如月忌
2019年2月7日
世間的にはそれほどメジャーネームではないかも知れませんが、今日は九條武子さんの祥月ご命日。
お西の方なら当然ご存知でしょう。
ここで私如きが詳細な略歴を書き連ねるのも僭越なので控えますが、京都女子学園、京都女子大学を設立され、関東大震災では自らも被災しながら救援活動や以後の震災復興事業を続け、そのご無理のせいで命をすり減らして42歳の生涯を終えた方です。
歌人としても知られた方で、一般的にはこちらがメジャーではないでしょうか。
武子さんの歌を和歌に分類する向きもあるようですが、私は短歌のように思います。
和歌と短歌の違いを訊かれることがあって、なぜ素人の私なんぞに尋ねるのか不思議です。
古文の先生か、それよりその違いを検索すれば、おそらく的確な内容が出て来るでしょう。
子規の影響も多々あるでしょうし、明治以前以後の分け方もそこそこ納得です。
現代人の一般教養程度で理解できるのが短歌、ムズカシくてさっぱりわからないのが和歌、などのざっくりした分類もアリでしょう。(笑)
でも、長歌あっての短歌なので、考えれば考えるほど迷路を彷徨うことになります。
分類など無意味なんだよとの声もあって、それはそれで納得ですが、万葉集が大好きで古今新古今が大っ嫌いな子規はどうにも我慢ならぬことだったのでしょうね。
なので私の大好きな定家も、子規はボロクソに貶すのです。(ーー゛)
以下、武子さんの歌を載せます。
先日亡くなられた橋本治さんの超訳も不必要なほどわかりやすく、私のおバカな頓珍漢意訳も当然無意味で、悲しき内省とでも表現すべきか、とにかく武子さんの心情が私の琴線を震わせ、体全体に沁みるのです。
おほいなるもののちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや
百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
その一歩かく隔りの末をだに誰かは知りてあゆみそめむぞ
この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く
この胸に人の涙をうけよとやわれみづからがくるしみの壺
おもひでの翼よしばしやすらひて語れひとときその春のこと
影ならば消(け)ぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに
引く力拒むちからもつかれはてて芥のごとく棄てられにしか
たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因かこれ
執着も煩悩もなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ
空しけれ百人(ももたり)千人(ちたり)讃へてもわがよしとおもふ日のあらざれば
夢寐(むび)の間も忘れずと云いへどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ
むしろわれ思はれ人のなくもがなあまりに病めばかなしきものを
ふるさとはうれし散りゆく一葉さへわが思ふことを知るかのやうに
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉のわかれ告げゆく
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮なきつかれ
岐れ路を遠く去り来つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人(しれびと)
夕されば今日もかなしき悔の色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
水のごとつめたう流れしたがひつ理のままにただに生きゆく
さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも
ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷の山
まぼろしやかの清滝に手をひたし夏をたのしむふるさとの人
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
美しき裸形の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣
死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすぢの路
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女(をみな)は
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて往きゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
あなかしこ神にしあらぬ人の身の誰をしも誰が裁くといふや
ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること
有碍の相かなしくもあるか何を求め何を失ひ歎くかわれの (絶筆)
武子さん真筆。
達筆すぎて読めません。(涙)
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