直木孝次郎さん逝く
2019年2月17日
直木孝次郎さん死去=歴史学者「河内政権論」提唱
2/17(日) 10:50配信 時事通信
古墳時代に政権交代が起きたとする「河内政権論」で知られる歴史学者で大阪市立大名誉教授の直木孝次郎(なおき・こうじろう)さんが2日午前1時27分、老衰のため奈良市の病院で死去した。
100歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長女東野美穂子(とうの・みほこ)さん。
1919年神戸市生まれ。京都帝国大(現・京都大)文学部を卒業後、海軍入り。戦後、大阪市立大助教授などを経て同大教授を務めた。
4世紀までは大和地方(奈良県)に築かれていた巨大古墳が、5世紀には大阪の河内地方に登場した点に注目。この時期に政権交代が行われたとする「河内政権論」を提唱した。
古事記や日本書紀の批判を通じ、日本の古代史研究をリード。大阪・難波宮跡など遺跡の保存にも尽力し、第11回井上靖文化賞を受賞した。
主な著書に「日本古代国家の構造」「日本古代の氏族と天皇」など。
しばらくお名前を拝見していないと思っていたら100歳になられていらっしゃったのかと感慨深い。
直木さん、坪井清足さん、森浩一さんの御三方の著書によって、私は本格的に古代史に目覚めた。
それぞれの著書を買い漁り、それこそ貪るように読み耽った。
するとどうしてもその地に立って、千数百年も昔の日本の古代に想いを馳せたくなる。
当時は会社勤めで、まだ週休二日制などは定着しておらず、部下たちは土曜日は半ドン(やがて土曜休みになった)で退社できていたが、こちらは通常勤務だった。
そそくさと退社し、そのまま車を駆って奈良へ走った。
当然、月曜からは通常勤務なので、日曜の夜遅くに帰宅。
若かったとはいえ、体力も気力も好奇心も知識欲も旺盛だった。
時空を超えて日本の古代に触れ、非日常空間に身を置いたことで、たった一日であったにしろ、様々な雑事やストレスから解放された喜びや感動が勝った。
マニアックな古代史ネタを書き綴っても読み飛ばされることは承知しているので触れない。
ただ、直木さんのこの著書は、出掛けるたびに旅のお供として持参した。
特に箸墓などの記述には刺激を受け、今までに何度も箸墓周辺を歩き回ったし、一昨年に訪れた時にも持参した一冊だった。
奈良在住の直木さんが羨ましかった。
叶うことではないが、桜井市辺りで暮らしたいと思ったものだ。
そうすればチャリや散歩感覚でフラッと纏向や明日香などへ簡単に出掛けられる。
大神神社の本殿から山の辺の道を北へ行くと、狭井神社の前を通り、狭井川を渡る。狭井川のほとりには神武天皇の皇后伊須気余理比売(いすけよりひめ)が住んでいたという伝承がある(古事記)。平安初期の高僧玄賓(げんぴん)が隠棲のあとである玄賓庵を過ぎ、檜原神社の前へ出る。
ここからの奈良盆地のながめはすばらしい。箸墓古墳は目の下に見える。近寄って観察してみよう。
前方部を西やや南よりに向けた、全長280メートルの前方後円墳。高さは後円部25メートルにたいし、前方部は15メートルと低く、全体の平面形は三味線の撥形に前方部の幅がひろがるという典型的な初期古墳の形態をとる。特殊器台形といわれる初期の埴輪も出土しており、古墳としてはもっとも古いものの一つと考えられる。
大正時代以来、これを『魏志』倭人伝に見える邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説がある。もちろん邪馬台国畿内説の立場からの説であるが、倭人伝には、卑弥呼が死ぬと、「大いに冢(塚)を作る。径百余歩」と書いてある。一歩は六尺、魏代の一尺は約24センチメートルであるから、百歩はその600倍で約150メートル。箸墓の全長よりは短いが、後円部の径は157メートルで径百歩にほぼ一致するのが、箸墓の築造年代が古いと考えられることとともに、卑弥呼の墓とする主要な根拠である。
しかし卑弥呼の死が倭人伝によれば三世紀中ごろの248年前後であるのにたいし、日本における古墳の築造は三世紀末ないし四世紀の初頭とするのが考古学界の通説であるために、畿内説に立っても、卑弥呼の墓とは認めがたいとする意見が有力である。墓の主と伝えられる百襲(ももそ)姫が神の妻であったといい、宗教的・呪術的な性格をもっており、「鬼道を事とし能く衆を惑わす」という卑弥呼に似ていることも、卑弥呼の墓説の論拠の一つだが、箸墓の被葬者についての『日本書紀』所伝がどこまでたしかか、疑問がある。
