宗教改革における「宣教の神学」

AGST講義レポート 講義Dr.ウィルバート・シェンク師「宣教の神学」
      アジア神学大学院牧会学博士(D.Min.)課程 濱 和弘
【序論】
本小論は、2007年度TMRS研修会におけるDr.ウィルバート・シェンク師の講義を受けて、その内容について批判・検証するものである。シャンク師の講義は、時代的には広範囲に渡るものであるので、筆者はその講義の中でも、特に宗教改革期の宣教の神学に述べられたことについて検討し、宗教改革期におけるプロテスタントの宣教の神学を、主にルター派を中心として問うこととする。
 そこで、シェンク師が提示した宗教改革期における宣教の神学であるが、シェンク師が立てる宗教改革の宣教の神学に対する命題は「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」と言うことである。この命題を、シェンク師は次の形で検証し提示する、すなわち

①宗教改革期におけるプロテスタント教会がどのような宣教運動をとったか
②宗教改革期におけるプロテスタント教会の信仰告白にどのような形で宣教が捕えられの述べられているか
 
ということである。この二つの検証方法は、①については実証的方法による検証であり、確かに、当時のプロテスタント教会は、当時のカトリック教会のような海外宣教の働きは認められない。そしてそのような状況から、宣教に対する神学的視座がなかったという結論が導き出すのである。また②については、信仰告白という信仰の表明を通して、プロテスタント教会の神学そのものの本質に宣教というものがどう捉えられているかを見ようとする思弁的方法である。つまり、仮に宣教に対する行動が無くても、その意思表明があれば、そこには宣教の神学が合ったと認めることは可能である。つまり、①なく②もないときに、始めて16世紀初頭のプロテスタント教会には宣教の神学がなかったと考えられると言うわけである。そしてこの①も②も、どちらも歴史をテキストの場としている。このように、シェンク師は、歴史的観察の視点から二つの視点の上に立って「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」という命題を立てている。そして、その観察の対象が行動と信条なのである。その結果シェンク師は、この「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」理由としてプロテスタント教会がState churchとしての在り方にたっていたからであると結論づけるのである。

このようなシェンク師の考察には、その比較対象として同時期のアナバプテストが見据えられている。つまり、宗教改革期と同時代におこったアナバプテストにおいては具体的に宣教活動が行われたことが実証的に認められ、かつ1527年の確教者の会議において、どのようにヨーロッパの福音化を行うかが検討されたことから、この16世紀のアナバプテストを軸としてプロテスタント教会を相対化させて見ているのである。
そこで筆者は、このシェンク師の主張は果たして妥当であるかどうかについて検証してみたいと思う。そこで、筆者はまず「宗教改革にも宣教の神学はあった」という命題を仮説として立てたいと思う。この命題が論証できるならば、シェンク師の命題は真とは言えず、逆に論証できないとするならば、シェンク師の命題は真であるということが出来る。そこで、筆者はこの「宗教改革にも宣教の神学はあった」と言う命題に対し、以下方法論にたってその妥当性を検証してみたいと思う。

1.宗教改革運動とは何であったのかという宗教改革の本質をまず第一に考 察する。
2.宗教改革の営みや.宗教改革者自身が宣教についてどのよう考えていたのかについてを、宗教改革運動がおかれていた社会的情勢を視野に入れながら考察する。
 3.宗教改革が歴史的にどう展開したか、またその展開の過程において宣教はどのように捕えられていったのかを検証する。

この場合、考察の基本となる軸は、宗教改革を宗教社会学的に捕える視点である。このような視点を用いることで、宗教改革という宗教現象とそこで行われた営みを、神学的立場や用語から離れて、より広い視野で相対化することできることとなる。また、それによってシェンク師が軸としているアナバプテストも相対化される。ここに、宗教社会学的視点を、宗教改革という宗教現象を捉える方法として用いる意義と意味がある。

