[翻訳]ジョージ・オーウェル「復讐は不毛」(1945)
復讐は不毛¹
Revenge is Sour
(1945)
ジョージ・オーウェル
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例えば、「戦争犯罪裁判」だの、「戦争犯罪人に対する刑罰」だのといった文句を目にするたびに私の頭を過ぎるのは、今年の初めに南ドイツの戦争捕虜収容所で目にした出来事の記憶である。
私はもう1人の特派員と共に、アメリカ軍の戦犯尋問を担う部署で協力者として働く小柄なウィーン出身のユダヤ人に収容所を見せてもらっていた。彼は、きびきびとよく立ち働く、ブロンドの髪をしたなかなかにハンサムな25歳ほどの青年で、その辺のアメリカ人将校などよりもはるかに政治的知識に富み、一緒にいて愉快な人物であった。収容所は飛行場の土地に設置されており、収容施設を見て回った後、この案内人は我々を格納庫へと連れて行った。そこは、他の者たちとは異なる分類をされたさまざまな捕虜の「検査」を行う場所であった。
格納庫の一方の端に、およそ12人ほどの男がコンクリートの床に一列になって横たわっていた。この者たちは、と説明を受けたのだが、SS(親衛隊)将校であって、他の捕虜たちからは隔離して収容しているとのことであった。その中に1人、薄汚れた平服に身を包み、腕で顔を覆うようにしながら横たわり、眠っているらしい男がいた。見ると、その両脚は奇妙な形に恐ろしく変形していた。どちらの脚も全く同じ形をしているが、信じられないほど球状に膨れ上がり、人間の何かというよりも、むしろ馬の蹄のように見えた。その集団の方へと近づいていくほどに、背の低いユダヤ人は、徐々に気持ちを昂らせているようであった。
「こいつは本当のブタ野郎なんですよ!」と彼は言い、ふいに軍靴を振り上げると、横たわっているその男の変形した脚の一方の、まさに膨れ上がっているところを目掛けて強烈な蹴りを見舞った。
「立てよ、おい、このブタ野郎!」 彼は、男が目を覚ますなり、そう怒鳴りつけ、続けてドイツ語でそれらしい言葉を繰り返した。捕虜の男は慌てて立ち上がると、ぎこちなく起立し、気を付けの姿勢をとった。激しい怒りに我を忘れんばかりの勢いで――実に、話しながら体を上下に踊らせるようにして――ユダヤ人はその捕虜の経歴を我々に話して聞かせた。男は「真」のナチであり、その党員番号を見れば、極めて初期の頃からの党員であったし、SSの政治部門では将官に当たる役職に就いていた。つまり、この男が強制収容所の担当として拷問や絞首刑を取り仕切っていたということはほぼ確実だと考えられる。要するに、この男は我々がこの5年間に戦い争ってきたものの全てを体現する存在だというのである。
話を聞く間、私は男の風貌を観察していた。最近収容されたばかりの捕虜にありがちな、みすぼらしく、ものもろくに食えておらず、無精髭を生やした容姿を置いても、不快を催させる人物であった。しかしその様子からは、残忍さや、あるいは何らかの恐ろしさを感じさせるものは見て取れず、むしろ神経症的で、素朴な程度に知性を感じさせるに過ぎなかった。その狡猾そうな淡い色の目は度の強い眼鏡の向こうに歪んで見えた。男は、司祭から身を落とした聖職者とも、酒で身を滅ぼした役者とも、降霊術師とも見えた。私はロンドンによくある下宿屋や英国博物館の閲覧室なんかで、これにそっくりな人たちを目にしていた。明らかに、男は精神面に問題を抱えており、とてもまともな状態であるとは思われなかったが、ただこの瞬間、もう一発蹴りを喰らうのではないかと恐れるだけの正気は残されていた。それでも、ユダヤ人が話して聞かせる男の経歴の全てが事実であるかも知れず、いや、恐らくは事実なのであろうが! こうして誰かの想像によってナチの拷問者とされ、多年にわたり苦しめられた人の目に怪物と映るこの人物も、今やこれほど哀れで悲惨な状態にまで身を落とすに至り、ここでこの男に与えるべきは、虐待ではなく、むしろ何らかの精神的な治療であることは明らかであった。
さらにこの後も、屈辱に満ちた場面が続いた。別のSS将校、大柄で筋肉質な男であるが、この男は上着を腰まで下ろし、その上腕の内側に彫られた血液型の入れ墨¹を見せるようにと命じられた。また別の男は、いかにして自らがSSの隊員であることを偽り、ドイツ国防軍の雑兵になりすまそうとしたかを説明するよう強いられた。私は、果たしてこのユダヤ人が本当にこうして新たに手にした権力を喜んで振るっているものだろうかと考えた。結論としては、本心から楽しんでいるわけではなく、単に――売春宿に入った男だとか、初めてタバコを試した少年だとか、美術館をぶらついている観光客みたいなもので――自分はこれを楽しんでいるんだと自らに「言い聞かせている」のであって、どうしようもない思いに襲われたときにはこう振る舞うのだと、かつて思い描いていた通りに振る舞っているに過ぎないということだ。
