トノバンが生きた時代と私たち 〜『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』を見て〜Cinema Discussion51
公開映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
第51回の今回より、場所をこちらのnoteセルクルルージュページに移動して、お届けします。
これまでの50回の映画紹介は、こちらからご覧ください。
セルクルルージュWEB SITE
今回は加藤和彦さんのドキュメンタリー
『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
を、紹介させて頂きます。
映画評論家川口敦子と、川野正雄、川口哲生の3名が、それぞれの作品に対する思いを、綴っています。
川口哲生
1958年生まれのわたしにとって、1970年代中頃から1980年代初頭の自分のパーソナリティ形成に、加藤和彦さんはとても大きな意味を持つ存在だったと思います。笑
それは川勝正幸さんが書いているように加藤さんの、正に「音活(音楽と生活)の一致」という価値観であり、何を聴き、何を着、どんな髪型をし、何を食べ、どんな部屋に住み、どんな車に乗り、どこで遊ぶかというものを貫く統一感、完全性への執着というものを強く意識するきっかけとなったという意味において。そしてそうした貫くスタイルを決める上での優先権が音楽にあった時代が確かにあったいう認識において。
若い時代のセルクルの仲間たちもその時々の音活スタイルは次々と変化していくし、実はそれらを選び取る時には、さまざまなかっこよさに常にアンテナを張っていた人間だったから、同時期に興味を持つ音楽的ムーブメントやファッションスタイルがある中で何を選択し何を捨てていくかのバランスの取り方に自分のアイデンティティを確立していたと思います。
また一方では加藤さんが「音楽は人生の副産物」と言っているように、「フランスベットにあの子とGEキッチンあれば、あとはどうにかなっていきます」からヨーロッパ三部作を産むスーパー・スノッブな生活まで、時代時代の加藤さんの興味、スタイル変遷を産む時代性、環境、パートナーシップ、ライフステージを語ること無しには、加藤さんの年代ごとのクリエーションを真に理解し得ないと思います。私たちなりに自分の加藤さん史とその時代を振り返り紐解いていきましょう。
★1960年代末、フォーククルセイダーズ時代 京都
わたしが加藤さんに初めて接するのは、やはりこのフォーククルセイダーズの『帰ってきたヨッパライ』を小学生の時にラジオで聴いた時だと思うけれど、当時の小学生には全く理解できなかったし、なんでもありというハレンチさということも理解できずに通り過ぎた感じです。音源の作り方や編集や実験性をリボルバーから発想といっても子供には全く刺さらなかった。笑
この映画で見ると、バンド結成当初の横分け黒縁メガネのアメリカのカレッジフォーク的な格好(アイビーですよね)から、このヒットソングの頃はすでにマッシュルームでドノバン的な変遷がありますね。バンド内でも当初の格好に近い北山さんとサイケに振れたはしださんとのギャップがありますが。笑
それよりはその後の70年代初めの伝説的CM「モーレツからビューティフルへ」の印象がわたしのかっこいい加藤さん像の初めての体験だと思います。
小学生ながらヤング720や日本版ヘアーの上演といった限られた情報ではあったけれど、なにか時代が変わる漠とした予感を持っている中でとても象徴的な映像として覚えています。
フォークル後の裸に長髪のジャケ写からここに至るまでに、1969年には初のアメリカも体験し、ヒッピーカルチャーを体験してるんでしょうね。
