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菅原道真公と今宮神社

 老松神社は、菅原道真公が「今宮神社」に参拝したことから起源を持ちます。
 延喜元年(901年)、道真公は大宰府への左遷途中に「松ヶ根の井」で手を清め、今宮神社へ参拝したとされます。今宮神社は泉の近隣、菟道嶽の中腹にあったようです。その際、道真公は側にあった石に腰掛けて休憩したとされます。その石を「居敷石」といいますが、この石は明治時代に入ってからの道路工事の際に割ったか埋めたかして存在しなくなってしまったようです。
 正暦二年(991年)2月11日に入部村中通りに天神天満紅梅殿を建てた際、その敷地に遷座されたとされます。この時、老松宮を庄の産神(うぶすなの神)として、今宮社を地主神(土地の守り神)として祭ることになりました。

現在の今宮神社

 天正7年(西暦1579年)の戦火により老松神社とともに焼けてしまいますが、後に老松神社再建時に、同じく再建されます。現在も福岡市早良区東入部にあります。

今宮神社の祭神

 早良郡志によると、かつて荒平の庄、後、入部の庄と呼ばれる土地を勅命で管理していた菟道郷入部麿の勧請により、
・天武天皇
・菟道稚郎子(うじのわきいつらこ)
・早良親王
の三柱を祭っています。

 早良親王のお話は有名なので、割愛しますが、悲運の皇太子早良親王と、道真公の境遇が重なり、悲しい気持ちになります。今宮神社に参拝しながら、道真公はどのような気持ちだったでしょうか。
 このときはまさか、後世、自分が早良親王とともに八所御霊の一柱として祭られるとは思ってなかったでしょう。

その後

 今宮神社の大宮司に歓待された後、道真公は大宰府に向かいます。記録では大宰府までの移動の旅費は全て自費で、左遷後は棒給もなく衣食住もままならなかったようです。今宮神社を発ってから2年後の延喜3年(西暦902年)にその生涯を閉じます。
 数年して、雷が落ちたりして都が大騒ぎになり、天神様として祭られるのは、ご存知の通りです。
 天道好還ですね。


菟道郷入部麿について

 早良郡志で「郷」「卿」の両方の文字が使われていましたが、おそらく「郷」が正しいのでしょう。菟道といえば京都の宇治ですね。京都の宇治にいた氏族が時の帝の勅命をもって荒平の庄を治めにきたのだと思われます。 今宮神社に祭られている「菟道稚郎子」は西暦300年代の人物ですが、同じ菟道を冠する名前なので縁者と考えられます。
 尚、この菟道稚郎子もまた、悲運の皇太子です。古事記では「夭折」となっていますが、早良親王と一緒に勧請されているので、真実は似たようなものなのではないでしょぅか。
 菟道郷入部麿の名前から早良郡入部村になり、その屋敷は入部村熊本の山の中腹にあったので、その山を菟道嶽と呼ぶようになったのかもしれませんね。

天武天皇について

 よく知られているのに謎の多い人物であることもまた確かです。菟道郷入部麿に勅命を出したのはこの方でしょうか。にしては年代が150年ほど異なるのでまず違うでしょう。西暦800年代の帝のどなたかでしょう。
 天武天皇ともに勧請されている早良親王は天智天皇系の皇子ですので、基本的に微妙な間柄です。また今宮神社は「菟道稚郎子」「早良親王」と悲運の御霊を祭る神社と考えると、天武天皇が「悲運」にあたるかどうか。
 しかし、天武系の天皇は称徳天皇が最後で、再び天智系の天皇が皇統を取り戻しているので、ここらあたりかな。それはまた別の機会に。



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