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塔短歌会十代・二十代以外歌人特集

みなさま、こんにちは。

隔年、塔誌で企画されている「十代・二十代歌人特集」にあわせて、丸山萌さんが”それ以外”の年代の方の特集を企画してくださいました。配信方法はネットプリントです。

私自身、20代の頃は本家の「十代・二十代歌人特集」に参加しておりましたが、30代になりましたので今回は有志のひとりとして丸山さんの企画に参加させていただきました。
企画、編集をしてくださった丸山さんに心より感謝申し上げます。

既発表も可でしたので私は以前塔誌に掲載された歌から5首を選びました。

春になりたい

気がつけば何も告げずに去つてゐる小春のやうな人のぬくもり
これからは呼び捨てでいいと言ふ君のくちびるすこし震へてをりぬ
縦書きで文字を書くとき鉛筆はするりするりと雪原をゆく
もう誰も弾かないピアノがそこにまだ廃校の日を音もなく待つ
出歩かず季節を知らぬ部屋の中にかつぱえびせんかをる梅味

ひと言
塔誌のすみっこで暮らしています。ぼんやりするのが好きです。今日の夕陽はきれいだったなぁ。それだけですごくしあわせ。

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」


せっかくですので、他の方の歌で気になった歌をご紹介いたします。
下記に挙げた歌以外にも魅力的な歌がたくさんありました。

祈りとは誰も知らない一冊のノートにきみが書き留める日々(浅野馨)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

セブンイレブンで出力したときに最初に目に飛び込んできた歌。
小難しい理由はさておき、一読しただけで好きになってしまう歌がある。私にとってこの歌がまさにそう。まず、「祈りとは」というはじまりからして好き。「祈りとは」に呼応する「きみが書き留める日々」という結句も好き。好きしか言っていない笑

AIが私の歌を歌っても私の海は歌えぬだろう(大橋春人)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

たしかにそうだと思った。AIには「人生」がない。「私の海」には単なる辞書的な意味における「海」以上の私の物語が含まれているはずだ。そう思いたい。

静物のひとつであつたプラム取り午後四時のくちびるにあててみる(小田桐夕)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

主体が普段から眺めていた光景。それはプラムのある静物画のような空間。そこからプラムを取った。それはあたかも静物画からプラムだけが抜け出したかのような、そんな景が思い浮かんだ。私の中ではこの静物画は背景は黒一色がいいと思っている(勝手ながら)。美術館に行くのが好きなので、つい静物画と結び付けて読んでしまった。
「くちびるにあててみる」とは、さりげない措辞だが、手指のしなやかさや美しい曲線具合、さらには日暮れ時の艶めいた唇さえも想像される。物語性に富んだ素敵な一首だと思う。短歌っていいでしょう?とつい人に紹介したくなるような歌だ。

ジェンガは箱にみんなの歌は胸中にしまって向かう夕暮れの駅(音羽凛)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

この歌の前には「歌友とわけ合いたくて持っていく歌と時間とお菓子の袋」という歌もある。歌について対面で語り合える仲間がいるのは羨ましい。お菓子もいっしょというのも微笑ましい。私も仲間に入れてほしいくらいだ笑

夕暮れに退職までの日を数え手を離しても残る手のひら(紙村えい)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

「手を離しても残る手のひら」…このような言葉の円環構造(?)が好き。言葉の意味以前の問題として、一読したときの調べが好き。韻律あっての短歌だとつくづく実感させられる。

森に吹く夜風のように「私さえいなければ」なんて寂しい言葉(北山順子)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

人間は根源的にはさびしい生き物だと思っている。言葉をつかえるようになってもなおさびしさは残る。もしかしたら、言葉を用いない生き物のほうがさびしくないのかもしれない。花壇の隅のなめくじを眺めつつそんなことを思った。

ハルジオン路地をゆくとき少しだけ水のにおひのする町にゐて(日下踏子)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

「少しだけ水のにおひのする町にゐて」がとても素敵。言いたいことを少し抑えた表現。実に短歌的であり、惹かれる。
なお、「におひ」は「にほひ」ではないかと思ったが、私の理解の及ばない何か別の意図があるのかもしれない。

かたはらを過ぎゆく電車われもまた誰かの景色となりて消ゆらむ(中野功一)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

そのまま読むと電車の歌だが、私たち人間の一生もきっとこんなものだよな、と思わせる力がある。「十代・二十代」には出てこないような年齢を重ねたことによる広がりと深みのある歌だと思う。こういう歌を私はもっと読みたいと思っている。

予報通りしづかな秋が降つてきて見えぬものまで引き受けたくなる(宮下一志)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

「見えぬものまで見えるようになる」では平凡だが、「引き受けたくなる」としたことにこの歌の面白さの一端がある。
作者の作歌意図とは外れると思うが、最近、「死」について考えることが多いせいかこんなことをつらつら考えた。私たちはいずれ誰しも「死」を引き受けることになるが、それは必ずしも「予報通り」ではない。秋の日のゆるやかな「死」。やすらぎとしての「死」。「しづかな秋が降つて」くるような穏やかな「死」を夢想する。

cf.「あらゆる生は本質的に苦悩である」
ショウペンハウエル『意志と表象としての世界』第三巻第五十六節

見せられた日焼けの線に立ち止まる ここまでは夏、ここからは君(杜崎ひらく)

「塔短歌会十代・二十代以外歌人特集」

さわやかな夏の相聞歌。「見せられた」にふたりの親密な関係性がうかがわれる。朗らかな笑い声が聞こえてきそうだ。

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