そしてこの頃の京都はやはりミカとの出会いから結婚へというところにも意味があるように思います。「ぼくのそばにおいでよ」だものね。
★70年代初期 サディスティック・ミカ・バンド時代 ロンドン
1970年のミカとのカナダのバンクーヴァーでの結婚式の写真を映画で見たけれど、かっこいいですね。二人とも真っ白で長髪の加藤さんは白のスリーピース。
これってジョン&ヨーコのイメージだよね。サディスティック・ミカ・バンドだってプラスティック・オノ・バンドからだろうから加藤さん、絶対意識していたと思う。映画の後のシーンで出てくる安井かずみさんとの結婚式はオールバックに黒のオーソドックスなタキシード、この対比だけで加藤さんの音活一致を感じてします。笑
自分的には洋楽一辺倒だったから、むしろデイビッド・ボウイやT.Rexをやっと同時代的に体験できる音楽の波(ビートルズもストーンズも自分のドンピシャな同時代感はない)として感じ、そこから逆に手繰るように「サディスティック・ミカ・バンド」に辿り着いた感じですかね。
音はグラムの影響を受けたストレートなブギやちょっと当時の日本ぽさも感じるロックンロールで、ボウイみたいな『アリエヌ共和国』もかっこいいけれど、『怪傑シルヴァー・チャイルド』のヘヴィーなドラムイントロからワウの効いたギター、ダヴィーなベースにミカの笑い声の重なりはぶっ飛んでるし、『恋のミルキィーウエイ』なんかちょっとロックステディみたいで、当時のロンドンの音楽を貪欲に吸収してるように思います。
もう70年代には年に頻繁にロンドン通いらしいし、映画の『サイクリング・ブギ』の演奏時の様な前髪短いウルフカットにグラニー・テイクス・ア・トリップのサテンスーツにロンドンブーツという感じでしょうか?1972年から73年ごろは。
アルバムジャケットのアロハ柄やジャケット中写真のラテン衣装みたいなインチキトロピカルみたいなキッチュさ、「ダンスはすんだ」やのちの楽曲にも見られる歌詞のユーモア感も独特な気がしていました。
これらは、WEB社会で誰もがさまざまな情報にアクセスできる今と画期的に違う情報格差が極めて大きく存在した社会(結局その頃のキャンティがそうであった様なうめられない情報格差)で、海外のかっこいいものをいち早く取り入れて咀嚼できる力といったものを感じます。
そして1974年『黒船』。このアルバムが意義深いのは、イギリスでの評価を受けクリス・トーマスがプロデュースを申し出て作られたこと。つまり、海外の最先端を日本に持ち込むではなく、日本人として海外で勝負するための、日本人としてのアイデンティティに向き合う作業であった様に思います。
そこで加藤さんが松山猛さんと共に産んだのが、墨絵の世界を揺り動かす黒船(日本と外国の邂逅)をテーマにしたコンセプトアルバムだと思います。
音的にはロック、プログレそしてブラックミュージック的なより複雑なさまざまな要素が感じ取れます。加藤さん名義の彼らしいメロディを持つ「四季頌歌」「さよなら」等のヴォーカル楽曲と、Sadistics名義のよりベースやドラムがファンキーさを感じさせる「嘉永6年6月2日」や元々のコンセプト外で急遽録音されたスライ&ザ・ファミリーストーンみたいな『塀までひとっとび』の混ざり方がこのバンドらしいと思います。小原礼さんが高橋幸宏さんとこの時期、ポートベローでレゲエのアナログたくさん買ったという話を読んだ記憶がありますが、ロックにとどまらない様々な同時代的な音楽を聴いていたのだと感じられます。
そして、海外に対して日本を打ち出していく時、後のYMOにも通じるシノワズリ的なアジア性エキゾチシズム性を敢えて利用しているところも感じられます。『墨絵の国』のキーボードの旋律の中、映画の中のBBCでのライブ映像の加藤さん、幸宏さんのサテンのチャイナ衣装、ミカのおかっぱ、カンフーの様な掛け声等々。
