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【感想】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(Joker: Folie à Deux)』結局どういう話だったのか。【ネタバレ】

 

 

 ネタバレしますよー。いいですかー?


 さて、



 まじ簡単に言うと、勝手にアイドルにされたJOKERが厄介オタクファンにアイドル像を押し付けられてそれに耐えられなくなるって話です。

 刑務所までアイドル・JOKERを追っかけてくる厄介なドルオタ代表のリー(ハーレイ)に、アーサーは恋をしちゃいました。
 巧妙なドルオタのリーは、アーサーにアイドル(=JOKER)として生きろ!アイドルの職務を全うしろ!って催眠をかけて、アーサーはリーに夢中だからそれに応えようとします。
 しかしながら、法廷で自分の過去と内面が掘り下げられていく中で、JOKERを演じ続けることに矛盾が生じてしまう。
 で、「もうみんなの期待に応えられない。嘘(joke)つき続けるの無理。もうアイドルできません」ってなっちゃいます。
 で、ファンは落胆。最後これまた厄介なドルオタに刺されて終わり。

 あえて下品にあらすじ述べるとこんなとこです。が、ほんとはもっともっと芸が細かい作品なので、以下に述べていきます。

 細かいところ。感想を交えて。

 フォリ・ア・ドゥって?

 「フォリ・ア・ドゥ」っていうのはまあ、狂気の感染なんですが、この作品ではハーレイの狂気がJOKERに感染している。つまり、狂気の感染経路が、『JOKER⇒市民(ハーレイ)⇒JOKER』ってな感じで、一作目でJOKERが市民に感染させた狂気がこの二作目でJOKERに跳ね返ってきてんですよね。この回収の仕方にはグッときましたね。
 個人的には、ハーレイとJOKER二人が互いの妄想爆発物語に閉じこもるって話かと思ってましたが全然違いましたね。
 監房の中、アーサーにJOKERのメイクを施すリー。この物語は、リーが自身の狂気でアーサーの中のJOKERを目覚めさせるところから駆動します。
 妄想の共有は要所要所でのミュージカルシーンに留まりました。
 
 まあ結局は、アーサーは跳ね返ってきた狂気を受け止めきれなかった。
 

 何故、アーサーはJOKERでいられなくなったのか。

 リッキー(最初の方でアーサーがキスした男)がアーサーに感化されて歌を歌っていたのを刑務官ジャッキー(歌が好きな刑務官)に殺されたところが終盤のティッピングポイント、つまり物語の分かれ目の一つになってます。リッキーが刑務官に殺されたとき、重要なカットインが入りました。
 
 一作目、電車(と駅)で三人のウォールストリートガイズを殺した後、アーサーは全力疾走して便所に飛び込みました。アーサーはそこでダンスをした。鏡の中に腕を広げるJOKERを見た。アーサーがJOKERを演じることになった分岐点のシーンです。

 で、本作。リッキーが殺されたとき、ベッドで震えるアーサーのシーンから、例の便所でダンスしてたときのカットインが入りました。しかしながら、次のカットインでは、アーサーは例の便所で必死に顔を洗ってメイクを落としていたんです。
 一作目でJOKERを演じる重大な分岐点となったその場所で、JOKERのアイコンであるピエロのメイクを落としたのです。これはアーサーがJOKERを演じることから降りたことを明確に示すシーンとなります。
 そして、アーサーは汚くて愚かなシステムを受け容れたのです。え、何故? ってなりますよね。
 
 歌が好きで、序盤でアーサーを音楽室に連れて行った刑務官・ジャッキーの存在がキーです。彼はシステム側の人間として音楽を愛しています。
 そんな彼が何故リッキーを殺したのか。ここが重要です。
 この作品では、刑務官は愚かで汚い社会システムを体現した存在として描かれています。会話も下品だし、規則は守ってないし、腐敗してます。
 その彼らに、自分に感化されて増長してしまったリッキーが殺されてしまった。
 リッキー(受刑者)殺害しかり、裁判しかり、所詮、生殺与奪件は汚いシステムの側にある。それを覚って、アーサーはJOKERを演じる心が折れてしまいました。
 まだ、ん? って感じですよね。説明を続けます。
 
