文字のチカラ

2012年3月10日




赤信号で停まるとすぐに大きな横揺れが来て、思わずブレーキペダルを力いっぱい踏んでサイドブレーキを引き、ハンドルを握りしめて揺れに耐えた。
ビルの看板も激しく揺れているのを見て、地震なんだと気がついた。
周囲のいくつものビルからは人が転がるように走り出て、その場の鋪道上で不安そうにうずくまる光景が現実離れして見えた。
その時には、それほど離れていない九段会館のモルタル天井板が落ちて意識不明者が出たと聞いたが、亡くなった人がいたのは、かなり時間が経ってから知った。
情報はすべてカーラジオだけで、大津波警報が出たことも伝えていて、場所によってはすでに到達していた地点もあったというが、詳しい被害状況は分からない。

被害といえば、第一報からわずか数分後、原発には異常がないとも伝えていた。
震源から遠く離れた東京でも死者が出る揺れだったから、東北地方の被害は甚大なのだろうと想像できた。
原発に関しては、わずかな時間で「異常ナシ」との報道だったので、さすが原発施設は安全を考慮して造られているのだなと、チラッと思っただけだ。
だからその報道が女川か福島か東海村だったのか、今となっては記憶がない。
しかし津波以前の本震のために福島第一への送電は送電鉄塔が倒壊しており、原発へは外部からの電源のすべてが遮断されていた。
もちろんこれは後になって知ったことだが、福島第一の現場は大混乱の極みにあったはずで、「異常ナシ」の情報は、何の根拠もなく、東電本社から流されたものだったということになる。

それから数時間、ラジオは原発報道抜きで、刻々と入る三陸沿岸の情報ばかりを流し続けた。
上空を飛ぶヘリから、どこそこが町ごと壊滅状態であるとか、各地で火の手が上がっているとの内容に終始した。
おそらく東電の広報も情報がなく、メディアに伝えるべき状況を把握できていなかったのだろう。
それよりも、渋滞が始まりかけていた東京の交通情報ばかりに気を取られ、どのルートで都心から脱出すべきか、ナビの渋滞表示を見ながら、家までの帰路を頭で組み立てていた。
そんな同時刻にも、被災地ではたくさんの人が津波にさらわれて命を落とし、かろうじて生き残った人たちも、逢魔ヶ時の薄暮の心細さと、そして二次的な生命の危機への恐怖や寒さと闘いながら、長い夜を迎えようとしていた。

何時間もかけてやっと帰宅し、初めてテレビをつけた。
それは日常とはあまりにも掛け離れた映像ばかりで、画面が映し出す現実は過酷なものの連続だった。
死者数や行方不明者数はなかなか出ず、ただ「○○町は壊滅状態です」と繰り返すヘリからのレポートや、一面火の海になって燃え続ける港町の光景が、事態の深刻さを伝えていた。
明日で「あの日」から一年が経つ。
進まない復興と、それを更に困難にする原発事故。
そして被災者は、正常に機能しない政治の無能や地方行政の非力と、今も闘い続けている。

先日訪れた東北の海は、旧前のように豊饒で美しかった。
それでもまだ行方不明者は三千人を超え、そのうちの多くの人たちが、この海のどこかで静かに瞑っているのだろう。
死者を含めると、二万人近くの犠牲を出した海。
縁あってこの一年間に何度か東北に入り、ボランティアの真似事を続けて来たし、被災者の真の気持ちを理解することは出来ないながら、それなりに想像し、寄り添う(あまり好きな言葉ではないが、他に適当な表現が浮かばない)ことは可能と思っているものの、こうして多くの人生を狂わせた海を見ていると、そんな心情は、実は僭越な思い上がりではないのかと、自分の行為に懐疑的になる。

一時期、駆けつけたボランティア数は東北全体で十万人を超えたが、現在は五千人規模にまで減少しているとも聞く。
それでも個人にせよ一時的にせよ非力にせよ、その人たちの無償の行動は尊い。
しかし現地へ向かったボランティアに限らず、募金をしたり、遠く離れた土地から心配する心を持つだけでも、それとても同様に、人の善意や被災地を思い遣る心情は、かけがえもなく尊い。

この海が…、と思う。
この海あってこそ、人々の生活が成り立っていたのは現実。
そして地震も津波も放射能も現実。
海からの寒風になぶられ、ただ呆然と立ち尽くすひと時だった。


去年の12月、Eテレの「福祉ネットワーク」で、「震災を詠む」という番組が放映された。
そこでは被災者から募った短歌が披露されていた。
結社を主催する、いわゆる「先生」と呼ばれる人が駆使する「技巧」は無いが、無いだけに、作者の思いがストレートに伝わって来る歌ばかりが集まった。
言葉は口から離れた瞬間に消える運命にあるが、こうして残る文字には、人の心を揺さぶる慟哭と、過去と未来を繋ごうとする頑強な力がある。

ご冥福を祈り、行方不明の方々の発見と、一刻も早い復興を願わずにはいられない。

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