冤罪4-3 足利事件の報道の検証は検証になっているか
2009年7月20日、TBSテレビが、自局の足利事件報道を検証した30分番組を放送した。
すぐにYou-Tubeに載るかと待っていたが、誰も関心がないのか、一向にアップされない。
いずれ、どなたかが出してくれるとは思うが、少々時間が取れたので、録画を観ながら文字に起こしてみる。
検証と謳いながら、警察・検察の映像、特に未成熟なDNA捜査などを強調して、メディア(自局)の責任を薄めているように感じるのは私だけだろうか。
そんな番組を深夜帯に流し、ワイドショーやプライムタイムでは警察・検察批判に終始している。
ナレーションの締めくくりでは番組を自己完結させて終わらせ、メディアとしての本当の反省が視えて来ない。
坂本弁護士一家殺害事件のきっかけを作ってしまったオウムへの対応以来、TBSは未だ死んだままなのだろうか。
自己検証・足利事件
~私たちはどう報じたか~ (報道の魂 ♯46)
18年前のDNA鑑定は間違っていました。
しかし、その間違った鑑定によって一人の人間が罪人とされ、17年以上も自由を奪われて来ました。
「自分としては、まったく身に覚えがありません。私は無実で、犯人ではありません」
(菅家利和さん)
科学的と持て囃された鑑定は、未成熟で不正確なものでした。
けれども、警察、検察はおろか、裁判所、そしてメディアまでもが疑いの目を持たず、問題に気付きませんでした。
新たな鑑定により、かつての鑑定の誤りが証明された時、弁護士は訴えました。
「DNA鑑定が正しかったというふうに、言い続けた人は、反省しなければいけないと思います」
(佐藤博史弁護士)
私たちTBSは、足利事件を、どう報じて来たのでしょうか。
何を伝え、何を伝えて来なかったのでしょうか。
事件報道のあり方について、改めて考えます。
事件の第一報は1990年5月13日、午後のニュースでした。
「栃木県足利市の河川敷で、昨夜から行方不明になっておりました四歳の女の子が遺体で発見されました。遺体が発見されましたのは、足利市内の渡良瀬川の河川敷で、今日午前11時頃、見回り中の警察官が、藪の中で幼い女の子が死んでいるのを発見しました」
(1990年5月13日 TBSニュース)
難航した捜査が大きく動いたのは、発生から一年半後でした。
91年12月2日、足利署の二階から、一人の男性が両脇を抱えられて出て来ます。
幼稚園バス運転手だった菅谷利和さんが、容疑者としてメディアに曝された瞬間でした。
「569日目に解決した、栃木県足利市のM○○ちゃん殺害事件です。菅谷容疑者はよく眠れなかったためか、やつれ気味で、終始下を向いたまま、隠れるように車に乗り込み、宇都宮地方検察庁に送検されました」
(1991年12月2日 TBSニュース)
「11時間にも及ぶ長い取り調べの末、菅谷容疑者は○○ちゃんの霊に申し訳ないと、涙ながらに自供を始めたということです。これまでの調べで菅谷容疑者は、○○ちゃんが可愛いと思い声を掛け、河原に連れて行って、いたずらしようとしたところ騒がれると思い、殺したと話しているということです」
(1991年12月2日 TBSニュース)
「今回、菅谷容疑者を特定する決め手となったのは、DNA鑑定という新しい方法でした」
(1991年12月2日 TBSニュース)
「DNA鑑定とは、現場に遺されたわずかな血痕や体液などから、遺伝子の本体であるDNAを取り出して、個人を見分ける方法です。この方法は指紋鑑定のように絶対的なものではありません。しかし、従来の血液型で見分ける方法と組み合わせると、ほぼ百万人に一人まで、個人を特定することが出来ます」
(1991年12月2日 TBSニュース)
逮捕の決め手はDNA鑑定、そう報じられました。
犯人のDNAと菅谷さんのDNAが一致したとされたのです。