 彼らは、アーサーがメディアで露出するようになると、「スター気取りか?」と執拗に嫌味を言います。笑うアーサーを暴力で封じるシーンもありました。
 それも当然、彼らは受刑者を徹底的に見下して嘲笑って、それで優越感に浸ることで心の平安を保っているからです。
 アーサーに対しても執拗に「ジョークを言え」、「ジョークはどうした」と言っていましたね。「社会のクズ(受刑者)は俺たちに笑われるために存在しているんだ」。それが彼ら刑務官(体制(システム)側)のメンタリティです。

 だから、アーサーの存在感が大きくなり、他の受刑者が増長するにつれ、ジャッキー達刑務官は当然不愉快になっていきます。見下していたものが大きくなっていく。
 
 そして極めつけに、
音楽を自分(システムの人間)のものだと思っていたジャッキーは、リッキーが笑いながら大声で歌を歌ったとき、自分の大好きな音楽が(システム外の人間に)奪われたと感じてしまったわけです。それがジャッキーの逆鱗に触れ、リッキー殺害に至った。
 で、ジャッキーにリッキーが殺されたとき、アーサーも思ったわけです。音楽が奪われた、と。システムはいつでも自分から音楽を奪えるし、命すらも奪える。アーサーはずっと刑務所とか法廷の中で歌っているだけで、つまりはシステムの監視のもと、システムの中で刃を向けられながら歌っていたわけです(それも脳内で)。こうしてどうしようもない現実を突きつけられ、心が折れてしまいました。便所で顔を洗って、メイクを落とし、もはや滑稽なピエロと大差ないJOKERを演じることを辞めます。

 一作目では、アーサーにとってJOKERを演じることは解放を意味していました。彼は自身からJOKERを演じることを選んだ。だから気持ちが良かった。それが、本作になって、外から押し付けられるものになってしまった。だから耐えられなくなった。

 ちなみに、この記事ではアーサーがJOKERを演じていたって書いてますが、私は一作目を見た段階では、アーサーはJOKERを演じていたのではなく、覚醒して完全にJOKERに成ったのだと思っていました。そして、そこにカタルシスがありました。二作目ではここがズラされていたので、拍子抜けした方も多いと思います。

 アーサーがジョークを言わなくなったのは何故? コメディアンの夢はどうなったの? なんで音楽に置き換わったの? という疑問が浮かんできますね。

「ジョークを言え」と言われても、口をつぐむようになったのは何故でしょう。
 それは、体制側に笑われる滑稽なピエロになるのを拒んだからです。体制側を笑わせることの不毛を覚っているからです。
 一作目、TVショーにアーサーを招いたマレー・フランクリンは、体制側の人間として、システムからこぼれ落ちた存在として生きてきたアーサーの嘆きを否定し続けました。マレーは腐ったシステム側の人間だったんですね。
 そして、マレーを殺したとき、アーサーはコメディアンになる(マレーのようになる)ことの馬鹿々々しさとはおさらばしたんです。
 しかしながら、本作で、ハーレイに出会ってからはジョークを取り戻します。精神医学を専攻していた頭のいいハーレイがアーサーに狂気の催眠術をかけていたからです。その狂気の催眠術が「フォリ・ア・ドゥ」でした。要所要所で、妄想世界であるミュージカルシーンとして表れました。
 劇中の音楽は全部アーサーの頭の中にあるものだとトッド・フィリップ監督は語ってます(パンフレット参照)。一作目のラストで、何で急にアーサーが歌い出したのか、正直わからないところがありましたが、あそこが本作に繋がっていたんですね。コメディがなくなったあと、アーサーの頭の中で流れていたのは音楽だった。

というか、ジョークを言えなくなったらそらもうジョーカーじゃないですから、本作ではそれを呼び覚ます装置として、ハーレイが用意されています。コメディに代わる新たなジョークとして音楽が扱われています。

劇中歌、ミュージカルシーン

 妄想世界ですね。アーサー発の妄想もあれば、ハーレイがアーサーを催眠術さながら妄想世界に誘うところも多いです。
 私はこれからこの作品の劇中歌に浸って楽しみたいと思います。ホアキンとガガが歌ってて、めっちゃいいですよね。そしてまた観に行きます。そしてまた歌を聴きます。たぶんそうなる。

