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[翻訳]キャサリン・マンスフィールド「修道に入れば」(1922)

修道に入れば¹

Taking the Veil

(1922)
キャサリン・マンスフィールド



これほど美しい朝に不幸な気分でいられる人などいようはずもないと思われた。決して誰もと、エドナは思った、自分のほかには。どの家の窓も大きく内側に開け放たれていた。そしてそこからピアノの音が聴こえてくる、小さな両の手が、それぞれの後を追いかけてみたり、離れてみたりしながら、スケールの練習をしている。日の差す庭では木々が春の花々に囲まれて明るく葉を揺らしていた。通りにいる男の子たちは口笛を吹き、小さな犬が吠えていて、そのそばを通り過ぎる人々の足取りはとても軽く、とても素早くて、もう今にも駆け出してしまいそうなくらいである。そしてまさにそのとき、彼女は遠くに日傘を、桃色の、今年初めての日傘を目にしたのである。

もしかすると、エドナの様子も本人が感じているほどには不幸そうに見えなかったかもしれない。まだ18歳で、飛び抜けて可愛らしく、完璧な健康を思わせる頬つやに唇、輝かんばかりの瞳を持っているようなが悲劇に見舞われているというふうに見せるのは簡単じゃない。しかもフレンチブルーのドレスに、矢車菊の縁飾りをあしらった真新しいスプリングハットという出立ちであれば、なおさら。まったく、彼女は小脇に1冊の恐ろしく黒い革表紙の本を抱えていた。もしかすると、その本がいくばくかの陰鬱な雰囲気を演出したかもしれないが、まあ、うっかりそんなことがあるかもしれないというくらいのものであって、それはよくある図書館製本に過ぎなかった。エドナにしてみれば、図書館に行ってくるというのは、考えを巡らせ、起こったことを冷静に受け止め、そしてこうなったからにはどうすべきかについて心づもりをするための、家の外に出る口実であった。

まったくひどいことが起こったのである。しかもまるで突然に、昨夜ゆうべ、劇場にいる時に、彼女は特等席でジミーと並んで座っていたが、何の前触れもなく――ちょうど彼女はチョコレートアーモンドをすっかり食べ切ってしまい、隣の彼にその箱を戻したところだった――1人の俳優に心を奪われたのである。恋に落ちたのだ……。

その時の心持ちは、今までに思ってみたどんな感情とも違った。胸に浮き立つようなものはまるでない。身震いするような思いもない。ただし、まるで希望の見えない心の恐慌だとか、絶望、苦しみ、悲惨さなんかの恐ろしい感覚を、身震いするような思いだと表現するのならば別だけれど。あの後、通りに出たところでその俳優に出くわしでもしたら、つまり、ジミーが馬車を拾おうとなんかしているに、きっとそのまま彼について地の果てまでも行っただろう、たった1度だけ頷いて見せるとか、なにかしら1つだけ合図を寄越すとかするだけで、あとはさっぱりジミーのことになんて考えもやらず、父親や母親、それから幸福に暮らしていた我が家のことも、たくさんの友人たちのことも一顧だにすることなく……。

芝居はとても明るい調子で始まった。事が起こったのは、チョコレートアーモンドの時であった。その瞬間、主人公の視力は失われたのである。なんて恐ろしい瞬間だったろう! エドナは滂沱ぼうだたる涙を堪えきれず、ジミーのきれいに折り畳まれたやわらかなハンカチまでも使わなければならないほどであった。しかし、泣いたことなど問題ではない。どの列の誰しもが涙にむせぶ状態だったのである。男性たちさえもがけたたましい音を立てながら鼻をかみ、手許のプログラムに目を落として舞台から目を逸らしていた。ジミーはといえば、まさか自分のハンカチを彼女に譲ってやるためでもないだろうが、幸いにも涙など無縁の平然としたふうで、彼女の空いている方の手を握り、その耳元に「元気をお出しよ、ねえ」と囁きかけるのであった。彼女が彼の望むようにチョコレートアーモンドの最後のひと片を手に取り、箱を彼に返してやったのはこの時である。そしてあの恐ろしい場面、舞台上にひとり残された主人公が薄暮に沈む寂しい部屋に佇んでいると、外からは楽隊の奏でる音が、囃し立てる音が通りから聴こえてくる。主人公は力を振り絞り――ああ! なんて痛ましい、なんて胸に迫る様子だろう――あたりを手で探りながら窓の方へと進んでいった。そしてとうとう辿り着く。そこで彼はカーテンに縋って立ち、一条の光が、射し込むただひとつの光が、もたげられた、もはや視界の失われた彼の顔を明るく照らし出し、楽隊の響かせる音は遠く向こうへと消えていった……。

