カール・ハインリヒ・グラウン/Carl Heinrich Graun (1704-1759)●ドイツ人作曲家・テナー●個人の備忘録
フリードリッヒ大王とともに音楽都市、ベルリンの礎を築いたグラウン。
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*橋頭堡(きょうとうほ):橋を守るため、その前方に築くとりで。また、川・湖・海などの岸近くで、渡って来た部隊を守り、以後の攻撃の足場とする地点。音のタイル張り舗道。さんから学んだ新しい語彙。
グラウン兄弟 (兄も作曲家・バイオリニスト)は、後期バロックから古典派音楽への過渡期に活躍した作曲家で、その作風はギャラント様式による繊細な表現、ひたすらな旋律美の追究など、18世紀中ごろのドイツにおける新しい音楽思潮を反映している。
グラウンに興味を持った。ウィキに詳しく情報が上がっていた。ドイツの土地勘が全くないので、まずゆかりの地の場所から確認することに。
●ヴァーレンブリュック(現在のÜbigau, Dresden-Pieschen)に生まれる
●10歳の時、ドレスデンの十字架教会合唱団に加わる
●12歳時、ライプツィヒ大学に学籍登録
●21歳時(1725年)グラウンはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト・ヴィルヘルムの宮廷(現在のWolfenbüttel)で、テナー歌手と作曲家で採用され、1735年までに6つのオペラ他、宗教作品も含めて精力的な作曲活動に取り組み、その作品はハッセの作品と並んで、「良い趣味」の音楽としてドイツで広く評価される。
●当時のプロイセン(首都ベルリン)王太子フリードリヒの耳にも届くところとなり、1733年(29歳)頃から、当時王太子の宮廷がおかれていたルピーンにしばしば招待される
●1740年(36歳)にフリードリヒがフリードリヒ2世としてプロイセン王に即位すると、グラウンは宮廷楽長(Hofkapellmeister, court music director)に就任し、生涯その地位にあった
●1742年(38歳)王立ベルリン歌劇場のこけら落としは、グラウンのオペラ『シーザーとクレオパトラ』
●1755年(41歳)代表的作品:オペラ『モンテズマ』(Montezuma)
●1755年(41歳)代表的作品:受難オラトリオ『イエスの死』(Der Tod Jesu)バッハの『マタイ受難曲』が1829年にメンデルスゾーンらによって蘇演されるまで、ドイツ地域で受難節に演奏されるオラトリオとして定着
ドイツの北部で活躍