ケンバニストになりたい話

4歳ゆきちゃん👧🏻の多動っぷりに、母は長らく悩まされてきました。3歳でいとこの家から脱走して警察沙汰。家では毎日何かを壊す。1秒目を離せばすぐ行方不明で毎日傷だらけ。そんな4歳ゆきちゃん👧🏻、通っていた幼稚園に併設されていたヤ○ハ音楽教室を外から眺めてお目目をキラキラさせていました。母は思いつきます。「これ(興味のあること)ならゆきも30分間椅子に座れるのでは?」

はい、私の音楽人生のスタートはここからでした。
※もちろん私から「ピアノやりたい」とちゃんと言ったらしいです。
私の通っていた幼稚園は音楽教育に力を入れていて、全員ピアニカが演奏できて、ピアニカ合奏の発表会とかあったんですよね。記憶が確かなら新世界とか弾きました。
併設のヤマ○音楽教室には通わず、そこで講師をされていた先生のご自宅の個人レッスンへ。多動で目立ちたがり屋でかまってちゃんなゆきちゃんは沼にのめり込みました。だって年に何回もお姫様ドレスが着られて、お客さんに拍手してもらえるんだもの👸🏻👗✨

11歳の誕生日。ピアノの先生のご紹介で「ゲイダイのスゴイセンセイ」のレッスンを受けました。そこからその先生にお世話になってあれよあれよと芸高受験。受かると思ってなかったので受かったときは私が一番驚きました。スーパースターばっかりの同級生に囲まれた濃密な高校3年間ののち、芸大へ。そして大学院は何を思ったかチェンバロ科へ。そして今はベルギーでフォルテピアノをやっているんだから、多動きっかけにしては頑張ってると思います。

チェンバロ科の受験を決めたのは学部3年の秋、ちょうど院試まで1年を切ったタイミングでした。が、チェンバロとの出会いはもう少し前に遡ります。
芸高では毎年定期演奏会があり、ひとつの演奏会で邦楽科の演奏、合唱(大半はピアノ科)+オケで合唱曲、オーケストラ曲の3演目を演奏します。今も変わってないといいなー。私が高校1年時のはじめての定演を振りにいらしたのが鈴木雅明先生で、JSバッハのG-durミサを歌いました。これがこの世界との出会いでした。バッハといえば「インヴェンション、シンフォニア、平均律」しかなかった私には強烈すぎる音楽体験で、楽譜にこれ以上なにも書き込むスペースがないくらいたくさんのことを知ることになりました。もちろんコンティヌオにオルガンとチェンバロが入っていてそれは芸大からどなたかエキストラに来てくださってたと思うのですが、当時はコンティヌオがなんなのか知る由もなく。ただ、なんかはっちゃめちゃにおもろい!と思ってひとり大興奮していました。
その翌年。音楽史では中世ルネサンスバロック期を勉強しました。私は良くない学生だったので授業中はほとんど寝てるか友達としゃべっているか漫画を読んでいるかで、授業の記憶はほとんどありません(ごめんなさい)が、期末試験の範囲にマタイ受難曲がありまして。せめて試験範囲の曲くらい聴いておこうと思い立ち、CDを芸高の図書室へ借りに行きました。でマタイのCDを探していて見つけたのが、雅明先生×BCJのCDでした。おぉ、これは昨年の指揮者の先生の、と思ってCDを借りて家に持ち帰り、16GBのiPod miniにデータを入れて(時代だ〜〜〜!)さて聴いてみたら、、
またとんでもない衝撃を受けるわけですよね。楽譜はe-mollなのに聴こえてくるのはes-mollだし、そんなことよりなんなんだこの曲って感じだし、演奏に鳥肌立つしで、だいたい試験勉強どころじゃなくなりましたが、あのとき雅明先生の名前にピンとこなかったら、BCJのマタイのCDを持って帰らなかったら、こういう人生にはならなかったと思います。ここから私の「バッハの宗教合唱曲への愛」が始まります。と言ってもまだマタイ、ヨハネ、ロ短調とか有名どころにしか触れていませんでしたが。ヨハネを初めて聴いたときは個人的にマタイ以上の衝撃で、電車を乗り過ごしました。