そして1975年、『HOT!MENU』には個人的には色々影響されました。何より加藤さん、幸宏さんの髪型。笑ブライアン・フェリーなんだろうけど、もはや長髪の時代ではない大きな転換期ですね。笑
ジャケット写真も銭湯にドブロギターというかっこよさだし、幸宏はさんは自分のBRICKS着てるのだろうけれど、ミカとかのポシェットとかエスニック感とかKENZOのジャングル・ジャップとかのちょっとパリぽいイメージも感じていたのを覚えています。
音的には、後のSadisticsに繋がる、映画の中で高中さんが言っている様に、クロスオーバーとかフュージョンとかの影響を感じました。琉球音階やレゲエ、サンバといったワールドミュージックの取り込みとその消化の仕方の独特のユーモアが先進的だし、「ミラージュ」や「テキーラ・サンライズ」のSEはサントラの様な感じで今でも大好きです。今野雄二さんがジャック・ニコルソンに捧げた「ヘーイご機嫌はいかが」も楽屋落ちぽくていいですね。
★70年代後半 帰国後ソロ活動への時代 安井かずみ以前と以後
私にとっても、そして「音活一致」的などういう選択をするかという意味でも1975年あたりから1979年あたり(私の高校から大学時代)はとても興味深い時代だった様に思います。自分の聴く音楽の幅が格段に広がった中、様々なジャンルでの動きがあり、またそれらが相互に影響し合うような面白い時代でした。
例えばごく限られたトピックスをあげてみましょう。
1975 デビッド・ボウイ『ヤング・アメリカン』ブラックミュージックやsoulとの関係性、disco
1976 ドクター・ブザーズ・オリジナル・サバンナ・バンド デビュー
POPEYE創刊 西海岸的世界観
マイケル・フランク「アート・オブ・ティー」
セックス・ピストルズデビュー Punkムーブメント
1977 トーキング・ヘッズ 『サイコキラー1977』
クラフトワーク「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」
グレース・ジョーンズ『Portfolio』Studio54
デビッド・ボウイ ベルリン三部作スタート〜1979
マイケル・フランクス『スリーピング・ジプシー』
1978 トーキングヘッズがイーノとコンパスポイント・スタジオで『モア・ソングス』レコーディング
1979ロキシーミュージック『マニフェスト』
時代の先端を常に走ってきた加藤さんがこの時期どこへいくのか、そしてその時の選択を生んだ背景を考えるのは興味深いように思います。
ここで加藤さんはロンドンぽいものから大きく方向を転換して、1976年のマッスル・ショールズへ行って『それから先のことは』にいくわけですよね。もちろんPunkには行かなかった。マッスルショールはきっとポール・サイモンが使って、乾いたレゲエぽい曲作っていたからだと思うけれど。この背景には、この映画で語られている、ミカさんとの決別と安井かずみさんとの新生活という人生の大転換があるわけですね。
そして、この時はまだその後の貴族的なスノッブな価値観ではなく「キッチン&ベット」的に生活をシンプルに、大事なものは何かみたいな価値観を歌ってるのが泣けますよね。
格好はPOPEYE的なアディダスのスポーツウェア。
ジャケット写真は赤いBRICKSのスーツにアディダスのスーパースター、ポラロイド写真もこの時代的ですよね。映画での『シンガープーラ』の映像ではカーリーヘアに日焼けが大きな変化です。
私もこの時代、髪も切り、ラフォンのメガネかけて、BRICKSやCOZO とか着てと大きく音活一致の方向が変わっていった様に思います。笑
そして1978年『ガーデニア』あたりは、シティ・ミュージックというクール &メローな時代感を反映しています。ちょっと恥ずかしい。笑 この頃は今野雄二さんのスーパー・スノッブの時代でしょうか?