ナチスに復讐を果たしたいという、ドイツやオーストリアのユダヤ人たちの思いを非難するなど、馬鹿げたことだ。目の前のこの男の拭うべき怨嗟というものが、どれほどのものであるかは想像だにしない、恐らくは家族全員が処刑されているのだろう、そうであれば、ヒトラー体制のもとで尽くされた非道に比して1人の捕虜への無慈悲な蹴りの一発など、あまりに他愛のないものである。それでもこうした場面、そしてドイツで目にしたその他諸々の出来事は、復讐や懲罰といった考え方そのものがいかに子供っぽい夢想であるかを私に痛感させた。厳密に言えば、復讐などというものは存在しないのだ。復讐とは、自らが無力であるときに、そして自らが無力であるからこそ全力を傾けようとするものであり、無力感が解消されさえすれば、途端にその欲求もまた消え去ってゆく。
思い描いて胸躍らせない者などいただろうか、1940年に、いつの日かSS将校が蹴り上げられ、辱められるのを目にするときのことを。しかし、いざそれが現実のものとなってみれば、ただ惨めで不快なだけである。ムッソリーニの死体が公衆の面前に晒されたとき、1人の年配の女性がリボルバーを取り出し、死体目掛けて5発の銃弾を撃ち込むと、「これは5人の息子に報いるために!」と叫んだという。こんな話はいかにも新聞がでっちあげそうな類のものだが、事実であったかもしれない。私は、女性がそうして5発の銃弾を撃ち込むことに、つまりそれは疑いようもなく数年来の彼女の願望だったわけだが、そこに、どれほどの満足を見出せただろうかと考える。彼女がムッソリーニを狙い撃ちできる距離にまで近づくことを叶える条件とは、彼が死体になっていることであった。
この国の国民一般が、現在のドイツの強いられることになった巨額の戦争賠償に責任を負っている点について言えば、これは、敵対する相手を罰したところで何ら気休めになどならないということに、予め思い及ばなかったことによる。我々は、東プロイセンから全ドイツ人を追放する³などといった数々の犯罪行為――時に防ぎようがないにしろ、せめて抗議の声くらいは上げられたであろう犯罪行為――に黙従したが、その理由は、かつてドイツ人こそが我々の怒りに火をつけ、脅しさえしたのであり、したがって彼らが敗者となったときに一切の容赦は無用だとの思いに疑いを持たなかったからである。我々はこうした考え方に固執し、あるいは我々に代わって他者が固執するのをよしとしているが、この背後にあるのは、ドイツへの懲罰を考える中で、我々はいっそ踏み込んでこれを実行すべきなのだという、ぼんやりとした感覚である。実際のところ、この国に未だドイツへの激しい憎悪を持ち続けている人というのはほとんどなく、それが占領軍ともなれば、さらに数は減るものと思われる。ごく少数の嗜虐的な人間、あちこちから自らにとっての「残虐行為」を見出さなければ済まない者どもだけが、戦争犯罪人や売国奴の追討に対する熱心さを見せているに過ぎない。その辺の一般人に、いったいゲーリング⁴やリッベントロップ⁵なんかの連中がどんな罪で裁判に掛けられているのかと尋ねてみたところで、答えが返ってきはしないだろう。どういったわけか、そうした怪物たちを罰することも、いざそれが現実に可能となってみると魅力的には思われなくなるのであり、事実、収監された連中の姿からは、もはや怪物という感じすらほとんど失われているのである。
悲しいかな、人は何か具体的な出来事でも起こらない限りは自分の本心に気が付かないということがままあるものだ。ドイツの思いでに、またこんなものがある。シュトゥットガルトをフランス軍が占領した⁶数時間後、1人のベルギー人のジャーナリストと共にその街に足を踏み入れたとき、まだいくらかの混乱の跡が残っていた。このベルギー人は戦時中、BBCの欧州局向けの放送を担っていたが、ほとんどすべてのフランス人やベルギー人と同様、「ボッシュ(ドイツ野郎)」⁷に対しては、イギリス人、アメリカ人などとは比べものにならないほど辛辣な態度を見せていた。街へとつながるあらゆる主要橋梁が吹き飛ばされていたため、我々は、明らかにドイツ人たちが死に物狂いで守った小さな人道橋⁸を渡って街へと入ることになった。その橋のたもとに、1人のドイツ人兵士が仰向けに倒れていた。その顔は、薄白い黄色を呈していた。そして胸元には、あたり一面に咲き誇っているライラックを花束にしたものが、誰かによって手向けられていた。
