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#40 ソクラテスに学ぶ?感性の育て方

気付けば、noteの投稿はこれにて40回だそうです。いえい。
結構無理なく続いています。そしてありがたいことに読者の方が毎日いるようです。うれCZ。
読者がいることは行動する動機になるということも実感しています。が、あまり気負わずにマイペースに書いていこうと思っています。
あくまでも自分のため。日記の延長であること、その趣旨を肝に銘じておきましょう。今は錨を下ろしておく時期です。

先日こんな記事を書きました。

これを書いて、更に書きたいことが浮かんできたので、今日もやっていきたいと思います。第2ラウンド、第3ラウンド、のようなものです。私は何ラウンドでもできる人間なんですね。
件の記事の中で、私は、感性が源であり、品性と知性はそこから派生したものではないかと書きました。
つまり、何よりも感性がとても重要だということです。
感性、マジ大事。これがキーワードです。
では、どのようにして感性を育めばいいのでしょうか。
感性、成長してほしいですよね。私はもっと成長させたい。こういう類の強欲は尊重してあげたいのです。

はい、それではいきなり結論です。もったいぶらずに出しちゃいましょう。
感性を育む方法、それは、
感性に優れた人のそばにいること
です。
というか、それしか考えられないのです。
そして私は、真っ先にソクラテスを思い出しました。
「無知の知」、有名ですよね。学のない私ですら知っているので、彼は超有名人なのでしょう。
まず、無知の知は自分では気付けません。
何故なら、自分の感性の外にあるものは認知できないからです。認知できないものは、存在しないもののように扱われてしまいます。
意識に上がってこない=自分で気付けない、だからこそ他者の力が必要です。
他者に叩き起こしてもらうのです。
ハンターハンターの強制的な念習得のようなものです。
あるいはナルトの幻術の解除法のようでもあります。
すみません、ジャンプしか知らないのです、私は。しかも古い。でも、既にコンテクストが乱れている時代ですから、気にしないことにします。

それは触れるということ。流し込むということ。
私を救ってください。私はあなたを救います。

ソクラテスは対話によって他者を開眼させる一方で、自分の感性をも地道に拡張していたに違いありません。
彼の方法は産婆に喩えられますが、自分のためにやっていた部分も相当大きかったのではないかと私は想像します。そういえば、産婆だって自分のため(よろこび)にもなっていますものね。単なる利他ではない。
無知の知に気付くきっかけは他者が持っています。
ソクラテスはどのようにして「最初の無知の知」に至ったのかは知りませんが、自分一人では無知の知には至らないことを良く知っていたからこそ対話という方法に拘ったのではないかと思うのです。
他者は自分が知らない感覚を有しています。恐らく、例外はありません。

無知の知に至るには、他者の感性に触れねばなりません。そこには好奇心と謙虚さが必要になってくるでしょう。
しかしながら、それを許容するのも拒絶するのも、感性に由来するはずです。
とどのつまりは・・・生来の霊感次第、ということになりそうな気もしてしまいます。先天性。
なんだか、これでは夢がありませんね。でも、これが現実なのかもしれません。
ソクラテス級の達人であれば、もう誰からでも学び、自己成長させることができるのでしょう。
しかし、凡人はそうもいきません。
まず、「最初の無知の知」を知らねばなりません。知るというか、体験です。身をもって知ること。
その「最初の無知の知」は自力では得られません。
他者によって開眼の動機が与えられるわけですが、他者とは誰でもいいわけではありません。
それこそソクラテスのような感性に優れた人から学ぶのです。
どのような形で気付きが得られるか、はわかりません。
しかし、時間と空間を共にして刺激をもらわねば、恐らくその日は来ません。

私も万物から学べる感性を持ちたいものです。
きっとその前に朽ちるのでしょうが、それはそれで構いません。寧ろそれが普通です。
自分のよろこびを増やせればいいです。そしてそれが他者のよろこびでもあると尚よろしい。
さて、そろそろ筆を置くことにしましょう。
それではまた。ごきげんよう。

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