音的には直球でマイケルフランクス、トミー・リピューマがプロデュースしたジョアンの「アマロッソ」ですね。映画内の竹内まりあさんと話している写真でも、2人が手にしているアルバムはマイケル・フランクのものですね。
幸宏さんの「サラヴァ」もこの年です。「カクテル・シップ、クール・アンド・ヒップ」という感じでしょうか?笑
また、この頃今野雄二さんも夢中だったドクター・ブザーズ・オリジナル・サバンナ・バンドにもインスパイアされていたと思いますね、加藤さん界隈。
Sadisticsの1977年のアルバム収録「Far away」や加藤さんがプロデュースした1978年の竹内まりあさんの『戻っておいで私の時間』にその影響が顕著ですね。
1979年のヨーロッパ三部作の『パパ・ヘミングウェイ』はヘミングウェイをコンセプトに据えたことでのヨーロッパ的な要素と、ハバナ寄りの楽曲の混在。
私としては、当時シティミュージック的な世界とさすがにPunkには行かないけれどnew wave的な新しいうねりの両方に目配りしていく中、このアルバムの『サン・サルバドール』での大村さんのギターや加藤さんの決めのフレーズにnew wave的な要素を感じて一人悦に行っていました。この映画でもこの曲の演奏風景が出ますが、オールバックにサングラス、黒のフレンチラコステにイタリアンな茶の皮パンツとかかっこいいですね。この頃の装苑でもゼロックスで切り貼りした様なPunkやnew wave視点の情報ページがあったけれど、黒いフレンチラコステはそこでもペーター佐藤さんだったかが着ていて、POPEYE的な世界観とどちらからもアプローチのあるアイテムだったと思います。笑
★80年代以降 21世紀の子供たちとの親和と齟齬
80年代の加藤さんは、アルマーニやベルサーチで固め、安井かずみさんはシャネルでしょうか、とてもゴージャスなカップルだと思いました。ちゃんと海外行っても恥ずかしくない、教養、身の処し方が自然なカップルあったと思います。でもお互いの関係性で、どんどんスノッブ性を強めていってしまった気がします。
何か憧れるという対象ではなくなっていった様に思います。
音楽的には、より実験的になり1980年の『うたかたのオペラ』はロシア構成主義とか暗殺の森とかクラフトワークとか重いものになっていますね。ファンカラティーノやスカみたいなところもありよりnew wave的なアプローチも感じます。「ルンバ・アメリカ」は好きでした。
これ川野くんがキッドクリオールにあげたレコードだよね。
1981年『ベル・エキセントリック』はまさに安井かずみさんとの共作のためのコンセプトでしょうね。ココ・シャネルやディアギレフ、コクトーと資料積んで作ったんだろうな。テーマとしては自分もとても好きですがアルバムとしてはあまり聞き込んでいないですね。
80年代中頃からは、私たちはもっとクラブミュージック的な世界観に行ってしまった。
服買うよりレコード買うみたいな時期だった様に思います。その中で、加藤さんの存在感も私に中では薄くなりました。
その後は音楽ではなく私も何着か仕立てたことのあるサヴィエルロウの仕立て屋ハーラン&ハーヴィーで100着スーツ仕立てたみたいなところでの興味になったかな。その時期は、イギリス紳士的な、ずっと変わらないこと、奇をてらはない在り方みたいなことに価値を置いていらしたけれど、加藤さんの価値ってどんどん興味の赴くままに変わり、それになりきっていく才能な様な気がします。
むしろ最後に選んだ英国紳士的なずっと変わらないことが、自分の不自由さになったのではないだろうか?
川口敦子
★1960年代末、フォーククルセイダーズ時代 京都
