ゲームがなければ「愛している」と伝えられない臆病者と「荷」と「溝」
Kyoto Reading Club の読書会に向けて、課題本を読んだ。
小さい頃に病院で〔スーパーマリオブラザーズ〕をプレイして多くの時間を過ごしたセイディとサムが、大学生になって再会し、人生をかけてともにゲーム制作にトライする男女の友情の物語。
サムとセイディは「一番の親友」だった。ゲームをつくることで二人の関係は”友達”では表現しきれないものになっていく。
「愛している」と伝えられないサム
セイディはサムのことをよくわかっている。言葉にしなくても、サムがセイディを愛してることはわかってるはず。二人の1つ目のゲーム制作が完了した直後、サムはものすごく満たされた気持ちになっていた。
病院のゲームルームで現れたセイディ。大事な人がいなくなっても、他に大事な人が現れる、釣り合いの取れた世界。
本書をめくるとはじめに現れる詩がある。
このときサムにとって荷はセイディ、溝とは母親だった。ともに道を歩んでいけるセイディと、心に傷を残し、過去になった母。
「愛してる」も「ありがとう」すらも言えていない自分がサムに重なる。
言葉にできない”愛”
サムとセイディはずっと仲良しだったわけではない。
子供の頃に入院していたサムは孤独だった。事故で怪我をして何週間もだれても口をきかずに過ごしていた。ゲームで通じ合うことができたセイディは唯一の友達だった。セイディは1年と2ヶ月通い続けた。しかしそれは社会奉仕プロジェクトでもあった。それを知ったサムはつながりを絶った。
以来セイディを恨み憎んでいたが、ともにゲームを制作する日々を重ねて、友人からの言葉もきっかけとなり、サムはセイディの愛を受け入れ始める。
『違国日記』のラストにも重なるシーンがあった。槙生(まきお)が朝(あさ)につたえた「それ(あいしてる)では言葉が足りない」と同じように、だいじにおもうからこそ言葉にできない”愛してる”ということ。
言葉にすると軽くなってしまうとか、気恥ずかしいとか、わざわざ口にしなくてもいいとか。いろんな理屈はつけられるけれど、言葉にできない愛。
どうして人はこれほどまでに、愛を言葉にできないのだろう。
愛することの恐怖
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』にこんな言葉がある。
愛は与えれば同じだけ返してもらえるものではない。相手のことを配慮し、尊重し、深く深くその人のことを知ることに尽くしても、相手が愛してくれるかどうかはわからない。
サムは怖かった。セイディがいくら「愛してる」と伝えてくれても、愛してもらえない日がくることを予感していた。セイディの愛に不釣り合いだとどこかで思っていた。あえて不釣り合いにすることで、安心したかったのかもしれない。
サムはセイディにゲームの中で自分がプレイヤーであることを明かさず「愛してる」と伝える。相手がどんな反応をするかを見ずに済み、これまで重ねてきたいろいろなことのない、まっさらなゲームの世界で。彼はそのためだけにひとつのゲームを作った。
「荷」と「溝」とは
エミリーの詩にある「荷(freight)」と「溝(groove)」についてもう一度かんがえたい。
荷車がとおる道には、荷の重さに釣り合った溝ができる。溝は荷の重さを教えてくれる。目に見えるかたちで伝えられる。
愛してるといくら強く深く重くおもっていても、それを言葉にしなければ伝わらない。自分がだいじに思っているのなら、その分たくさん言葉にしたほうがいい。
そんな単純で意外性のない真理が、この詩とこの物語には込められていた。
ゲームを作れない我々が愛を伝えるには
サムはセイディに愛を伝えるためにゲームをつくった。我々(すくなくとも私)はそんなことはできない。
「愛してる」はハードルが高い。まずは「ありがとう」「ごめんなさい」からなら言葉にできそうだ。プレゼントをあげたり、相手が好きな料理をつくったりするのもいい。相手が好きなものを好きだといって、だいじなものをだいじにする。5年10年したら「愛してる」も伝えられるかもしれない。
愛を伝えることを明日また明日そのまた明日に先延ばしにせず、今日いますぐはじめよう。