それは――本当に、もう完全に――ああ、こんなにも――こんなに簡単に――つまり、その瞬間、エドナは人生が一変してしまったことを悟ったのである。彼女はジミーの手を離し、後ろにもたれかかると、チョコレートの箱を永遠に閉じた。ついに、これこそが恋なのだと!

エドナとジミーは結婚の約束を交わしていた。彼女が髪を結い上げるようになってもう1年半、婚約を発表して1年が経っていた。けれど、お互いのことをいずれ結婚する相手なのだと知ったのは、乳母に付き添われて訪れた植物園で、芝生に腰を下ろし、おやつにワイン・ビスケットと大麦キャンディがそれぞれ1つずつあたった時からのことだった。エドナにとってそれはあまりに当然のことのように思われて、学校に通っていた頃はずっと、クリスマスクラッカーを鳴らした時に出てきた素敵な模造の婚約指輪を身につけていた。今の今まで、2人はお互いに愛を尽くしていたのである。

しかし、それももはや終わりを迎えた。エドナには、それがあまりにも完全な終焉だったために、ジミーが気付かずにいるとも思われなかった。彼女は思慮に溢れた悲しげな笑みを浮かべ、聖心会修道院の庭の方に入っていくと、2人はヒル・ストリートへと続く上り坂を歩き始めた。こんなことが、むしろ今この時に明らかになったというのは、結婚した後にそれと分かるよりもどれほどましなことだっただろう! 今であるなら、ジミーもきっと乗り越えられる。いや、自分を欺いてみたところで仕方がない、彼は決して立ち直れるはずがない! 彼の人生はぶち壊され、めちゃくちゃになる、それはもう避けられないことなのだ。でも、まだ年若いことを思えば……。時が、と人は言う、時が経てばきっといくらかは、ほんのいくらかでも、救われる。40年ばかり経って、彼が年老いたとき、彼女のことを心穏やかに思い返すことができるかもしれない。しかし彼女の方は――彼女にはどんな未来が待っているというのだろうか?

エドナは坂道を上り切った。そこに若葉萌える1本の木が、たかって咲く小さな白い花をつけているその下で、彼女は緑色のベンチに腰を下ろし、修道院のいくつもの花壇を眺めた。1番近いところにある花壇にはか弱げな紫羅欄花アラセイトウが植えられ、縁取りに貝殻のような青いパンジーが、一角にはクリーム色のフリージアが寄りかたまって咲き、その花の上を軽やかな槍のような葉が縦横に入り乱れている。修道院の鳩たちが高く空に舞い上がると、エドナの耳には、シスター・アグネスが歌唱指導しているその声が聞こえてきた。ああ、私が、と深く響くその修道女の歌声に、続けて、ああ、私が、と揃えて繰り返す歌声……。

もしジミーとの結婚を取りやめることになれば、当然ながら、彼女はほかの誰とも結婚しはしない。彼女が恋に落ちた相手、名の知れた役者のあの人と、そんなことが起こりようもないことに気付くに余りある良識をエドナは持っていた。そんなのはとても馬鹿げたことだ。彼女にはそれを望む気持ちさえなかった。そう望むには、彼女の愛はあまりに真剣なものだった。それは静かに耐え忍ばねばならないものであり、この苦しみに彼女は苛まれなければならなかった。ただ純粋に、そういう種類の愛なのだと彼女は思った。