映画はいきなりオールナイトニッポンの話題で始まりますが、1967年12月、シングルリリース時、小6の私には深夜ラジオは遠い存在で、だから「帰ってきたヨッパライ」も世間一般で話題となったころ、テレビで初めて見て聞いて、まあなんだか変な、どちらかというとコミックバンドなのかな?みたいな感じで受容されていた部分もあった気がする大人たちの反応に抗することもなく接したように思いますね。「いわゆるふざけをして」って映画『トノバン』の中のインタビュー引用場面、つるっと大人しい若者みたいな雰囲気で登場してくるフォーク時代の加藤さん自身の発言もありますが、そこにこめられた"ふざけ″の真意を多くの一般人は理解してなかったように子供ながらに感じた気もする。そんな世の中の反応の上滑り感。大島渚監督はそのあたりも意識的に活用して映画『帰ってきたヨッパライ』を撮ってみせたんじゃないかな。ずっと後年にフィルムセンタ―(現国立映画アーカイブ)の大島特集(2010年)で初めて見たんですが・・。往時のマスコミ的基準の中、流行としての〝アングラ″って呼び方にしても、もひとつ真のアンダーグラウンド評価とは別の、極限すればイロモノ扱いだったような記憶があって、そういう部分をむしろ、逆手にとるみたいな気概というか、距離の感覚を監督大島も加藤さんももっていたのかな。
フォーククルセイダーズに関してはむしろ「イムジン河」の方が中学のフォーク好きの同級生たちの間で発売中止ってことが話題になっていて、その意味で親身な? 記憶があります。松山猛さんのコメントにある曲の由来は井筒和幸監督の「パッチギ!」をめぐって知ったわけですが、京都ということを改めて考えてみたくもなりますね。
★70年代初期 サディスティック・ミカ・バンド時代 ロンドン
サディスティック・ミカ・バンド時代というのはこの時代のボウイやマーク・ボラン、ロキシーミュージック等々と同様、隣の部屋、つまり哲生くんの聴くレコードとして知り、ジャケットとして目にしていた、もろ弟の影響下で受容していた音でありヴィジュアルでありスタイルであったんですが、今回、スクリーンに流れてくる当時のものをきくと自然、ああって懐かしく思えるのが面白かったです。それだけ音楽としてのインパクトがあったということでもあるんじゃないかと、改めて今頃気づいていたりもしています。歌詞も意外なくらいに残っていて、スクリーンに向かいながら口をついてでてくる、ちょっと驚くくらいに刻み込まれてるんだなあ、と。独特のアナクロニズム、これは松山猛の世界なのかな。ボギーとかデューセンバーグとかにアンモナイトもからんであははん、いいですね。そういえば70年代半ばにかけてはハリウッドでも懐古な映画が流行っていたなあ。ジャック・ニコルソンの『チャイナタウン』とか夢中になった、そのあたりと重なる時代でもあるんですね。ここはやはり今野雄二さんの影響を無視しては語りませんよね。哲生くんがメールでリマインドしてくれたようにニコルソンくっきりと影を落とした今野さん作詞の曲「Gokigen ha ikaga」もありましたね。
ファッション的には76年ごろになると少し前のKENZOとかの海外進出もあるいっぽうでTD6やもっとマイナーなキラーストリート界隈のデザイナーブランド時代がやってきて、そのあたりでもジャケ写参照度は高かったよね(笑) 幸宏ブリックスとか行ったら奥の方から睨まれた、なーんて思い出もあります(笑)
★70年代後半 帰国後ソロ活動への時代 安井かずみ以前と以後
正直いって〝以前″の尖鋭さに対する〝以後″のスノビズムに対してはうーんという感じもあった。日焼けしてテニス選手、20年代フィッツジェラルドの頃のスポーツ選手なんでしょうけど、そういうのかっこいいけど、真似もしたけど、だんだんエクスクルーシブな趣味みたいな方ばかりが強調されるみたいで、ひっかかりもあったなあ(笑) 私たちと旅行するときにTシャツとジーンズはやめてといわれたって、証言も映画には出てきて、そう主張してあくまで実践する言行一致のスタイルと生活って感じ、わかるんだけど(笑) 繰り返せばこのあたりのスーパースノビスズム? 加藤さんと共に今野雄二さんの影響は映画を見る上でも、それ以外でも無視できない大きさがあった、それは確かですよね。多分、安井かずみ(シンガプーラの歌詞は素敵で大好き、人生を忘れそう――っていいなあ)をめぐってコシノジュンコさんが語っているグループ、さらにも一つ前のキャンティ時代の欧米受容とセレブリティのまぶしさとうとましさみたいな流れもありましたよね。個人的には初めの頃、ヨーロッパ退屈日記の頃の伊丹一三のまぶしさとその後のうーんとも関係している気がしますが。そういう時代に生きてきたので最近の(といってももうしばらく前からのですが)洋画離れとか、海外への関心、憧れの薄さ、日本の土着的なものの方への興味といった傾向は興味深いけれどなんでなのという思いもある。そういう世代に加藤和彦という存在がどう映るのかもきいてみたいですね。