そのまた1年後。大学受験直前のレッスンに行ったとき(芸高/芸大での先生と別に、前述のスゴイセンセイのレッスンも受け続けていました、そこはソルフェの教室も兼ねていて、いろんな楽器の人が通っていました)、それを見つけました。
「東京藝術大学バッハカンタータクラブ 第○回定期演奏会」
そのお教室の先輩であるコントラバスの方が乗っていてチラシを置いていたのですが、芸大には、バッハの宗教曲の、しかも合唱を、歌えるところがあるのか?!?!となった私。受かったら絶対に入る!!!!!!!と心に誓い、ほとんどそれだけをモチベーションに芸大受験を乗り切りました。そんな人ほかにいるんか??いやこれが他にもいるのがこのクラブの面白いところなんですよ。

無事に芸大に入り、ちょっとしてからカンタータクラブにも入部しました。最初にやったのはカンタータ78番と161番でした。組み合わせやっば笑
同期のチェンバロ科の子とオルガン科の子がクラブにいたので、練習終わりにチェンバロやオルガンを弾かせてもらう時間が大好きでした。そのうちにチェンバロとオルガンがカンタータの中でやっていることに興味が湧いてきました。なんか何やってるかわかんないけどおもしろそう。よく見たら楽譜に数字が書いてあって、おぉこれは高校のピアノ初見の授業でやった数字付き低音だな?得意だったぞ?我できるぞ?ということで、そのときやっていた78番の1曲目の数字を見よう見まねで家で弾いてみました。5分ちょいの曲なのに1時間くらいかかりました。そりゃそう、78の1曲目は激ヤバ数字大量発生な曲。初回から臨時記号いっぱいの2467とか弾けてたまるか!!
しっかり撃沈した私は悔しくなり、夏休み中に猛特訓。夏休み明けにはいろんな曲の数字がだいたい初見で弾けるようになりました。悔しさってすげー。これが通奏低音との出会いと始まりでした。
たかがサークル、されどサークル。ここで通奏低音に目覚めなければその後チェンバロを仕事にすることはなかったと思います。

芸大では学部2年生から副科でほかの楽器を勉強できます。オルガンにするかチェンバロにするか猛烈に悩んで、「チェンバロは買えば弾ける、オルガンは買えない」という理由でオルガンを選びました。結果これはとてもよかったです。みっちり2年間オルガン科の教授たちにレッスンしてもらって、そのあとポジティフオルガンでコンティヌオを弾くようになったときにどれだけアドバンテージだったか!
しかし私はチェンバロも諦められませんでした。結局先生に直談判して自宅レッスンをしていただくことになり、2年生の秋にようやくチェンバロもスタートしました。
とはいえこのときは通奏低音、ましてやチェンバロ奏者を生業にしていくとまでは決めていませんでした。当時はコレペティになりたくて、モーツァルトのオペラでレチとかがちゃんと弾けるようになれたらいいなあというくらいでした。しかしチェンバロは、なんというか、沼。やればやるほど、私がピアノで学んできたことっていろいろ間違ってた…?ってなり、どんどんのめり込みました。それでもソロよりずっとコンティヌオのほうがいつも楽しくて、チェンバロでコンティヌオを弾く仕事がしたいという気持ちが押さえられず、結局3年生の秋にチェンバロ科の院を受験することを決めました。
いま思えば、コレペティになりたいというのはそんな真剣な夢ではなくて、なんとなく芸高と芸大に入ってしまって卒業後はピアノを仕事にしていくしかなくなって、ピアノでやることの中でほとんど唯一楽しかったのが歌やいろんな楽器の伴奏だけだったから、んまあじゃあコレペティか〜〜みたいな程度だったと思います。だから音楽を始めてはじめて抱いた「本気でこの仕事がしたい」というのがコンティヌオ業でした。

