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【女性に優しいサロン】お金を稼いでは一文なし。アメリカでビジネスをする怖さ<第一話>
月に一度、身近で働く女性にフォーカスし、
ざっくばらんにお話しを伺う連載
《女性に優しいサロン》
私の周りにはパワフルで
魅力的な女性がたくさんいます。
そんな彼女たちですが、
この数年を見ていると
「マインドや人生を変えた」
方々を多く見受けます。
自身もその内の一人。
リアルに体現しているからこそ。
彼女達も何故このタイミングなのか、年齢的なものか、
そしてどう変わっていったのかと
お聞きしたいと強く感じました。
仕事のことや身体のこと、
将来のことで
立ち止まって悩んでいる女性たちへ。
お話の中から
ちょっとしたヒントを頂き、
人生の一歩を踏み出しましょう。
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第六回目のゲストとしてお迎えした方は、LA在住のAYUMIさん。私の友人の中では群を抜いて、ポジティブでアクティブ。山あり谷ありの豊かな人生を送るユニークな話をお伺いしました。まずは、彼女の年表を見て頂ければ。
文化服装学院スタイリスト科卒業後アパレル会社ファッション須賀(HAKKA)で勤務(ここでサロンオーナーMと出合う) → gomme → SHINICHIRO ARAKAWA 3年間勤務 → Sosu MIHARA YASUHIRO7年間勤務 → 34歳結婚と同時に渡米。
3年後離婚。全財産$160を握りしめ、サンディエゴからLAに。
2009年に自社ブランド『As Is』を立ち上げ、全世界展開。
2014年に『As Is』をインド人投資家に乗っ取られる。
2015年新たに『eis』を立ち上げ、アメリカの2つのコンペティションで受賞。
2016年 デニム企業にブランドを売却。自身は、その企業でデザインディレクターに就任。
2018年、別のカリフォルニア、ライフブランドのクリエイティブディレクターとして就任。
2020年 コロナ禍になり解雇。
現在フリーランスの起業コンサルタントとデザイン/スタイリングとして活動中。
◼︎サロンオーナーM (以下M)
たくさんあり過ぎて、年表にしてみました。なんとも華やかな?1つ1つステップアップの人生ですよね。色々聞くことが多すぎて、どこから聞いていいのやら(笑)。
第一話 お金を稼いでは一文なし。アメリカでビジネスをする怖さ
第二話 一人ではない。私を信じてくれた人たち
第三話 沢山の経験があったからこそ、辿り着いた私だけのビジネス
◼︎ M
まず34歳で渡米したきっかけは、旦那様がアメリカの方だったという事が一番大きいと思います。ですが近くで見てきた私だからこそ、当時日本から脱出し、環境を変えたかったのではないか、とAさんから感じ取れました。
仕事環境でも海外との関わりも多く、多様な経験をしてきたからこそ、日本の窮屈さを感じていたのではありませんか?また、年齢も30代に入り、女性としての人生も模索し始めたり...。
ー当時そういう思いがあったのであれば、自身の振り返りも兼ね教えてください。
◼︎AYUMI (以下A)
まさにその通りです。その当時、ハイブランドの会社で企画や生産業をしていました。圧倒的な仕事量で、日々仕事に追われて。例えば、朝9時半から夜中12時までびっしり。終わらなければ、会社に泊まるような生活。
◼︎ M
特にコレクションブランドは、ですね。
◼︎ A
コレクションが始まる1週間前からどんどん忙しくなり、ほとんど寝る時間もなかった。東京で過ごした13年間は、ギチギチに生活をしていました。
ただ、27歳頃から海外に出張に行ったり、海外の人と仕事をしたりする機会が増え、彼らの仕事のモチベーションや仕事以外のプライベートの時間の使い方などが、日本と全く違うことに気づいたのです。
1度でいいから海外で生活をしてみたい、と思うようになりました。
当時の会社で、英会話スクールに通わせて頂いたのがきっかけで、アメリカ人講師と知り合い、結婚。しかし、この結婚はロマンスもありましたが、策略結婚みたいなもの(笑
というのは、
彼は《アメリカに帰りたいけれど、帰るためのお金がない》
私は《日本を離れたいけど、ビザの問題が...》
《じゃあなんとかしよう!》という話になったのです。
その当時、日本でパーマネントビザ(グリーンカード)を申請すると、通常より早く安く取れました。今は状況が変わっていますから、この方法が通用するかは分かりませんが。
◼︎ M
笑笑
ーその後アメリカで自社ブランドを立ち上げた経緯、やめた理由を教えてください。
◼︎ A
3年後、彼と離婚しました。すると、2人でシェアしていた銀行口座をフリーズされて。手持ちで現金は$160。車に飛び乗り、サンディエゴからLAの友人宅に転がり込んだんです。お金はありませんでしたから(笑)。その友達が経営していたビンテージストアで働き始めました。
![](https://assets.st-note.com/img/1664353909017-IUt76vGrYD.jpg?width=1200)
そこで私が出来ることといえば、クリエーションをすること。売れ残った古着が沢山あり、それを1点1点リメイクし売り始めたのです。
ストアの場所がLAで最も有名なメルローズアベニューにあったので、世界中からバイヤーが市場調査として見に来ていました。例えば、イギリスのTOPSHOPやアメリカのUrban Outfitters、HotTopicやPlanet Blueなど。
すると商品が彼らの目に留まり、お取引が始まったのです。しかし相手は大企業ですから、オーダー数が一万枚近くあったのです。私が作っていた商品はリメイク品で、1点1点顔が違う。それに、それだけの枚数の在庫の確保も厳しい。需要に対する供給ができない。そういったリスクを回避するために、自社ブランドを立ち上げ、新しい服を売り始めました。
◼︎ M
そこでリメイクに目を付けたところが、商売のセンスだよね。
元手を掛けずに利益を生む。お金がない時は、手間をかける。さすがだよ。
![](https://assets.st-note.com/img/1664354005837-JCevBxmjne.jpg?width=1200)
◼︎ A
ありがとう。
その後、順調に商売が進み、全米5都市にショールームを構え、世界400〜500店舗に卸しをするほどに。
お金の面や交渉ごとなどに苦労していたので、そういった面を任せられるNYC出身の投資家兼経営者のインド人を紹介してもらい、パートナーシップ契約を結びました。
知人の紹介ということもあり、さほど調べずに契約をしてしまったことが、ことの始まりです...。
◼︎ M
聞くのが怖い。何が起きたの?
◼︎ A
実は、Foever21から注文を頂いたのです。すると、あることが私の頭をフッとよぎったのです。
それは、以前Foever21がライセンス違反の件で工場を訴訟しました。そこの工場の社長がその後、自殺をしました。だって訴訟額は10億ですよ!
そしてパートナーの彼らはTシャツブランドを持っていました。が、ライセンスのことで違反していることを知りました。これはヤバい!私は自身のビジネスまで悪い影響が出る前に、パートナーシップの解約を求めたのです。
すると彼らは私の行動が気に入らなかったのか、逆訴訟してきました。
気に入らなければ、すぐ訴訟を起こす国。アメリカでビジネスをする怖さです。ナイーヴな日本人では、アメリカで通用しません。
もちろん、私も弁護士をつけ戦いましたよ。しかし法律のことでもあるし、言葉の問題もありましたから、日本人の弁護士を付けたのが、間違いでした...。
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やはり、日本人は弱かった...。
ブランド商標からブランドビジネスまで、今まで積み上げてきたものを、全て乗っ取られてしまった。
それが1つ目のブランドをやめざるを得なかった理由です。
この続きは、第二話で。
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