熊野御前(ゆやごぜん)―なれしあづまの花やちるらむ―
みなさま、こんにちは。
好きな花の香りは?と聞かれたときに、みなさまは何を挙げるでしょうか。
私がまずに頭に浮かぶのが「藤の花」です。郁々たる藤波は晩春の象徴だと思います。
さて、私のふるさと、豊田町(現磐田市)に行興寺という古寺があります。
かつて豊田町池田の地は、旅人の行き交う東海道の宿場町であり、天竜川の渡し場がありました。
なお、天竜川とは、水源の諏訪湖(長野県)から愛知県、静岡県を経て太平洋へと注いでいる一級河川です。
今日は私が学生時代に書いた熊野御前に関する文章を載せてみようと思います。再掲にあたり、若干の修正を施しました。
能がお好きな方は、世阿弥『熊野御前』や三島由紀夫『近代能楽集』を思い浮かべていただければと思います。
文章の最後に登場する藤は、現在、国指定天然記念物(昭和7年に指定)になっています。
* * * * *
時は平安末期。華やかな時代が静かに終わりを迎えようとしていた。池田の宿に「熊野」というひとりの女性がいた。父は近辺の長者であり、母は和歌や琴に秀でた心やさしき人であった。そのような両親のもとで育った熊野は、才色共にすぐれ、歌舞音曲の道にも通じ、親孝行な娘となる。そしてこの熊野の評判は、時の権力者であった平宗盛の耳に入った。
治承4(1180)年のことである。熊野は上京し、宗盛に仕えることになった。花のように心やさしい熊野は都人の間でも大変な評判となり、人々から「熊野御前」と呼ばれ、宗盛のもとでしあわせな日々を過ごした。
或る日、故郷池田から侍女の朝顔が一通の手紙を携えてやって来た。その手紙は母の病を伝えるものであり、在原業平の歌が認められていた。
老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな
(意訳:年をとれば、逃げられない死という別れがあるといいます。わたしももう長くはありません。ますますあなたに会いたくなることです・・・)
熊野は母のことが心配でならず暇を請うが、別れを惜しむ宗盛が許すことはなかった。熊野は心晴れず、鬱々と日を送った。
或る春の日のことである。宗盛は沈みがちな熊野を慰めようと、清水寺の観桜の席へ連れ出した。花見の宴も酣となったころ、舞のさなか、春の雨が桜の花を辺に散らす。熊野は歌を詠む。
いかにせん都の春も惜しけれど なれしあづまの花やちるらむ
(意訳:桜の花が美しい都の春も名残惜しいのですが、こうしている間にも見慣れた東国の花が散ってしまうかも知れません。故郷の池田に残した母の命が気がかりです。わたしはどうしたらよいのでしょうか・・・)
熊野は散りゆく桜に己の心のうちを託し、ふるさとの母を案ずる気持をこの歌に込めた。散りゆく「あづまの花」とはそのまま母の命を指す。宗盛はこの歌に心を打たれ、母のもとへ帰ることを遂に許した。
ふるさとで母と再会した熊野であったが、手厚い看病も虚しく、建久元年(1190)に母はこの世を去る。さらに熊野のもとに平家が源氏に滅ぼされ、宗盛も討ち死にしたとの報が届く。幾筋もの涙が熊野の頬を伝った。その涙は地に落ち、真っ黒なしみをつくった。
ほどなくして、熊野は人も羨む美しい黒髪を落として尼となった。熊野は父母、平家一門の霊を慰める生活を送り、建久9(1198)年に33歳の生涯を閉じた。
行興寺は熊野の住んでいた草庵跡に建てられた。その境内には、花の好きだった母を想って熊野の植えた藤が今でも郁々たる花を咲かせている。
(了)
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