気付けば院に入る頃には仕事量がチェンバロ>>>ピアノになっていました。まだチェンバロ科に入学してもいなかったのに、若人に経験を、と思って使ってくださった先輩方には本当に感謝しています。

院生活は本当に楽しかったです。はじめて「やりたい」という明確な意志を持って勉強していることだったから、授業は他のどの科よりも多いし論文ははちゃめちゃに大変だし試験も盛り沢山だったし、とにかく忙しくて死にそうだったけど、耐えられました。同級生にも恵まれて、チェンバロは私を入れて2人、バロックヴァイオリン3人、バロックチェロ1人、バロック声楽1人、フォルテピアノ1人とにぎやかで仲良しな学年で、あれやってみたいこれ弾いてみたいというのがすぐ叶えられる最高な環境でした。

で私は大学院3年目の年にフォルテピアノを勉強し始めました。院の研究テーマがCPEバッハだったので、CPEをフォルテピアノでも弾きたいな、というのと、私は大のシューマン好きなので、そういうのもあわよくば弾けたら、と思って始めました。ですので年度末の試験ではシューマンのピアノ四重奏曲を弾きました。前日にあった学位審査ではチェンバロでCPEのコンチェルトを弾いて、翌日の年度末の副科の試験でフォルテピアノでシューマンのピアノ四重奏曲を弾いて、あーこういうものが学べた3年間って最高だったなと思いましたし、弾き終わった直後には"ここ"になんかあるなっていう本当に小さい蕾みたいなものを見つけた気がしました。

卒業してフリーランスになって、チェンバロとオルガンでコンティヌオを弾く毎日になりました。「弾くこと」を仕事にできるのは本当に幸せだしありがたいし恵まれています。Lynx Consortも始めて、合唱団の仕事もして、このままコンティヌオを弾く人生を歩んでいければ最高だなと思っていました。しかし心のどこかで「ここになんかあるな」って思ったあの小さな蕾のことを忘れられずにいました。って書くとなんかすごくポエムみたいで嫌なのですが笑、蕾というか灯火というか、なんかこう、こういうのなんていうのかな、そこから物事が始まるみたいなアレです、それ、それがずっと心の片隅にいました。でもコンティヌオが弾けることが幸せで楽しかったし、失いたくなかったので、見ないことにしていました。

ところがある日夫、当時まだ彼氏ですが、から「もちろんゆきちゃんがやりたかったらの話だけど、ゆきちゃんフォルテピアノで留学して僕とデュオするのどう?」と言われます。それがその心の片隅にいた"それ"に特大ホームランを決めてきて、「それは魅力的だね!いいね!行こう!」となりました。これが「ゆきちゃんもチェンバロで留学してコンティヌオペア世界一を目指そう」とかだったら刺さらなかったし留学してないと思います。笑
そこからのことは以前のnoteで触れています。
そのあとのこと 
夫には本当に、心の底から感謝しています。ありがとう!!!

で、今ベルギーでうますぎて怪物みたいな先生2人と楽しくフォルテピアノを勉強しています。おかげでやりたいことがさらに増えました。古典派ロマン派のコンティヌオもどんどん開拓したいし、シューマンの室内楽全部やりたいし、リストとかスクリャービンのon period instrumentsとか超楽しそうじゃないですか?

もちろんチェンバロとオルガンで弾くバロック期のコンティヌオは、変わらずずっと大好きですし、これらが私のライフワークから外れることはありません。今はフォルテピアノの修行中ですが、これからもチェンバロもオルガンも当然弾きます。今はたぶんまだチェンバロのほうが得意ですが、そのうちフォルテピアノのほうがやりたいことが表現できるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。いっそモダンピアノが一番いいとか言い出すかもしれません。
でも何かやりたい曲やりたいことがあるときに、やりたいようにやれるように、弾きたいと思ったように弾けるように、私はケンバニスト、全部弾く人、になります。頑張ります!

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