【本論】
Ⅰ.宗教改革とはなんであったのか。
一言で宗教改革といっても、そこにはルターがおり、ツビングリがおり、少し時代は遅れるがカルヴァンがいる。さらに細部に渡ってみていくならばエコランパディウスやブツアー・ブリンガーといった人物にまで及んで見ていかなければならないし、後の正統主義や敬虔主義といったものも視野に入れていかなければならない。これらはそれぞれの特徴を持ち、相互に相違する点をもつが、しかし、そのような相違を認めたうえで、更にプロテスタント教会と呼ぶことのできる共通する教理的特徴を持つ。
それは宗教改革運動は社会学的に見れば、カトリック教会との関係において起った現象であり、宗教社会学的には、そこにはプロテスタント教会が、一つの統括できる宗教集団となりうる宗教現象としてとしての特徴を見ることができるからである。そこで、先んず、宗教現象としての宗教改革運動を捕えてみることにしよう。そこで、問題になるのは、宗教とは何かという定義であるが、ここではヨアキム・ワッハが述べている宗教の定義を尺度にして、宗教現象としての宗教改革運動の本質は何であったのかを概観することとする。

Ⅰ-1宗教改革の本質
 そこで、このヨアキム・ワッハの宗教の定義についてであるが、それについて、脇本平也氏が次のように説明している。「ワッハは宗教を構成する中心的な要素にまず宗教経験を置いています。その宗教経験が概念的・知的な方向で表現されるところに成立するものが信念や教義などの宗教の思想的な面にほかならない。その体験が、実践的行為の側面で表現され、やがて定型化するといわゆる宗教儀礼となる。そしてまた、宗教体験をきそにして社会学的な表現形態が展開すると教団が成立してくる。ワッハは宗教を構成する諸要素の構成をこのように見ています。」(*1)
 ここに述べられているように、教義は宗教経験の概念的・知的な方向で表現されたものである。それゆえに教義は宗教集団の本質的アイデンティティの自己表出であるといえる。儀礼もまた、その宗教体験の表現である。そして教団はこの宗教経験を誰がどう伝えていくかという問題であり、それゆえに宗教の本質はその教義、もしくは儀礼の中に見ることが出来る。

 この宗教の定義から宗教を見ていくと、宗教の本質は教義、もしくは儀礼によって捕えられることができるといえる。そこで、このような視点から宗教改革を見ていくと、宗教改革には共通する教義的枠組みを持っているといえる。それが、信仰義認である。それゆえに、先のワッハの主張に従えばこの信仰義認は、宗教改革運動の原点であるルターにおける塔の経験が概念的・知的な方向で表現されたものであり、プロテスタント教会の本質は、この信仰義認という教義の中に見ることが出来るのである。
 この宗教改革運動が、16世紀初頭のヨーロッパにおいて社会現象として広がった要素には、政治的・経済的要因も少なくない(*2)。しかし、純粋に宗教現象に特化して宗教社会学的にとらえるならば、それは、贖罪論における救いの問題であり、具体的にはルターという人物の中に起った救いに関する宗教的体験を核として広がった贖罪論の在り方、救いの経験の認識、つまり信仰義認がその運動の核にあり、それが共有されることによって広がっていった運動と言える。つまり、宗教改革の本質は、キリスト教信仰における救いのより実存的・主体的経験であり、それに基づく救いと恵みに対する認識にある。言い換えれば、サクラメントという外的要因に救いの出来事を求めるのではなく、キリストの十字架に信頼し寄りかかると言うことで救いの確信を見出す、心の宗教としてキリスト教の確立であり、それはすなわち中世カトリック教会におけるサクラメンタルな贖罪論がプロテスタントの信仰義認という贖罪論への教理的にシフトとなってあらわれたものなのである。そして、その心の宗教としてのキリスト教が当時のヨーロッパ社会へ拡散ししていったものである。

Ⅰ-2
 宗教改革という救済論における信仰理解、救いと恵みに対する認識のシフトは、それに基づく社会集団に変更をもたらす。たとえば、儀礼については、聖餐と洗礼が礼典として定められ、神の言葉であり聖書にのみに権威の源泉がおかれ(聖書主義)、礼拝が行われる。つまり、ルターに端を発する宗教改革運動は、新しい礼拝、礼典のありかたといった儀礼の在り方を産み出している。またプロテスタント教会は、万人祭司制に立つ社会集団である教会を形成する。これはサクラメンタルな救済論に立って構築されるカトリック教会とは、本質的に性質が異なる。つまり、万人祭司制は、新しい教会の在り方、つまりは教団の性質を示すものである。

