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#219 虚無とのたたかい

本日は8時15分起床。目覚しを復活させた。定時に起きれるので便利なのだが、目覚しに従うと疲れが取れた気がしない。正直、怠い。
その後ダラダラとスマホをいじくる。中毒者。嗚呼、哀れな現代人の性。
昨晩も遅寝。意志の弱さを痛感。外圧による強制がなければ動けないザ・ジャパニーズを体現してしまっている。くやしい。
中途覚醒なし。
寝苦しさも寝汗もなく、快適な一夜であったと思う。

うー睡眠不足。頭が働かん。
こういう時に確認作業はきつい。ミスが多発する予感。
そして完全自動モードに突入しては、自分が何をやっているか訳が分からなくなる。
以前勤めていた職場でもそれが起きた。睡眠不足とストレスのスパイラルは本当につらい。
今は職場というストレスが免除されているからこの程度で済んでいるといった具合。こりゃ、在宅ワークの方向も本格的に検討しないとダメかもしれないな。オフラインに憧れ続け、無惨に散った者の図。

親がスマホでSNSだの動画サイトだので時間を融かしているのを見ていると本当に虚無を感じる。人生がくだらないもののように思えてしまう。結構しんどい光景だ。
人生はくだらない、ということは極力考えないようにしていることだ。
それを考えたくないから何かに取り組むようになったとも言える。
ただ、労働に勤しむことは特殊なようで、それをやっていると忙しくて考える余裕など無いはずなのに何故だか虚無を感じてしまう。

アウトプットが無いとメンタルおかしくなる気がする。
と、これはずっと本noteで言い続けてきたことなのだが。
それを再び強く感じている。
ただ、アウトプットが「べき・ねば」になってしまうとしんどい。
それが嫌になってきたらインプットに移行するのがいいだろう。それも嫌ならば運動だけでいい。
とにかく今できることを止めなければ一先ずは良いのでは。

私の主なストレスの根源は人に対する不信感であると思う。
それが数多の不和を引き寄せてしまっている気がする。

相容れない要素を同居させるのはつらい。
多かれ少なかれ人は矛盾を抱えて生きて行くものではあるのだろう。
しかし、あるスペースにライオンとゾウを同居させるのと、犬と猫を同居させるのとでは、その難易度は随分変わってくる。
質と量が異なるから、折衷するのが難しい場合というのがどうしても出てきてしまう。
しようがないね。

ああ、最近殆ど人と話していないか独りよがりになっているのかもしれない。
これは孤独の副作用だ。

スポーツ・エンタメ、旅行・グルメ、こういったものを始めとする人気のある娯楽は、人々の「虚無を消し去りたい」という欲求によって(無意識的に)消費されているのだと思う。
そういったものに頼らずに虚無と上手く付き合って生きることが出来る者は達人という他ない。
人間のプロ。プロ人間。
それが私の憧れであり、目標だったりする。

最近音楽聴いていないな。
レコードもカセットもオーディオファイルも。
うーむ。音楽が如何に不要不急の存在なのかを痛感する。

音楽は鑑賞するものではなくて、参加が前提のものなのだと思う。
鑑賞というのも近代以降の楽しみとして尊重されるべきだろうが
、本来の文脈を忘れてはならないだろう。

文化が途絶えれば二度と復活はしない。
それっぽいものを拵えることはできるだろうが。
要するに、秘伝のタレですわ。

文化、とか言い始めるとなんだか堅っ苦しいな。保守化するとつまらなくなる物事は山ほどある。色々な意味で適当が大事。
みきわめ、大事。

文脈から切り離された楽しみというのもあるけども。
でも、文脈を知らずに(知ろうともせずに)ただヘラヘラやっているのはあまりにも無作法のような気もする。
文脈を押さえるには卓越したメタ感覚が必須。
うう、反省。馬鹿は困るぜ、畜生。

しかし、原始的なローカル社会においては文脈などというものがどれほど存在していたというのか。インターネットが普及して以降の社会はあまりにもその領域・射程範囲が拡大し過ぎて逆に文脈を捉えることが困難になっていはいないか。知らなければいけないことが多すぎる。人はその情報量に挫折するだろう。まぁ、少なくとも私はそうなのだ。
選択はストレスなのだ、と最近とみにそう感じる。老化現象だろうか。
選択肢の多さは現代人の幸か不幸か。
真面目に言うとその「両方」なのだろうが、各人の能力次第といったところがある。そして、これは格差拡大の要因の一つのような気がしてならない。
現代は無慈悲+有能の者が最も輝ける社会といえるだろう。
しかし、それは何時の時代もそうかしらん。


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