小説における多岐の自分とその距離について

文章表現がメインの表現手段である小説において。文章表現程作者と読者の距離が近いものもあんまりないと思う。他の媒体を考えてみるけれど、漫画も、アニメも、映画も、ドラマも、作者と読者の距離が遠いことはもちろん、作者と登場人物の距離もかなり遠い。映画やドラマなんてその最たる例で、監督と役者は別人だけれど、漫画やアニメは一応書いた人ってのと書かれたキャラってのがいる(アニメも監督がいるにせよ)。作者と登場人物の距離が遠い=作者と読者の距離が遠い。キャラクターという媒介を経ているからだ。漫画もキャラクターの造詣がとても分かり易い。絵があるから。でもその絵も作者が描いている訳だから、ドラマとかよりはかなり作者との距離が近い。で、次にライトノベル。最後に最も近いものとして小説だと思う。
作者が登場人物と距離が近いってのは、イコール自分だからだ。まったくの自分と別人のキャラクターを創り出すことは限りなく不可能に近いと思う。ロココ趣味が好きな女生徒も、スランプに陥っているホームズも、省エネ主義を自称する男子高校生も、全てどこかで自分と結びついた存在なのだ。表題における多岐の自分とはそういうことで、様々な可能性と考えを持った多岐のキャラクターは自分の頭というごく限られた空間のみでしか生成されえない有限なものなのかもしれない。主人公は作者の分身であるとは言わないけれど、とても身近なところにいる存在なのだ。
そう考えると、作者と登場人物の距離が近いってことは読者との距離も近いってことになってくる。
漫画やラノベとかだと、作者と読者で同じ人物像を絵として認識できるのでキャラクター造形のイメージは両者の間で近いかもしれないけれど、その分キャラクターとの間には壁ができる。俺はこの壁がかなり好きだけれどその話は置いておいて、そうなる。
距離が近いと、かなり作者の原液というか、己の内にある濃いものを読書体験と共に飲まされることになる。自分が書いた小説を読まれるのと尻の穴をかっぽじって見られるのが同義だということは、そういうことだ。
結論を頭において文章を書いていないので話があっちこっちへ飛んでいる。適当にダラダラと書いてきた文章を形だけでも結論付けてみると、小説はやはり選り好みが激しくなってしまうということ。好きな作家はとことん好きになるし、嫌いな作家はとことん嫌いになる。そういうものなので、俺は小説を読んでいる人にはもっと嫌いな小説について言及してほしい。本を読んでいれば大抵好きな作家よりも嫌いな作家の方が増えていくものなのだ。こんな体臭MAXの媒体に触れて、嫌いな作家が出来ないわけがない。
漫画と小説におけるキャラクターの扱い方の違いって観点でも考えられることがある。さっき書いた壁に通ずる話になってくるからこれから書くと長くなる。もう疲れたので指を置きます。ノシ。

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