長時間の取り調べのあと、菅谷さんは、自白したとして逮捕されます。
「○○ちゃんの、写真を、見せられました。で、見せられた時に、この○○ちゃんに謝れと言うんですよ。自分はやってないので、首をかしげて、こうやってうなだれました」
(菅家利和さん)
当時、科学警察研究所で始まっていた犯罪捜査用のDNA鑑定は、実はまだ試行段階でした。
しかし、その技術レベルを問題視する声はありませんでした。
菅谷さんが自白したとされたため、冤罪を疑った報道も皆無でした。
それどころか、足利で起きた別の二つの幼女殺害事件が、あたかも菅谷さんと関係しているかのように報じられます。
「捜査本部では昨日に引き続き、遺体が見つかった場所から1キロほど離れた、菅谷容疑者が借りている福居町のアパートと実家を捜索しました。また足利市周辺では、他にも1979年から幼女が殺される未解決の事件が三件起きており、警察では今回の事件との共通点が多いことから、これらの事件についても、関連について調べることにしています」
(1991年12月3日 TBSニュース)
そして最初の逮捕から三週間後、菅谷さんは別の幼女殺害事件についても自白したとして、再逮捕されます。
菅谷さんは連続殺人犯と疑われ、追求されます。
しかし、捜査はここで壁にぶつかります。
二件目の逮捕はしたものの、警察は裏付けの証拠を集めることが出来なかったのです。
「栃木県足利市で起きた連続幼女殺害事件で、宇都宮地方検察庁は、菅谷利和被告が自供したという二件目のF○○ちゃんの殺人容疑について、処分保留にすると発表しました。宇都宮地方検察庁は、自供の裏付けが十分取れず、このまま起訴しても有罪となる見通しがないとして、処分保留としたものです」
(1992年1月15日 TBSニュース)
後から思えば、この辺りでメディアは警察発表を最初からさかのぼって疑ってみる必要があったのかも知れません。
しかし、この頃、事件への関心はピークを過ぎ、捜査に対する十分な検証も行われませんでした。
菅谷さんが次にニュースに登場するのは一ヶ月後、宇都宮地裁での初公判の時でした。
「栃木県足利市の、M○○ちゃん殺害事件で起訴された菅谷利和被告の初公判が、今日、宇都宮地方裁判所で開かれ、菅谷被告は罪状認否で罪を認めました。グリーンのセーターに紺のジャージ姿で法廷に入って来た菅谷被告は、罪状認否で起訴事実について、本当に申し訳ありませんでしたと声を震わせながら答え、罪を認めました」
(1992年2月13日 TBSニュース)
法廷でも罪を認めたままだった菅谷さん。
まさに、ここに問題の深刻さが現れていると指摘する専門家がいます。
自白してしまう人間の心理について研究してきた浜田教授です。
「弁護人も実はDNA鑑定が出ているということですから、本人、しかも自白をした後でしたから、やってないとは思わなかったんですね。家族も、報道で、DNA鑑定で間違いないという形でこんなひどい奴が、こんなひどい犯行を犯したんだということですから、家族も小さくなっているわけですよ、地域の中で。そうすると声を上げられない。で、自分の身内である菅谷さんに対して、接見して、お前、本当にやってないんだったら、そう言えよって、俺たちは信じてるからなって言ってくれれば、言えたと思うんです。家族も小さくなっちゃって、声を上げられない中で、法廷を迎えてる訳ですよ。彼は孤立無援で、誰も信じてくれないって中にいて、法廷に立って、そこで、私は実はやってませんっていうふうに言う勇気が出て来るかどうかということですね」
(奈良女子大学 浜田寿美男教授)
その後、一年あまりの公判が続きましたが、その間、報道はぱったり止んでしまいます。
ようやくニュースになったのは、93年3月、検察側の求刑の時です。