「でも、エドナ!」と、ジミーは声を上げた。「気持ちが変わることはないっていうの? もう絶対に望みはないんだろうか?」

ああ、こんなふうに告げねならないなんて、なんて悲しいんだろう、それでも言ってしまわなければならない。「ええ、ジミー、この気持ちが変わることは決してない」

エドナが俯き、膝の上に小さな花が1つ落ちかかると、その時ふいに、ああ、決してない、と高く響くシスター・アグネスの歌声と、また続けて、ああ、決してない、と繰り返す歌声……。

その刹那、未来が眼前に明らかになった。エドナはすべてを目の当たりにした。彼女は驚き、なにより息を呑んだ。しかし結局のところ、それ以上に当然の帰結などというものがあり得ただろうか? 彼女は修道院に入る……。父親と母親は彼女を思いとどまらせようとあらゆる手を尽くしたが、徒労に終わった。ジミーはと言えば、その心情を察するに忍びない。一体どうして分かってくれないというのだろう? どうしてこんなふうに彼女を余計に苦しめるなんてことができるんだろうか? 世界は残酷なもの、恐ろしく残酷なものだ! そして彼女が自分の宝飾品なんかを親友たちに譲り渡す――彼女は落ち着き払い、友人たちは悲嘆に暮れ――その最後の場面を経て、いよいよ修道院の中へと歩みを進めていく。いや、ちょっと待って。彼女が行こうとしているまさにその夕べというのは、あの役者がポート・ウィリンに滞在する最後の夕べであった。彼は見知らぬ送り主から1つの箱を受け取る。中には白い花が一杯に詰め込まれている。しかし送り主の名もなければ、メッセージカードもない。一切何も? いや、詰め込まれたバラの花の下に、白いハンカチに包まれて、エドナの最後の写真が1枚、その下にはこんな文句が書かれている。

世界を忘れ、世界もまた忘れゆく²。

エドナは木の下に身じろぎもせず座り、黒い本をそれが自分のミサ典礼書でもあるかのように、指に力を込めて握っていた。彼女は修道女としてアンジェラという名を授かった。じょきん! じょきん! 彼女の素晴らしい髪はすっかり短く切り整えられた。そのうちの一房を、ジミーのもとに送り届けてもよいものだろうか? なんとか考えてみよう。そして青のガウンに白い額帯を身に着けたシスター・アンジェラは、その様子、その悲しげなまなざしに、さらには駆け寄ってくる小さな子どもたちを迎える優しい微笑みのうちに、どこかしら浮き世離れしたものを漂わせながら、修道院の建物から礼拝堂へ、礼拝堂から修道院の建物へと行きつ戻りつしている。聖なる人! そんなふうに囁く声が、肌寒くロウの匂いの立ち籠める廊下をゆっくりと歩く彼女の耳もとに聞こえた。聖なる人! そして礼拝堂に足を運ぶ人たちは、人々の声の向こうから届く声の主の修道女のことを聞かされる、彼女の若さのこと、彼女の美しさのこと、そのあまりに悲劇的な恋の顛末を。「この街に暮らすある男性は人生をすっかり狂わされ……」

1匹の大きな蜂、金色でふわふわとした毛を纏った子がフリージアの花の中に入っていくと、たおやかな花は前に屈み、振れ戻り、揺れて、次の瞬間、蜂は飛び去ったが、しかしそれでも揺れ続ける様子はまるで声を上げて笑っているかのようである。幸福で、軽はずみな花!

