
"過去の自身の否定"
の比喩表現として用いられているからだ。
主人公ジェームスはうだつの上がらない作家であり、妻とその実家の力でなんとか生きられている、俗に言うダメ人間である。
よく見ていくと、このダメ人間が、クローンが処刑される度に少しずつ変容していく様がスクリーンに映し出されていることが分かる。
一度目の処刑で、妻に頼りきりで不甲斐無いこれまでのジェームスが殺される。それゆえ、一度目の処刑を起点に、彼は妻の元から独立し、ミアゴス演じるガビ達と行動を共にしていく傾向が強くなっていく。
二度目の処刑で、唆され、自分の意志に反して簡単に悪事に手を染めてしまったジェームスが殺される。これ以降は、彼はむしろ自分の意志で悪事に加担していくようになる。
最終的に、彼は自らの手で殴りつけ、クローンを殺害する。この時彼が殺したのは、周囲に弄ばれ、犬にまで堕ちてしまった彼自身。
また、自身が取るに足らない作家であるという現実を突きつけられ、完全に絶望した彼自身である。
彼はこのように、クローンの殺害を通して、過去の嫌な自分を否定し、処刑させ、殴りつけ、殺し続けるのである。
最後の処刑の後、本作きっての迷シーンとも言える、血まみれの授乳シーンが差し込まれる。
これまでの事を踏まえると、このシーンは過去の自分を殺し続けた彼が、ついに新しい自分へと生まれ変わり、今この世に誕生したという表現であると言える。
そして、ついに物語は締めくくりを迎えるわけだが、本作のラストは非常に残酷なものであった。
バケーションを終え、帰路に着く各々の中、主人公ジェームスだけは虚な目でホテルに戻り、本作は終演となる。
このラストについてどう理解するべきか、かなり思い巡らせたところではあるのだが、私はこのように捉えた。
"過去の自分を否定し続けた結果、自身を構成するアイデンティティーが何も残らなかった"
ジェームスは上述の通り、過去の嫌な自分を、クローンの殺害を通して否定し続けてきた。普通に考えれば、その先には理想の自分が待っているはずであった。しかし、その否定し続けた対象こそが自身に欠かせない要素であり、結果として彼には何も残らなかった、という無惨な結末である。
冒頭述べた通り、誰しも自分自身に嫌いな部分はあると思う。そして、それを消し去りたいという気持ちもごく自然なものである。
しかし、それを実践した時、果たしてそこに残るのは自分なのだろうか?これまでの自分とは違う何かに変容してしまっているのではないだろうか?
残酷な結末を通して、自分の嫌いな部分も自分として受け入れていくしかないのだという、これまた残酷なテーマを提示してきた本作。
一方で、やはり無理に自分を変える必要など無いのだという意識にも繋がった。
ひとまず私は、これまでの私も受け入れつつ
これからもやっていこうと思う。