6 ベルクソンの生命論に関する(誤)解釈
ここで「ベルクソンの生命論に関する(誤)解釈」を挿入しなくてはならない。この考えは入院前からあって、あとはベルクソンの著作から裏付けなりあるいは反証なりを調べればよい状態になっていた(これは入院中には不可能な作業だ)。そしてこの解釈は、入院生活中折に触れて思いだすことになる説なのだ。
それは哲学史の授業で先生が「ベルクソンとラマルクは似ている」とその相違点にとくに触れずに述べたところからはじまる。これは大雑把な理解としては正しく、哲学史の授業のなかではそのようなまとめ方も正当なのだろう。だが私はこれについて違和感をおぼえた。ラマルクは「獲得形質」を唱えた。これは簡単にいえば、「高いところの葉を食べたいと思った動物が、そのために長い首を獲得する方向へ進化した」という説である。
これは現代では否定されている説である。さて、違和感というのは、科学に対する見識も相当にあったベルクソンのような哲学者がラマルクに素朴に同意するような形で生命論を展開するだろうか、というものだった。
この違和感自体は正しい。本筋ではないが簡単に説明すると二者の違いが次のようなものだ。ラマルクは、「高いところの葉を食べたいと思った動物」のように個体の意志に進化の原動力をみる。だが、ベルクソンのエランヴィタールはその個体に貫流しその背後を流れる生命それ自体の躍動である。個体の意志ではなく生命それ自体の躍動によって生物は進化する、それが彼の主張である。
この説もまた科学的には証明しようのないものなのだろう。だが、ベルクソンがここで対抗しているのは、要素要素の結合と分析で全体を捉えようとする思考法なのだ。『意識に直接に与えられたものについての試論』では、心理現象をさまざまな感覚や意識から考えてそれがどう結合するのかと考える従来の心理学者に対して、「意識に直接に与えられたもの」は「純粋持続」という全体であって、そこから分析して個々の感覚というものについて考えることは可能でも、個々の感覚をつなげあわせることによっては生きた経験の全体について考えることは不可能である、と主張される。
ここから考えると、ここでは、器官のさまざまな小部分をそれぞれ独立の要素のようにみてその突然変異から進化を考えようとする思考法に反対しているのである。この点ではラマルクも同じ批判を受けるべきだろう。突然「あの高いところにある葉っぱが食べたいな~」などと考えだすのはほとんど精神的な突然変異である。
突然変異などの説は結局それぞれの器官だけに着目して生命という全体を見逃している。ここにベルクソンの論点があったのだろう。
だがしかし、それは病床によこたわる狂人には関係のないことだ。
私は次のように考えた。
ラマルクの「獲得形質」にしても、ダーウィンの「自然淘汰」にしてもそれは結局「物質が物質に適応する」ことでしかない。つまり、ある生物の形質という物質が周囲の環境という物質に適応するということでしかない。ラマルクは生物は環境という物質に適応するために自らの形質という物質を変化させると考え、ダーウィンはたまたま環境という物質に適応できる形質という物質をそなえた生物が生き残ると考えた。
しかし、「物質が物質に適応する」まえに、「生命が物質に適応する」ことが必要なのではないか。物質としての器官は謎めいた肉塊にすぎない。生命体はこれを生命を維持する装置として解釈することによって、まず「物質に適応」しなくてはならない。
突然変異で生まれた畸形生物はまずこの肉体の扱いに困惑するはずだ。だがそのように生まれたものも、生命体である以上生きることをあきらめることができない。その与えられた体でなんとか生きようとする。そして、その形質でも生きることのできる生活様式を見つけたものが、新たな種として存続する。
以上が私のベルクソン(誤)解釈である。
さて、この解釈を折に触れて思いだしたのは入院生活の今のこの状況自体が「生命が物質に適応する」状態であるように感じられたからだ。私は立つこともままならない状態で、自分の体の使い方をまた一から学びなおしている状態なのではないか。私は自分の体に再適応している真っ最中なのではないか。
あるとき肉を食べているときに一瞬のどにつまらせかけた。このとき、私は幼い頃にも同じ具合にのどにつまらせかけたことがあったな、と思いだした。ああ、そうか、あの頃は「食べる」ということをまだ十分にマスターしていなかったんだ、そう私は思った。
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