ベルギー人は顔を背けて通り過ぎた。橋を越えてしばらく行ったところで、彼は、死体を見たのはこれが初めてだと打ち明けた。恐らく35歳ほどであろう彼は、4年にわたってラジオで戦争プロパガンダの放送を行っていた人物である。この数日後、彼の態度はそれまでとはまるで違うものになっていた。爆撃によって瓦礫と化した街並みやドイツ人たちの晒されている辱めに苦々しい目を向けるようになったばかりか、1度などは、特に悪辣な略奪行為をやめさせようと割って入ったことさえあった。この地を後にするとき、彼は我々が間借りしていたドイツ人一家に手持ちのコーヒーの残りを贈った。1週間前であったなら、彼は「ボッシュ」にコーヒーをくれてやるなどという考えに怒り心頭であったろう。しかし自分の気持ちは、と彼は私に言った、あの橋のたもとの惨めな死体(ce pauvre mort)⁹を目にして変わったのだと。そしてそれは突如として彼に、戦争というものの意味を分からせたのである。それでもまた、もし仮に我々が別の道を通って街に入っていたなら、彼は、この戦争が生み出した、恐らくは2000万ほどにも上るであろう死体¹⁰のうちの1つを目の当たりにするというあの経験を、せずに了ったかもしれないのである。
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訳注
¹ 復讐は不毛
Revenge is Sour
一般には「復讐の味は苦い」と訳されるが、本稿ではより直截な表現を採った。
² 上腕の内側に彫られた血液型の入れ墨
blood group number tattooed on his under-arm
第二次世界大戦中、親衛隊隊員を対象として個人の血液型識別や本人確認等を目的に左腕上腕の内側に入れられたもの。戦後、連合軍はこれを証拠として親衛隊隊員の特定を行い、戦争犯罪の訴追につなげたが、必ずしも隊員全員に入れ墨があったわけではなく、これを逃れた者もあった。
³ 東プロイセンから全ドイツ人を追放する
the expulsion of all Germans from East Prussia
第二次世界大戦末期から戦後にかけて起こった、20世紀の民族移動として最大とも言われる東欧からのドイツ人追放を指す。この一連の出来事には報復的迫害の側面がある。
⁴ ゲーリング
Goering
ヘルマン・ゲーリング(1893年1月12日〜1946年10月15日)はナチス・ドイツの政治家、軍人。ニュルンベルク裁判では4つの訴因(共同謀議、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪)の全てで有罪と認められ、死刑判決を受けたが、執行前日に独房内で服毒自殺した。
⁵ リッベントロップ
Ribbentrop
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1893年4月30日〜1946年10月16日)はナチス・ドイツの政治家、外交官。ニュルンベルク裁判ではゲーリング同様、4つの訴因の全てで有罪と認められて死刑判決を受け、刑死した。
⁶ シュトゥットガルトをフランス軍が占領した
Stuttgart was captured by the French army
1945年4月21日、フランス第1軍が同地を占領した。この後、連合軍軍政期(1945〜49年)を通じ、フランスは同地を含むドイツ南西部を占領統治した。
⁷ ボッシュ(ドイツ野郎)
Boche
ドイツ系の人々を指すフランス語の侮蔑表現。
⁸ 人道橋
footbridge
人が通行できるように架けられた橋。
⁹ 惨めな死体
ce pauvre mort
ベルギー人の発したフランス語の表現をそのまま記述したもの。英語にすると「that poor dead」。
¹⁰ この戦争が生み出した、恐らくは2000万ほどにも上るであろう死体
the—perhaps—twenty million that the war has produced
第二次世界大戦の犠牲者総数は、例えば、ブリタニカ(Britannica)公式サイトの記事によれば、世界で3500万〜6000万人、欧州のみでは1500万〜2000万人、また、米国国立医学図書館(NLM)サイトの記述によれば、世界で6200万人、欧州のみで3900万人とされているほか、さらに多い数を挙げているものもあり、数字に幅が見られる。
底本
底本:Project Gutenberg Australia所収『Fifty Orwell Essays』(1945)所載「Revenge is Sour」
著者:George Orwell
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