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カール・ハインリヒ・グラウン/Carl Heinrich Graun (1704-1759)●ドイツ人作曲家・テナー●個人の備忘録

フリードリッヒ大王とともに音楽都市、ベルリンの礎を築いたグラウン。
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フリードリッヒ王の趣味はどう育まれたか?その鍵となる人物が、大王の楽長、カール・ハインリヒ・グラウン(1704-59)。大王より8つ年上のグラウンは、ドイツ・バロックの首都とも言えるドレスデンの聖歌隊で歌い、本場、イタリア・バロックの橋頭堡*(大バッハもリスペクトした、ヴェネツィア楽派の巨匠、ロッティらが訪れ、華麗なるイタリア・オペラを繰り広げる!)とも言える場所で学んだ作曲家。ドレスデンでイタリアの最新の音楽に触れた後には、ドイツ・オペラの先駆的な試みを続けたブラウンシュヴァイクのオペラハウスで仕事(最初はテノール歌手としての契約だったが、間もなく作曲に進出、副楽長となる... )をし、本場イタリアとドイツ・ローカルの良い部分を吸収し、絶妙にニュートラルな音楽を形作って行く。そんなグラウンが大王に仕えることになるのは、大王がまだ王太子だった頃、1735年。大王と年の近いグラウンは、大王と感覚的に近いものがあったのだろう。そして、グラウンのニュートラルなスタイルが、若き大王を感化したか... やがて、グラウンが大王の趣味を方向付けし、大王の趣味がベルリンの音楽シーンとなる。

https://genepro6109.blog.ss-blog.jp/2016-11-21

*橋頭堡(きょうとうほ):橋を守るため、その前方に築くとりで。また、川・湖・海などの岸近くで、渡って来た部隊を守り、以後の攻撃の足場とする地点。音のタイル張り舗道。さんから学んだ新しい語彙。

グラウン兄弟 (兄も作曲家・バイオリニスト)は、後期バロックから古典派音楽への過渡期に活躍した作曲家で、その作風はギャラント様式による繊細な表現、ひたすらな旋律美の追究など、18世紀中ごろのドイツにおける新しい音楽思潮を反映している。

グラウンに興味を持った。ウィキに詳しく情報が上がっていた。ドイツの土地勘が全くないので、まずゆかりの地の場所から確認することに。
●ヴァーレンブリュック(現在のÜbigau, Dresden-Pieschen)に生まれる
●10歳の時、ドレスデンの十字架教会合唱団に加わる
●12歳時、ライプツィヒ大学に学籍登録
●21歳時(1725年)グラウンはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルアウグスト・ヴィルヘルムの宮廷(現在のWolfenbüttel)で、テナー歌手と作曲家で採用され、1735年までに6つのオペラ他、宗教作品も含めて精力的な作曲活動に取り組み、その作品はハッセの作品と並んで、「良い趣味」の音楽としてドイツで広く評価される。
●当時のプロイセン(首都ベルリン)王太子フリードリヒの耳にも届くところとなり、1733年(29歳)頃から、当時王太子の宮廷がおかれていたルピーンにしばしば招待される
1740年(36歳)にフリードリヒがフリードリヒ2世としてプロイセン王に即位すると、グラウンは宮廷楽長(Hofkapellmeister, court music director)に就任し、生涯その地位にあった
●1742年(38歳)王立ベルリン歌劇場のこけら落としは、グラウンのオペラ『シーザーとクレオパトラ』
●1755年(41歳)代表的作品:オペラ『モンテズマ』(Montezuma)
●1755年(41歳)代表的作品:受難オラトリオ『イエスの死』(Der Tod Jesu)バッハの『マタイ受難曲』が1829年にメンデルスゾーンらによって蘇演されるまで、ドイツ地域で受難節に演奏されるオラトリオとして定着

ベルリン(36歳宮廷楽長)> Übigau 生誕地>ドレスデン十字架教会合唱団>ライプツィヒ大学>ブラウンシュヴァイクで歌手と作曲家で採用>ベルリンへ  ハンブルグとハノーバーの位置も確認


ドイツの北部で活躍


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