★加藤和彦と周りの人々について プロデュースのセンスに関して
時代の先を行って面白いものをとらえる才能、センスがプロデュースの面でも発揮されていますよね。桐島かれん、木村カエラってかわいさの目の付け所も素敵です。あと『だいじょうぶマイ・フレンド』とか『探偵物語』とか映画音楽のよさも見逃せません。
★おしゃれについて 食、ライフスタイル等も含めて
ヘミングウェイからベルリン、モスクワ、パリ、20世紀初頭のアバンギャルドへの目くばせというあたりは、私自身の興味と合致していてとりわけ興味深かった。実は80年当時、PARCOで月刊アクロスというマーケティングの雑誌の編集部にいたんですが、レストラン・キャンペーンに登場した加藤さんの撮影風景を取材してコメントももらった。緊張してたんですね、具体的にまったくその時のことが思い出せないんですが(笑)81年2月号、アクロス史上でもちょっと話題を呼んだ「タコツボカタログ」って実は哲生くんにも協力してもらった当時の若いコたちのファッションやら生活スタイルやらを独断と偏見できめつけカタログ化した特集が載った、その号で紹介している加藤さんのグルメキャンペーン、「20年代気分にタンゴ」って見出しがある記事の発言をこの際だからご紹介しますと――「食べることは僕自身好きだし、興味もありますね。ただ食べるっていうんじゃなく、ひとつの社交の場になるでしょ。例えば食事が夫婦の社交の場でありえるわけだし。今回のCFはストーリーがあるというわけではないですけど、デカダンスを感じさせる画面で、いいと思いますよ。今は、ヨーロッパに一番ひかれるんですが、そんな雰囲気。映画でいえば『家族の肖像』の感じだと思うんですね」――衣装もすべて自前とのことである、と発言をフォローして書きました(笑)〝雰囲気を食べる都市生活者に送るレストラン広告表現″――時代を感じます(笑)
川野正雄
★1960年代末、フォーククルセイダーズ時代 京都
フォーククルセイダーズ時代に関しては、小学生だったという年齢的なこともあり、ヒット曲『帰って来たヨッパライ』や『悲しくてやりきれない』程度の知識しか持っていませんでした。
加藤さんの没後、初めて真剣に聞いたというのが、実際です。
グループの尖った部分というのは、リアルタイムでは感じることが出来ていませんでした。
映画でも触れられている『コブのない駱駝』などは、今聞いても新鮮ですし、すごい曲だなと思います。
その時代自分は、ザ・タイガースなどGSをよく聞いていましたが、同じ年にリリースされたザ・タイガーズのコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』と、共通する面を感じました。それはサウンド的には1967年という年代もあり、ビートルズの影響も多分にあったのではないかと思います。
またキャンティという場を通じて、加橋かつみさんとの交流などもあったのではないかと想像します。安井かずみさんが初めてザ・タイガース〜沢田研二の作詞をした『シー・シー・シー』も1967年で、この時代の日本のポップス〜ロックが変革していくシーンの中で、加藤さんの東京での当時の動きはわかりませんが、フォーククルセイダーズの存在は、トリュビュート的に見ると大きかったと思います。
いずれにしろ、加藤和彦という音楽家は、60年代世間に登場してきた時から、日本の中では圧倒的に進んでいて、常に進化している存在であったという事を。この映画を見て、改めて体感的に理解することが出来ました。
映画にも登場する北山修さんとの関係性が、最後まで継続している点から、スタイルは変われども、加藤さんのような才人でも、ファンデーションを大事にしていることが伺えます。
★70年代初期 サディスティック・ミカ・バンド時代 ロンドン
自分が加藤さんの存在に注目し始めたのは、サディスティック・ミカバンド時代からです。
日本版ローリングストーン誌に、今野雄二さんがロクシー・ミュージックとミカバンドのツアーレポートを連載しており、そこで強く関心を持ちました。