「今日の論告求刑公判で、検察側では、改めて犯行は計算ずくだったとした上で、人を疑うことを知らない幼女を殺害したことは、冷酷で鬼の行為にも等しいとして、無期懲役を求刑しました」
(1993年3月11日 TBSニュース)
そして93年7月、判決の時を迎えます。
「誘拐殺人などの罪に問われていた、元幼稚園バス運転手に対して、無期懲役の判決が言い渡されました」
(1993年7月7日 TBSニュース)
「自らの性欲を満たすために、四歳の幼児を殺害して弄んだ犯行は常軌を逸しており、人間の生命に対する畏敬の念をまったく見い出せないとして、求刑通り、無期懲役を言い渡しました」
(1993年7月7日 TBSニュース)
実は、菅谷さんは一審の最終段階で、自分はやっていないと否認に転じていました。
それは後に触れるように、一人の主婦の説得によるものでした。
しかし、菅谷さんが否認に転じたことは、ニュースでは一行も触れられていません。
一方、DNA鑑定については次のように意味付けられています。
「今日の判決は、専門的な技術と経験を持った者が適切に鑑定を行えば、その結果は信用できるという判断を示しました。今回の裁判で、DNA鑑定の結果が証拠として認められたことで、今後、他の裁判にも大きな影響を与えそうです」
(1993年7月7日 TBSニュース)
DNA鑑定に裁判所がお墨付きを与え、メディアがそれを追認する。
菅谷さんにとって、絶望的な状況のまま、舞台は控訴審へと移りました。
控訴審から、菅谷さんは弁護団を一新しました。
担当となった佐藤弁護士は、最初の面会で、菅谷さんの無実を確信したと言います。
「本当にわたしは、おそらく30分も経たないうちにですね、彼は犯人ではないというふうに、もう思いました。いわば確信しちゃったんです。この事件というのは、小さな幼女をね、性的な対象にするという、小児性愛者という、異常性欲のひとつですけど、そういう人物が犯人であることは間違いない訳ですね。そうすると、菅谷さんが犯人か犯人でないかということは、彼がそういう小児性愛者かどうかっていうことで決まる訳なんで、その観点から彼と、インタビューというか接見してた時にですね、まったく彼はそういう人じゃないということが、簡単に分かったということなんだ」
(佐藤博史弁護士)
控訴審では徹底して無罪を争うことになりました。
弁護団が用意した控訴趣意書には、DNA鑑定の不正確さ、自白の不自然さなどが盛り込まれました。
弁護団はこの分厚い文書を報道機関にも配り、菅谷さんの無実を訴えました。
「かなり分厚い控訴趣意書、それをなおかつメディアにも配られましたね。その時の反応は?」
(インタビュアー)
「それはですね、ほとんどなかったですね。菅谷さんの自白というのは、DNA鑑定をのぞいてみるとですね、非常になんか怪しいっていうか、おかしいことがいっぱいあるんですよ。ところがですね、だから、たぶん、きちんとした捜査官であれば、彼の言ってることはおかしいと気付くチャンスはいっぱいあったと、わたしは思います。検察官もそうですよ。ところがDNA鑑定があるためにですね、それで目が眩んじゃったと、わたくしはその、DNA鑑定は水戸黄門の印籠かと言って、マスコミの人がそれを記事にしたことがあるんですけど、つまりこれにて一件落着ですね」
(佐藤博史弁護士)
菅谷さんの逮捕から、その後の裁判に到るまで、TBSでは延べ十数人の記者が関わりました。
今回、その記者たちにアンケートを行いました。
その結果、少なくとも二つのことが見えて来ました。
ひとつは冤罪を疑う記者が、誰もいなかったということ。
そして、事件を継続して取材する記者も、誰もいなかったということです。
控訴審の段階になると、雑誌などに警察のDNA鑑定の不正確さや、菅谷さんの冤罪を指摘する文章が、ぽつぽつと発表されるようになりました。