けれども『記紀』の所伝の中には、いちがいに無視できない場合もある。
(中略)
もう一つ問題となるのは、近年考古学界で古墳成立の年代をいままでより古く考え、三世紀後半とする意見が現れていることである。もちろんその説が正しいとしても、箸墓と卑弥呼の死のあいだにはまだ若干の年代の差があり、箸墓が卑弥呼の墓とはならないが、年代差のちぢまることはたしかである。今後の研究の発達に注目したい。
「今後の研究の発達に注目したい」とは研究者としての良心であり根本姿勢である。
その姿勢からちょいと踏み出した素人古代史マニアの私は、更に敷衍させて被葬者を類推した。
(次回にアップします)
私なんぞよりもっと大胆に踏み出すのが小説家や哲学者で、清張、黒岩重吾、邦光史郎、そして一ヵ月前に亡くなられた梅原猛さんたちだった。
限られた手掛かりから結論を導き出す楽しさは、史実を超えて我々を夢中にさせてくれた。
極上のミステリーや推論で、もしやそれこそが本当の史実ではないかと考えながら読んだ。
さて、私なんぞにへっぽこ古代史を語らせたら切りがないのでさすがに自粛するが、直木さんの名はかつて朝日歌壇で何度か見掛けたし、他にも何かの折に目にしたことがある。
瑞々しい感性が心地よく、短歌の魅力を十全に示し教えてくれた。
旅十日今日も山行く淋しさを耐へつつあるに山鳩の暗く 直木孝次郎
雪ふれば信濃の山の恋ひしくて今年も来にけり野尻高原
死ねといふ訓話を聞きし夜を思ふ七十二年前雨の夜なりき
特攻は命じたものは安全で命じられたる者だけが死ぬ
(2015年 朝日歌壇賞受賞)
大国のうしろにつけば安全かおまえ前行けといはれたらどうする
戦いに負けて日本はよくなれどそのため死にたる人の多さよ
四人の子つぎつぎ戦死せしという無残なるかないくさというもの
記紀や風土記などの文献と考古学成果を比較すれば、実証がすべてに優先される。
当時は箸墓近く、纏向の石塚古墳の周濠から、古墳時代前期初頭の土器が大量に出土されたことにより、奈良盆地では古墳時代最古の古墳との認識が広まった。
その後は纏向遺跡の発掘も進み、同時に纏向こそが邪馬台国ではないかとの傍証も増えた。
同じく箸墓の研究も盛んになり、卑弥呼の時代と重複する可能性も高くなった。
後は「親魏倭王」の金印の出土を待つばかりである、な~んちゃってね。(^^ゞ
でも本当に出土したら国内はもとより、世界中がスゴイことになって、私は確実に腰抜かします。
直木孝次郎さん 「建国記念の日」で問題提起、各地の遺跡保護運動にも尽力
毎日新聞2019年2月16日 22時28分(最終更新 2月17日 00時37分)
直木孝次郎さんは、古代史研究の傍ら、「建国記念の日」制定に関して問題提起し、難波宮など各地の遺跡保護運動にも参加した。歴史の事実や古代の文化を現代に伝える遺跡を破壊から守るために闘った生涯だった。
建国記念の日に関しては、国会で「歴史学上の根拠がない」と主張。議論を巻き起こした。日本史教科書の検定問題を巡る「家永裁判」では、家永三郎氏側の証人に立った。
自らの神話研究、古代史研究について「戦争が始まったことについて歴史教育に責任の一端がある。国粋主義的な考え方への反証をはっきりさせねばという思いがあった」と語っていた。
一方、難波宮跡(大阪市)、平城宮跡(奈良市)、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)などの保存運動にも積極的にかかわった。飛鳥池遺跡の上への「万葉文化館」の建設について、「遺跡として保存活用を図るべきだ」と反対した。吉野熊野国立公園の奈良県吉野町・吉野山近くに進められたゴルフ場計画の中止を求めた訴訟でも、「歴史的景観を守れ」と原告を支援。「破壊の危機にある遺跡や文化財を助ける仕事に従事できたのは、歴史学の研究者としては本当に幸福なことではないか」と述べている。
また、武者小路実篤と親交があった文学好きの父親の影響で、旧制中学時代から俳句、短歌に親しみ、アララギの土屋文明の手ほどきを受けた。1987年には天皇陛下から歌会始に招かれて歌を詠む召人(めしうど)になった。感性豊かな歴史家として多くの人に愛された。【山成孝治】
合掌