科学的であることは幸福なことなのか🍀
一介の政治に関わってきた人間として見ると、政治は生活と密接な関係にあると同時に、政治と暴力は切り離すことができず、そこはアンダーグラウンドの世界が隣り合わせで存在します。
まぁ何もアウトローなことをするってわけではないのですが、政治と関われば関わるほど「普通から外れていく」ということが起こります。
ヤクザ屋さんとはまた違った意味で、裏の世界を体験するのですが、ふと関東時代の政活を振り返って見ると、そう言えば自分の周りには無神論者がチラホラいたなと思うのです。
かくいう私自身は無神論者ではなく、どちらかと言えば「神はいる(存在していて欲しいという願望も含む)」という立場です。
特定の宗派に属していないだけで、私自身は無神論者では全くありません。
そもそも四柱推命の信奉者ですし、易学と言うのは科学的には証明できませんので、科学と易学なんかは相いれないわけですね。
こんなこと言っててなんですが、私自身は特定の宗派に属する気は全くありませんし、かと言って自分で宗教を起こそうなどということも全く考えておりません。
ただ一つ、ただ一つ思うのは「科学が人を幸福にしたのか」という点です。
常に「科学的であることだけが絶対に正しい」とした場合、存外、窮屈な世界になる気がします。
💒どうせ死ぬのに生きている
ベッキー不倫報道の時は他人事に思えた不倫騒動でしたが、私自身はその後の政括を通じて、ある種の悩み事に直面し、広末不倫報道なんて出た時は不倫を他人事と思えなくなってしまいました。
あの報道を見て「自分も当事者になり得るからこそ気を付けよう」というのが今の率直な感想です。
広末の不倫報道は殆ど中身を精査していないので、何の経緯で不倫になってしまったのかわかりませんが、クサいことを言えば、人間は愛の為に生きているのです。
いわゆる「愛情」を理解できる生き物って言うのは、人間以外にはそう多くないわけですよ。イルカやシャチ、ペンギンなど、愛を体感として理解できる生き物は一部しかないわけです。
それ故に、人間という生き物は愛されないと飢えるし愛さないと渇く困った生き物です。
同時に、愛を得られない、与えられない人間の行き着く先は、闘争か、強欲か、それとも殺戮か。
コレが愛を得られず、与えられず、理解できない人間の行き着く末路なのです。
だからこそ差別がなくならない、虐めがなくならない、戦争がなくならないのです。
そんな事態を前にし、常々考えることは、ただ一つです。
「いったい神は何故人間をこのようにお造りになったのか…」
もう、考えることと言ったら、やはりココに行きつきます。
あるいは政括のような具体的な事例がなくとも、ただ漠然と不安になったり生きているのが辛くなったりすることがあります。
プレジデントでは「どうせ死ぬのに何故生きるのか」という記事がありましたが、突き詰めると、神というものが存在して欲しい理由はコレなのです。
🧪科学は道義的な問題や哲学的な疑問は解決してくれない
「何故人間は生きる目的以外で同族殺しをするのか」
この答えを求めるのにチンパンジーの研究をしているという話があります。
人間とチンパンジーは共通の祖先から派生したと言われており、チンパンジーの行動を見ることで、人間が殺人をしないようにするための取組に活かしたいのが目的のようです。
人間の身体の仕組みもだいぶ科学の力によって解明されました。
どんな感情がある時にどんな物質が流れているのかとか、逆に何の物質が不足すると不安になりやすいとか、そういうのは分かってきているわけです。
例えば気分障害の人によく処方される薬でレキソタンがありますよね。
セロトニンの分泌に異常が起きて不安になりやすくなることが分かっているわけですから、それに合わせてレキソタンを作ってるわけです。
これに加えて行動療法を用いて患者を治していくのが、精神医療の考え方。
言ってしまうと「科学の力は目の前の問題を解決するのには非常に有効」なのです。
現在、品質管理検定の勉強をしていますが、品質管理の考え方も統計学などを用いて(ある意味で)科学的に対処することです。
目の前の問題や実務上の課題など、ある種の「物理的な問題解決」にあたっては、科学は極めて有効です。何ならこうして使っているインターネットも科学の力です。
一方、精神世界での問題は、必ずしも科学が解決してくれるとは限らないものが多く存在します。
道徳上の問題などもそうで、かつて中国では凌遅刑という、極めて残虐な刑が行われておりました。1904年と、割と最近まで行われていたので、写真も残っています。
しかし、これほど厳しい刑があっても人は盗みをしますし、殺しもします。
最近の日本でも、最初から死刑になることを望んで無差別殺人をするケースがチラホラ起こるようになりました。
最近の「無敵な人」なんかは経済的な貧しさ(格差)を背景にしたものも多くありますので、政治の役割が果たす要因が大きい(科学的アプローチは狩野と言える)ですが、だからと言って貧しい人全てが盗みや殺しを働くわけではないですからね・・・。
そして無神論の根本的に解決してくれない問題の一つがココであったりもします。
「神などいない、魂など存在しない、死ねば無に還る」
恐らく科学的に考えて絶対的に正しいのはコレです。
ところがコレを絶対的に正解としてしまうと「なら生きてても無駄だ、善人ぶるのは馬鹿馬鹿しい、殺したい奴はぶっ殺せば良い、欲望に従って生きる方が得だ、いざとなったら自殺しちまえば良い」と、こう言うことが答えになってしまいます。
何の為に今を我慢して生きているのかわからなくなります。
ある意味、ココが科学の限界でもあるということです。
科学は実務的、物理的な部分での問題解決には非常に役立ちます。
ところが道義的、精神的な問題は必ずしも解決はしてくれないのです。
これが私の無神論を支持しない要因と言っても過言ではありません。
とは言え宗教が存在するからこそ起きている問題もたくさんあります。
と言うより宗教と権力が結び付くと大きな問題になったりもするのですが、人それぞれ信仰するものと言うのは異なります。
日本に於ける宗教の大きな問題として、統一教会と自民党との癒着問題がありますし、その延長に山上徹也による安倍晋三暗殺事件があります。
靖国神社では「ウチの家族を勝手にお前の神社で祀らんでくれ」ということで遺族による訴訟が起きてますから、まぁ色々と根深いものを持ってます。
宗教と政治なんて結び付かない方が良いのですが、歴史的に見ても宗教は政治と関わろうとするから、これは今後も人類が宗教と言うものに救いを求める限り、何百年経っても変わらないでしょうね。
科学は現実の物理的な問題を解決するのに優れたツールです。
しかし、精神世界を満たし、或いは苦悩から脱するためには、どうしても科学だけでは解決しきれないものがあります。
だからこそ人は神や仏と言うものに答えを求めるし、無神論を支持できない理由も、そこにあるのです。