彼ら、執筆者から見て、テレビ、新聞などの報道は、どう映っていたのでしょうか。
当時のことを、文書で尋ねてみました。
「DNA鑑定が、単なる型判定に過ぎないことを正確に理解することなく、DNAが一致したとか、DNAの指紋が一致したという報道も見られた。そもそもDNA鑑定といっても、分析方法のことなるいくつかの方法があった。当時はこうした基本的な区別すら、十分に理解していない報道も見られた。」
「DNA鑑定が一致したから犯人に間違いない、という思い込みから、目の前の真犯人、真実が見えなくなった悲劇だと思います。疑問を持ったら、ためらうことなく再検査や再捜査を行うという態度が必要でした」
「ある女性記者ですけど、この間、発表してた時にですね、ちょっと涙ぐんで手紙を渡されまして、何だと思ったらですね、実は控訴審の時に、私からも聞いてたんだと、その節々にですね、聞いてるんだけど、自分自身が書いたことというのは、有罪報告のことしか実は書いてなくてですね、話は聞いてたんだけども、まさかこんなことになるとは思わなかったと、言うことでですね、大変反省してますっていうね、手紙を頂いたんですよ」
(佐藤博史弁護士)
96年5月、控訴審判決(東京高裁)。
菅谷さんの無実の訴えは退けられます。
菅谷さんは最高裁に上告し、更に無罪を争います。
弁護団はこの時期、菅谷さんの毛髪を使って、独自にDNA鑑定を行いました。
その結果、菅谷さんのDNA型が18-29型であることを割り出します。
犯人のDNA型は18-30型とされていました。
DNAの世界では、1違うということは、まったくの別人を意味するため、真犯人は他にいると、弁護団は色めき立ちます。
「まずは科警研のね、この鑑定が間違ってるということまで思いませんでしたから、なんだなんだっていうことだったですね。それが12年前ですよ。これが分かった時には、少なくとも私たち、弁護士として期待したのは、合理的疑いってやつですけど、少なくとも犯人は18-30と推定されてますわね。それで彼の型が18-29なんだから、もうそれだけで合理的疑いは生じてるはずだと、それでこれは最高裁にはっきり言ったことだけど、それはまああくまでも疑いでですね、もう一度鑑定してみてですね、はっきりと、その犯人の方が18-30、彼が18-29であれば、もうこれはシロであることは間違いないんだから、ぜひその○○ちゃんの半袖下着というものを使ってですね、DNA再鑑定やってくださいと、だけどその段階でも、マスコミの反応は極めて鈍かったですね」
(佐藤博史弁護士)
そして2000年7月、最高裁判決。
「最高裁は、無期懲役とした二審判決を支持し、菅谷被告の上告を退けました。この事件では、DNA鑑定の信頼性が焦点となっていましたが、最高裁は理論的正確性があるなどとして、初めてDNA鑑定の証拠能力を認める判決を示しました」
(1993年7月7日 TBSニュース)
判決は、弁護団の訴えにまったく耳を貸さない内容でした。
ニュースもまた、事務的に判決内容を伝えただけでした。
こうして、菅谷さんの無期懲役は確定してしまったのです。
今から振り返って、こうした一連の報道を、どう思うのか、関わった記者たちに尋ねてみました。
「捜査当局から得られる情報は、あくまでその立場から発せられる情報に過ぎず、事実とは限りません。これまでの事件報道では、その意識が欠けていたと思います。率直に言って、菅谷さんの弁護団の動きに、もっと早い段階で注意を払うべきだった」
一方で、こんな意見もありました。
「事件取材に関しては、今後も警察や検察の情報に偏らざるを得ない。現在の事件取材のやり方をリークと言って否定するのは簡単だが、それは実際を知らない人の耳に心地よいだけの意見である。反省は当然必要だが、今回のケースだけで、逆にブレる必要はない。要するに我々は犯してしまった過ちは反省しても、《それを目の前の行動に反映させること》が苦手なのだろう。そうである限り、菅谷さん報道と同じミスはこれからも繰り返される」
