洛北にて

2017年9月3日



京都のホテルをチェックアウトして、そのままロビーでコーヒーを頼み、ひと心地つく。

少し早い昼食は天丼が食べたかった。
それに新蕎麦も…。

「関東風」のキャッチに誘われて立派な構えの店に入ると、ほのかにごま油とかつお出汁が匂う。
まぎれもない「関東風」である。

丼も蕎麦も大きく見えるが、どちらもミニサイズである。
サービスのつもりか、店内は冷房がギンギンに効いていて、蕎麦は温かくしてもらった。

冷房、あんまり効かせるなよ、の希望も暗黙では伝わらなかった。

もっとも今日は真夏日に届かない気温予報が出ている。

どこへ行こう、全部あなたに任せます、のやり取りがあって、ならば洛北と提案したら、「三千院!」と提案されたので即決した。

鯖街道(国道367号)を北上して数十分、予想通りというか、観光客は修学旅行生や外国の方が目立つ。

三千院へ向かう大原女の小径の途中には、永六輔さん作詞の「女ひとり」の歌碑があり、この一曲で空前の三千院ブームが到来、当時は年間百万人もの人々が訪れたという。

拝観。

往生要集を著した恵心僧都源信が、父母の菩提を弔うため、姉の安養尼とともに建立した極楽往生院が古色を帯びて木の間に見え隠れしている。

いずれにせよ、これも諸説あって、真如房尼が夫の藤原実衡の菩提を弔うために建立したとも言われている。

それらの信仰の源流は、もちろん伝教大師最澄が建てた草庵(円融房)であり、比叡山麓の大原の里は、極楽往生を願う衆生の、乱世が始まろうとする生き辛い時代を生き抜くために、精神が希求した里山だった。

まだ円融房を名乗っていた明治時代以前の境内をイメージできないのは、こちらの感性が鈍っているからで、古くは和泉式部、伊勢大輔、西行、定家などが参拝に訪れた縁も、今は苔寂びた庭に隠れ、どこかで現代のわれわれと繋がっているはずと思いたい。

往生極楽院の船底天井の圧迫感は阿弥陀三尊像を大きく見せる効果があり、有難さが堂内に満ちて、功徳が凝縮されている結縁の感覚を体現できる。

ヤブ蚊を気にしながら道祖神風のわらべ地蔵を見ると、千年も昔との隔たりを意識してしまうのは、現代風のゆるい表情のせいで、しかしこれもまた千年経てば、違和感なく後世の人たちに受け入れられるのだろう。

大正末期に建てられた宸殿は、すでに境内の一部となり、平成生まれのキンピカ金色不動堂も、幾星霜を経れば重文となるはずである。

千年前には、大原で多くの和歌が詠まれた。
私が好きなのは、やはり定家の歌。
出典は定家の私家集、拾遺愚草である。

秋の日に都をいそぐ賤(しづ)の女(め)がかへるほどなきおほはらの里

まことに大原の叙景である。

最近では大原女を「おおはらおんな」と読む人が増えたと聞くが、絣の筒袖に姉さん被りの手拭い姿は、すでに観光用になってしまった感がある。

円融房には大原三寂(常磐三寂)と呼ばれる三兄弟がいた。
寂念(藤原為業)、寂超(為経)、寂然(藤原頼業)の僧侶で、西行とも親交があった寂念の歌が知られている。

秋はきぬ年もなかばに過ぎぬとや荻吹く風のおどろかすらん

おいおい、どこかで聞いたぞ、と誰もが思うのは当然で、古今和歌集に採られている藤原敏行の本歌取りである。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

寂念が西行に贈った歌も山家集に遺っている。

山かぜに峯のささ栗はらはらと庭に落ちしく大原の里

駐車場が車で溢れてどうにもならない。

予定では、宝泉院の盤桓園(額縁庭園)を観賞してから寂光院を訪ね、建礼門院徳子さんと右京太夫さんにお会いするつもりだったが、今回は潔くあきらめた。

平家物語について書きたいことは山ほどあるので、いずれ触れることもあるだろう。
楽しい宿題ができた。

門前近くの茶屋でコーヒーを飲みながら今夜の宿を探し、そのままチェックインした。




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