 殺されたときに歌った曲『Gonna Build a Mountain』のラストコーラス、「息子」について

 「フォリ・ア・ドゥ」。狂気の感染経路について話しましたね。『JOKER⇒市民(ハーレイ)⇒JOKER』。ラスト、アーサーは殺されたとき、歌を歌いました。妄想世界では、ハーレイの銃によって撃たれたJOKERがうずくまって歌っています。山をつくろうって歌のラスサビ。『息子を残す』、『俺の代わりに息子がいる』、『息子を地上の楽園に残す』、『山を築く』。そう歌うJOKERを前にしてハーレイは困惑していました。何故困惑? 妊娠です。自身でもアーサーに明かしていましたが、リーはアーサーの子供を身籠っていました。それはハッタリではなかった。この作品の脚本は無駄なシーンを排除してできています。序盤の監房でのセックスはただのセックスシーンじゃありません。大きな意味を持った伏線だったんです。その伏線がラストにつながる。ここの歌唱はマジで不気味で怖い。彼女がアーサーに感染させた狂気は、アーサーの子供としてハーレイに跳ね返ったのです。だから、狂気の感染経路は『JOKER⇒市民(ハーレイ)⇒JOKER⇒ハーレイ』。こうなった。だから、この物語はどこまでいっても堂々巡りなんですね。

 この作品の評価について

 実は、日本で本作が公開される前から、ネットで海の向こうのお友達のみなさんが本作を酷評していることは知っていました。そして、それは日本でも同様らしいです。一緒に観に行った友達はみんな駄作だと言っていましたし、ネットでもどうやらそうらしい。
 しかしながら、面白いことにこの作品は酷評する彼らのこともしっかり回収しています。彼らは何故この作品を駄作と判断したのか。それは、アーサーがJOKERじゃなかったからです。そして、彼が「JOKERの役割」を全うせず、「JOKERの仕事」をやり遂げなかったからです。
 
 つまり、勝手にJOKERに役割を押し付けて、勝手にJOKERに失望する。

 この物語の筋と全く一致してますね。アーサーに落胆して彼を見放したハーレイや街のJOKER信者達は彼らだったんです。そして、彼らがJOKERを刺した。なんて美しい作品なんだ!
 
 もしかしたら、アーサーは裁判の過程で自身の矮小さを自覚し、そんな矮小な自分に感化されて増長するゴッサム・シティの大衆たちにもうんざりして、JOKERを演じることを辞めたのかもしれません。そうだとしたら、リッキーの末路への見方が変わってきますね。刑務官(システム)の無惨さと同時に、リッキーに大衆の末路を垣間見たのかも。
 
 みなさんはどう思いますか? 果たして、息子は生まれるのでしょうか。ラストでアーサーを刺した青年。彼はアーサーを刺したナイフで自分の口を裂いていましたが、彼が息子だったのだろうかとも思えてきます。自分を殺してJOKERになれ、とそうアーサーは言っていたのかも。

 もっと言えば、「フォリ・ア・ドゥ」、狂気の感染とその共有状態は、映画そのものとそれを観た視聴者との関係をも示唆しています。 私たちは「フォリ・ア・ドゥ」の外に出られているのか。 
 この作品の大筋は、一作目で既にJOKERの「フォリ・ア・ドゥ」にかけられた視聴者の中のJOKERを解体する物語だった。
 
 しかしながら、私たちの中にはアーサーの息子が植え付けられてしまっている。
 私たちは「フォリ・ア・ドゥ」から逃れられるのでしょうか。あるいは、それを受け容れるしかないのかもしれない。

 あざした!

 読んでいただきありがとうございました!
 ここで予防線張らせてください。今日10/11、公開初日でまだ一回しか観てないです、私。なので、そこちゃうやろってとこがあればコメントで教えてくださいね。
 また、新たな考察などあれば是非是非教えてくださいね!!記事の感想も待ってまーす!

 また観てきて発見したことがあれば追記に書いていきます!

 ではでは!

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