シスター・アンジェラはそれを見て呟いた、「もう冬なんだ」と。ある夜、凍えるような寒さの居室で横になっていると、甲高い鳴き声が1つ聞こえた。庭のすぐその辺に、なにか動物が迷い込みでもしたのか、子猫か、子羊か――まあ、何であれ、とにかく小さな動物がいるらしかった。眠れずにいた彼女は起き上がる。全身を白に包み、震えてはいたが、恐怖からではない、彼女はそちらへと向かい、中に入れてやった。しかし翌朝になってみると、朝課の鐘が鳴る頃、彼女が高熱に浮かされているのを人が見つけた……譫言うわごとを口にしている状態で……そしてもはや回復することはなかったのである。3日のうちに全てが終わった。礼拝堂で祈りが捧げられると、彼女は墓地の一角の修道女だけが眠る場所、簡素でささやかな木の十字架が立ち並ぶその場所に埋葬された。安らかな眠りを、シスター・アンジェラ……。

もう夕暮れ時である。支え合うようにしてゆっくりと歩く2人の老人が墓のところまで来ると、膝をつき、こうむせび泣いた、「大切な娘! たったひとりの私たちの娘!」 そこにまた別の人影。全身に黒を纏った男が、ゆっくりと近づいてくる。彼は墓の傍まで来ると黒い帽子を取ったが、その姿にエドナが心寒くしたのは、彼の髪がすっかり白くなっていたからである。ジミー! もう遅い、もうすっかり手遅れだ! 彼の頬を涙がこぼれ落ちた、泣いているのだ。もうどうしようもない、もう決して取り返しはつかない! 風が吹き、すっかり葉の落ちた教会墓地の木々を揺らした。彼はわっとばかりにひどく悲痛な泣き声を上げた。

エドナの手元から黒い本がどさっと音を立てて庭の小道に落ちた。エドナは勢いよく立ち上がったが、その鼓動は激しかった。愛しい人! いや、まだ手遅れなんかじゃない。何もかも間違いだった、酷い夢。ああ、あの真っ白な髪! どうしてそんな仕打ちができるというのだろうか? いや、まだ彼女は手を下してはいない。ああ、神様! ああ、なんという幸い! 彼女は自由で、まだ若く、そしてなにより誰にも彼女の秘密は知られていない。どんなことも、彼女とジミーにはまだ可能なのだ。2人で思い描いていた家だってきっと建てられるし、2人がスタンダード仕立てのバラを植えているところを後ろ手に難しい顔で見つめる小さな男の子だってきっと生まれる。その子には小さな妹も……。と、エドナの想像が男の子の妹にまで及んだところで、彼女はまるでその小さな愛すべき存在が自分に向かって舞い降りて来てでもいるかのように両腕を大きく伸ばし、庭や、白い小花をつけたあの木の枝先、青空に溶けるような青みがかった素敵な鳩たち、それから幅の狭い窓の並ぶ修道院の建物までを見やると、まさに今、ついに生まれて初めて――それは今までに思ってみたどんな感情とも違った――愛を寄せるということがどんなものかを知り得たのである、ほかでもない愛を寄せるということが!



訳注

¹ 修道に入れば

Taking the Veil
本作には既存訳が複数存在するが、本稿では、表題をこれに拘らない独自のものにした。既存訳には、例えば、岩波文庫『マンスフィールド短篇集 幸福・園遊会』収録の「尼になって」(崎山正毅訳)などがある。

² 世界を忘れ、世界もまた忘れゆく。

The world forgetting, by the world forgot.
18世紀のイギリスの詩人、アレキサンダー・ポープ(Alexander Pope)による書簡詩「エロイーザからアベラードへ(Eloisa to Abelard)」(1717年)第14スタンザの一節を引用したもの。この詩は12世紀のフランスのスコラ学者、ピエール・アベラール(Pierre Abélard)と、その弟子で恋愛関係をも結ぶことになるアルジャントゥイユのエロイーズ(Héloïse d'Argenteuil)との間で交わされた往復書簡を題材にしており、2人の恋愛に始まる一連の出来事は歴史上の事件として知られる。詩の下敷きとなった恋愛事件の顛末は、本作「Taking the Veil(修道に入れば)」のモチーフでもある。なお、本作引用の1行を含む第14スタンザの冒頭4行は映画『エターナル・サンシャイン(Eternal Sunshine of the Spotless Mind)』での引用も有名。


底本

底本:Project Gutenberg所収『THE DOVES’ NEST AND OTHER STORIES』(1923)所載「Taking the Veil
著者:Katherine Mansfield


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