春を乞い願うの記
2012年2月21日
やや暖かく感じられた今日の午後、少しだけ近所を歩いてみた。
北海道ではまだ大荒れの様子で心配するものの、関東(東京)では畳の目をひとつずつ数えるような遅々とした歩みで、それでも春はやって来ている。
去年はさすがに無理だったが、毎年、定点観測をしているハクモクレンが小さな蕾を膨らませていた。
例年通りならば、ちょうど一カ月後には開花するはず。
でも今年の寒さは確実に影響するだろうし、さて、満開となるのはいつ頃だろうかと想像してみる。
想像してみても、人知の想像の及ばない出来事ばかりが続くから、先のことを考えても、若干の虚しさのような感情がつきまとう。
それでも、選択の悪さと運の無さで、よくぞ今日まで生きて来られたものだと、我ながら驚くのも事実。
もともと運命などというものは信じてはいないが、運、不運があるだろうことは、嫌というほど思い知らされている。
ソメイヨシノのまだ固い蕾は心地良さそうに陽の光を受け止め、フキノトウはすでに顔を出した。
地球上の昆虫は75万種、動植物に至っては140万種もが生きている。
子供の頃は、草木には心臓が無いのに、どうして生きていると言えるのだろうと疑問に思ったものだ。
けれど、成長するからには、立派に生きているのだと今はわかる。
わかることと理解することは、私の中ではまったくの別物なのだけれど、陽の光を浴びていると、その境界が曖昧になる。
草木を愛でたり昆虫を探したりしながら歩き、ふと我に返ると、実は春を探していることに気づく。
先月末、友人たちから呼び出された。
今年に入って生き方の方針転換を図ったせいなのか、人との交流や会話が億劫になっている。
電話やメールも然り。
だから断ろうと思ったものの、迎えに来られては仕方ない。
促されるままに出掛けた。
私の誕生日会&激励会だという。
誕生日を祝われて喜んだり、況してや感激する歳ではないしと、それでも四人に囲まれて食事をした。
私が主役だから、ある程度は我慢もするが、みんな私にばかり話し掛けるのには、いささか参った。
人と会い、会話することがとても面倒なのだ。
その時間を惜しむ心持ちもある。
それでも話をするうちに、仲間の心理カウンセラーの一人が言った。
「やや、鬱の傾向があるみたい」
要するに、それまでの会話は私の激励会ではなく、問診や心理テストのようなものだったのだとわかった。
そのカウンセラーは、主に青少年を看ているので、中年の私の、いったい何が分かるのかと懐疑的にもなる。
考えなければいけないこと、行動しなければいけないことなど、確かに私のキャパというべきか、能力の限界に近いことは自覚している。
けれど、いま考えても仕方ないことは思考から排除しているし、日々の暮らしも人並みにこなしている。
眠っていても悪い夢ばかり見るが、多分うなされて目覚めるのだろうが、ベッドから抜け出れば、すべてを忘れるように心掛けている。
だからリスカやオーバードーズを繰り返す若い人たちと一緒ではない、というしかない。
それらの大半は、社会への帰属欲求だと知っているからだ。
そのことを強調すると、
「自分の感情をコントロール出来ているから、しばらく見守ることにする」
と、解放された。
頑固なようで、その実、フレシキブルな思考も持ち合わせていると、ささやかながら自負しているので、やや安心させることに成功したのだろうと、そう捉えて別れた。
きっと、心の持ち方ひとつなのだ。
けれども、指摘されたことは常に頭の中にあり、以後、日常の些細なことになるべく感動するように気を配る暮らしを実践することにした。
例えばだ。
混雑していると思って乗った電車が意外に空いていて座れた。
お年寄りに席を譲ったら、過分なお礼の言葉を頂戴した。
ホームの立ち食い蕎麦屋の天蕎麦が美味しかった。
街中を、仲良く手をつないで歩く若いカップルが微笑ましかった。
その二人の幸せそうな笑顔に、こちらの心が和んだ。
帰って、温かいお風呂に法悦を感じた。
夕食の鱈ちりや湯豆腐の美味しさに大満足した。
睡魔がやって来るまで、ベッドで毎晩読む万葉集が楽しみだ。
他にも数えれば切りがない。
今日の散歩も気分のリフレッシュになったし、あれ? まだイヌフグリが咲いてないぞ、などの足元や、見上げた空の透明感に感激もした。
こうしたささやかな満足感をかき集めれば、それが幸福感になる。
夕陽を見て、それを寂しいと感じるか、それとも純粋に美しいと感じるかでも、自分の現在の精神状態が分かる。
考えても自分の力の及ばないことは棚上げにするし、それが精神衛生上、好まざることならば、切り捨てるに限る。
何も書くネタがないのに、日記にここまで長々と駄文を綴ることが出来たので、鬱傾向なんてもともと無かったと思うことにしよう。
ここ数日は、確かに滅入ることもあったが、日常の中でちょっとした楽しいことや、自然の織りなす造形の妙に感動することを心掛けて、これからも暮らしていけば、周囲の印象も自ずと違ってくるだろう。
幕末に橘曙覧(たちばな あけみ)という歌人がいた。
曙覧は、本居宣長を歌の師と仰いだ田中大秀の友人で、優れた秀歌も何首か遺しているが、彼を有名にした「独楽吟」がある。
手慰みで作ったような歌風の評価は現在も低いが、始めから戯れ歌感覚と心得て味わうと、軽さだけではない面白みがあって、当時の庶民の楽しみを垣間見ることが出来る。
楽しみは草のいほりのむしろ敷き
ひとり心をしづめをる時
楽しみは妻子(めこ)むつまじくうち集ひ
頭並べてものを食ふ時
楽しみは心に浮ぶはかなごと
思ひつづけてたばこ吸ふ時
楽しみは乏しきままに人集め
酒のめものを食へといふ時
楽しみは童墨するかたはらに
筆の運びをおもひをる時
楽しみは神のみ国の民として
神のをしへしを深くおもふ時
世情騒がしき幕末にあって、この何とも平和な歌を詠んだ精神には、肩に力の入らない日常の余裕がある。
この余裕は、謂わばステアリングやクラッチの「遊び」のようなもので、欠くべからざるものなのだと、深く頷く私がいる。
これほど春が待ち遠しい年は、かつて一度もなかった。
今日は大好きな梅と水仙、そして福寿草くらいしか見ることは叶わなかったが、本格的な爛熟の春が来れば、今よりも、もっともっと元気が出るだろうし、今日からちょうど三カ月後の5月21日の朝、7時31分過ぎには、日本(東京、名古屋、大阪などの大都市)では25年振り(前回は沖縄だった)に金環日食が見られるそうだ。
梅雨の前だから、期待したい。
友人たちにも教えてあげよう。
それとも、もう知っているかしらん?
そしてこの程度の内容なら、わざわざ連絡する意味も無かろうとの思いもあるが、気遣ってくれる友人たちへの、私の存在証明と感謝のつもりで知らせよう。
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