その記事との前後関係の記憶は曖昧ですが、ライブも2回ほど見ています。1回は後楽園球場のフェス、もう1回はどこかホールでした。単独ライブではなく、どちらもイベント的なコンサートでした。細部の印象はもう薄いのですが、ミカさんのパフォーマスが当時としてはすごく新鮮で、大きな刺激を受けました。
ミカバンドは存在時代が格好良かったですし、映画の中で再確認もできますね。
スカを多分日本で一番早く取り入れたり、グラムロックとの絶妙な距離感など、音楽的な先進性は、私が指摘するまでもないと思います。
映画にクリス・トーマスが出てきたのは驚きました。彼のインタビューは、この映画の中でもハイライトと言えるほど、貴重なものでした。クリス・トーマスの語りで、なぜミカ・バンドをプロデュースしたのか、少し理解が進みました。
★70年代後半 帰国後ソロ活動への時代 安井かずみ以前と以後
加藤さんのアルバムで一番好きなのは、『それから先のことは』です。安井さんとの最初の作品ということもありますが、思い切ってアジアやカリフォルニアに振り切った感じが、当時としてはとても気持ちよかったです。安井かずみさんとのコンビでの、最高傑作ではないでしょうか。
その後の『パパ・ヘミングウェイ』や、キッド・クレオールにプレゼントした『うたかたのオペラ』はよく聞いていました。
NYでキッド・クレオールの家に行った時、レコード棚の手の届きやすい場所にしっかりと入っていたので、聞いてくれていたんだなと思い、感激したのを覚えています。
『パパ・ヘミングウェイ』は、1979年リリースで、パンクにフュージョンが全盛の時代に、この緩やかなアルバムを出したのは、今考えると、すごく斬新だったなと思います。
哲生君も同様の事を書いていますが、僕は最後に買ったあるアルバムは、1981年の『ベル・エキセントリック』で、それ以降は聞いていません。
自分の関心がクラブミュージックや、ブラックミュージック、ジャマイカン・ミュージックに大きく移り、加藤さんの音楽活動とは距離が出てしまいました。
ただヨーロッパ3部作を今聞くと、自分の耳の成長もあり、より加藤さんの意図がわかったような気がしています。それは加藤さんの音楽の幅広さ、奥深さを、改めて認識したという事でもありますし、この映画で再確認もできました。
陳腐な表現ですが、加藤和彦すごいなということを、改めて感じる映画ですね。
それから加藤和彦/安井かずみコンビに曲を提供してもらったこの時代のアーチスト達は、心の中で小躍りするくらい嬉しかったのではないかなと、想像します。
★80年代以降 21世紀の子供たちとの親和と齟齬
ミカ・バンドの再結成なども、自分から観に行くなどのアクションを起こすことはありませんでした。
スーパー歌舞伎の仕事、和幸などのプロジェクトも、興味を持って接することはありませんでした。
この映画でも後半の活動はあまり触れられていませんが、映画的には加藤さんが一番輝いた時代の音楽活動にフォーカスするテーマだったのかなと思います。
外野からのなんとなくな印象ですが、この頃は加藤さんご自身が納得して活動されていないイメージを、常に持っていました。
様々なメディアを通して見た加藤さんの姿(常に意識して見るようにしていました)が、不完全燃焼に映っていた時代です。
★かっこよさの先導者としての加藤和彦と時代 欧米がまぶしかった頃をめぐって
高橋幸宏さんがデザインしていた原宿のブリックスは、時々行っていました。お金がなかったので、なかなか買い物はできなかったですが、白いミカバンドのロゴが入ったトレーナーを買っていました。
そのブリックスの上にあった古着屋スタークラブは、憧れの存在でした。ブルーのウエスタンブーツや、加工したデニムを売っていて、高校生には値段が高くて買えなかったのですが、すごく欲しかったです。
スタークラブはアメリカンスタイルに、オシャレ感を追加していて、本当にかっこよかったです。
4階にあったブリックスは、かなりデザインされたヨーロッパテイストだったのですが、ややデザインされすぎた感があり、当時の自分の好みとは少し違っていて、MILK BOYやBIGIの方が服的には好きでした。
70年代末頃から加藤さんの興味が、ロンドンからイタリアに移っていったと思うのですが、その時代って、FIORUCCIや、BALLなどイタリアンカジュアルと、アルマーニ的なデザイナーブランドが、一気に世界的に流行った時代だったと思います。