菅谷さんの無実を訴える闘いは、その後も続きました。
2002年、宇都宮地裁に起こした再審請求は、去年2月、棄却されます。
菅谷さんは東京高裁へ抗告します。
ようやくDNAの再鑑定が実施され、かつての鑑定の誤りが明らかになったのは、今年5月のことでした。
その時の、佐藤弁護士の会見です。
「その鑑定検査方法は、当時、刑事手法に適応する科学技術としては、標準化が達成されていなかったと言えると、いうふうに言われました。検察官推薦の鑑定人もですね、この当時の鑑定方法に疑念があるということを表明されたのです。足利事件のDNA鑑定は、完全に誤ってたということが、今日の二つの鑑定書で明らかになったと、その、科学者としての憤りというか、何故こういう誤りが生じたのかということをですね、感じる文章でした。だからまあ、その個所にさしかかって思わず涙が出てしまいましたけども、あの・・・」
(佐藤博史弁護士)
こうして、菅谷さん釈放への道は開かれたのです。
菅谷さんの無実をまだ誰も信じていなかった頃、逮捕からちょうど一年経った時期のことです。
一人の主婦が新聞記事を読んで、この事件はおかしいと感じ、拘置所の菅谷さんに手紙を送ります。
足利市で、幼稚園バス運転手のアルバイトをしていた西巻糸子さんです。
「事件が起きまして、そこのバスの運転手さんが、逮捕されたということを知りまして、ちょっと、やはり同じ仕事をしている者同士、やはり、そういう楽しいね、子供たちに囲まれた楽しい環境の中にいる方が、そういう事件を起こすかなっていう、ちょっとこうひっかかったっていうか、疑問に思ったのが一番最初でして、何か疑問がすごく大きくなってしまったので、思い切って手紙を出してみたというのが、最初のきっかけですね」
(西巻糸子さん)
何度か手紙をやり取りした後、西巻さんは拘置所を訪ね、菅谷さんに面会します。
「最初は、普通にまあ世間話みたいな感じで、ちょっとお話をしたんですが、その後でやはり、本当に犯行を犯してしまったんなら、本当に被害者のために、心から反省して刑に服してくださいと。でも、もしやってないのにやっていたっていうふうに今まで言ってしまったのなら、やはりそれは本当のことを言った方がいいんじゃないんですかっていうふうに、面会でお話ししましたら、いや、やってませんっていうふうに、私の目を見て、顔を見て、しっかりそう言うふうにおっしゃった、その態度を見て、やはり、ああこれは冤罪だったんだなって、私としても、それが自分の気持ちとしてストンと落ちたので・・・」
(西巻糸子さん)
西巻さんは「菅谷さんを支える会」という団体を作り、自分たちで事件の再検証を重ねました。
「菅谷さんの自白通りのコースを辿ってみたんですが、そうしたらもう全然時間的にも地形的にも、とてもそんな自白通りのことは出来ないというのが分かりまして、やはりこれはもう冤罪だと、菅谷さんだって、実名で報道され、もう本当に家族がバラバラにされてしまったって言うか、その傷が今も残っているような状況っていうのは本当に厳然としてありますのでね、やはりそれが、冤罪であった時っていうのは取り返しがつかない問題ですので、そこのところを配慮して頂けたらと思います」
(西巻糸子さん)
捜査のプロ、裁判のプロ、そして報道のプロ。
そのプロたちが自らを過信した時、大きな過ちが起きました。
そして、その過ちを最初に正そうとしたのは、一人の主婦でした。
足利事件が暴き出したのは、真実が視えぬほど曇ってしまったプロの目。
その深刻さだったのです。
以上、放送されたものを忠実に書き起こした。
TBSテレビのマイルド検証でした (怒)