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歌誌『塔』2024年8月号掲載歌「春泥といふ言葉を知らず」

皆さま、こんにちは。

『塔』8月号の八角堂便りで永田淳さんが「短歌はプロダクトなのか」という文章をお書きになっています。
八角堂便りですので1ページ分しかありませんが、なかなか考えさせられる内容でした。

・「プロダクト的な短歌」という概念について
・どこで活動するかについて(SNSと結社という場の違い)
・バズる(短期間で爆発的に話題になる)ことについて
・読者側の問題について(鑑賞力・読みの力がなければいけない)etc.

歌を詠むという営為が、単に「楽しい」だけではないということを経験を通して認識している人。そういう人に出会うことができるのが結社の利点のひとつかもしれません。
「求道」と言ったら大袈裟かもしれませんが、古来「歌道」という言葉もああります。歌は苦しみと寂しさから生まれるものだと思っています。
にこにこ笑っているだけでは歌はできません。


それでは『塔』2024年8月号の掲載歌。山下泉選です。

夕光ゆふかげしき海岸一日の労働を終へて君を想へり
傷のある林檎を黙つてむいてゐる君の背中の遠く思はる
泥だんごをねて遊びしみどり子は春泥といふ言葉を知らず
たましひの容れ物として貝殻は春のひかりを乱反射する
みどり子の拾ひし欠けた桜貝お守りとしてたましひ宿る
貝なんて拾つてはダメといふ母の声あり捨てる黄昏の浜

『塔』2024年8月号p136


↓ショーペンハウエル流 古典のすすめ。

一般読者の愚かさはまったく話にならぬほどである。あらゆる時代、あらゆる国々には、それぞれ比類なき高貴な天才がいる。ところが彼ら読者は、この天才のものをさしおいて、毎日のように出版される凡俗の駄書、毎年はえのように無数に増えて来る駄書を読もうとする。
(中略)
人々はあらゆる時代の生み出した最良の書物には目もくれず、もっとも新しいものだけをつねに読むので、著作家たちは流行思想という狭い垣の中に安住し、時代はいよいよ深く自らのつくり出す泥土に埋もれて行く。

ショーペンハウエル著『読書について』岩波文庫版 p135-p136


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