1981年哲生君とミラノのバルバスに行きましたが、バルバスに興味を持ったのは、加藤さんの影響です。飛行機で膝が出ないのはアルマーニのスーツとか、洋服のデザインと機能性、両面から語る加藤さんのコメントは、いつも参考にしていました。
加藤さんのファッションに関するセンス、先進性というのは、誰も追いつけない領域だったと思います。自分にフィードバックできる部分は少なかったけれど、その世界観は、日本、いや世界の中でも突出していたのではないかと思います。
★おしゃれについて 食、ライフスタイル等も含めて等上記時代別の部分でふれきれなかったことをコメントしてみてください。
安井かずみさんとのライフスタイルの注目度は高かったですが、敦子さんや哲生君も言っているように、2人のスノッブなライフスタイルは、メディアや広告に溢れていて、引いた気持ちになっていました。
自分たちでは到達できない世界ばかりを提示される語り口は、憧れを通り越して、お腹いっぱいさを感じていたというのが、正直な感想です。
島崎今日子さんの名著「安井かずみのいた時代」を読むと、更に夫婦間の虚構性に鋭く切り込まれており、印象は大きく変わりました。
かずみさんとの関係性は、実際のところはご本人たちでしかわからない部分ですが、2人とも自分たちが作ってきたイメージの維持に、消耗を重ねていたのではないかと思います。
映画でも、かずみさんとの夫婦生活の扱いは、思ったより少なかったと感じました。
最後かずみさんはかなり寂しい思いをしたようですが、加藤さんに看取られて、逝くことができた。かたや加藤さんは1人で逝ってしまった。
そこに運命の皮肉さを感じます。
加藤さんの自死という事実は、当時とても衝撃的でした。その後出版された幾つかの本は読みましたし、NHKの番組も見ました。
本を読んでも何故加藤さんが亡くならなければならなかったのか、よくわかりませんでした。
鬱ということだけでは片付けられないですし、死も加藤さん自身の演出の一つであったような事は、関係者の方のコメントから窺い知る事は出来ました。
亡くなるより前に遺書が友人の手元に届いてしまったという話を聞いたことがありますが、加藤さんの演出性を感じるエピソードでした。
実は亡くなる一年位前に、ある美術展のパーティで、加藤さんの友人から加藤さんを紹介されました。ただその時は、残念ながら心ここに在らずという感じで、パーティも楽しそうではありませんでしたので、お話はほとんど出来ませんでした。
その後その加藤さんの友人から、和幸のライブのお誘いも頂いたのですが、時間のやりくりも面倒で、お断りをしてしましました。
今思えば、見に行っておけば良かったのですが、和幸というユニットに魅力を感じていませんでした。
京都に行った際には、タクシーの運転手さんから、亡くなる直前の加藤さんを乗せたという話をされた事もあります。何故突然運転手さんが私に加藤さんの話をしてきたのかはわかりませんが、加藤さんが最後に京都を訪れたという事実を、肌で感じました。
加藤さんの翌年には、今野雄二さんが自死されました。敬愛する先人たちが60代になり、生き抜けない社会になっているのは何故なのか。自分も60代に差し掛かる年代になり、その頃はよく考えていました。
その答えは今も見つかっていませんが、加藤さんも今野さんも、大切にしてきたことの価値が失われつつあり、時代に合わせて自身をアップデートすることが難しかったのではないかと思います。
加藤さんは豪華なスタジオも晩年は手放したという話も聞きましたが、膨大に消費していくことが、生き方にもなっていて、その辺のバランスが崩れてきたのではないでしょうか。自分の満足する生き方ができないのであれば、生きていく意味も感じなくなってきたのではないか。
加藤さんの音楽に対する姿勢を、この映画で見て、改めてそんな事を感じました。
『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
2024年5月31日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開中
ⓒ2024「トノバン」製作委員会