このように、プロテスタント教会は、教義、儀礼、教団、体験によって捕えられる宗教としての宗教性を持っていると言えるのである。そういった意味では、宗教社会学的にとらえるならば、プロテスタント教会はカトリック教会の伝統を受け継ぎつつも、その中に起った新しい宗教団体であると捕えることができる(*3)それゆえに、この新しい宗教運動であるプロテスタント教会は、古い教会体制の中でその新しさが伝搬されなければ、宗教的社会現象としての社会集団たるプロテスタントの教会を維持できない。なぜなら、宗教は体験が概念化され、表現され、それに基づいて社会集団が形成されるからである。したがって、宗教改革がルターの個人的経験に基づく限り、宗教改革の教理、儀礼、教団は、ルターという個人の宗教経験が概念化され、儀礼としえ表現され、それが謝意的集団として教団化されていったという成立経緯をもっている。つまりは、それはルターという個人から集団へという外に向う方向性での伝達・伝搬というプロセスを必然としたということである。

Ⅰ-3 宗教学社会学的位置から見た宗教改革における改革派の位置
 すでに1-2で宗教社会学的視点から見た宗教の基づき、宗教改革運動の本質を捕えたが、それは主にルターの系譜にある宗教改革である。しかし、宗教改革はルターの系譜だけではない。ツビングリ、カルヴァンの系譜にある改革派の流れもあるのである。
 この改革派の系譜は、いわゆる宗教改革の3つの特徴、信仰義認をルターの系譜にある旧教改革運動と共有する。しかし、ツビングリにもカルヴァンにも、ルターの塔の経験のような具体的な宗教体験を認めることができない。カルヴァンについては、わずかに自分の回心について言及した文書を見ることが出来るが(*4)、具体性に乏しく、それがカルヴァンの教理形成にどのように影響したかは定かではない。そういった意味から、ツビングリやカルヴァンの系譜にある改革派の宗教改革運動は、ルターのそれとは性質がことなるものであると考えるべきである。だとすれば、当然のことながら、その本質も異なってくる。
ツビングリにしろカルヴァンにしろ、改革派の宗教改革運動のベースにはフマニスムスがある。それは、改革派の救済論が信仰義認を土台にしながらも、救いを聖化というプロセスでとらえるとらえ方に反映されている。そういった意味では改革派は、よりエラスムスに近いし、アナバプテストに近い。
しかし、いずれにせよ、フマニスムスの基本的基調は「源泉に帰れ」であり、ツビングリもカルヴァンもこの「源泉に帰れ」から出発する。もっとも、フマニスムスの「源泉に帰れ」はab fontsであり、複数の諸源泉すなわち聖書を含む古典に帰れということであるが、改革派宗教改革の「源泉に帰れ」はab fontumであって、徹底的に唯一の源泉である聖書に帰るということである。その意味に置いては、改革派の宗教改革はフマニスムスを原点としているが、フマニスムスを越えている。このように徹底的に聖書の基礎を置き、カトリック教会の述べる教義(*5)あるいはその儀礼や教会の在り方を、キリスト教の唯一の源泉である聖書に照らして問い、批判するところから改革派の宗教改革は始まっていると言えよう。つまり、改革派の宗教改革の本質は理性的宗教としてのキリスト教の確立であったといえる。
 このように、宗教改革運動には、ルターの宗教改革が、自らの救いの確信という内面的問題から発し、塔体験を通して、心の宗教としての信仰の改革を展開したのに対し、ツビングリ・カルヴァンといったフマニスムスを土台にした改革派の系譜は、その出発点に置いて現実の教会と聖書の主張との乖離という外的問題から発し、理性としての宗教あるいは倫理としての宗教の構築を展開するという本質のおける違いを含む二つの流れがある。
 ところで、ルターにおける宗教改革は、ルターの内的宗教経験から出発しているが故に、その内的経験を伝達・伝搬し集団化するという必然を要求したが、改革派の場合はどうだろうか。改革派の場合は理性の宗教としてのキリスト教の確立であり、その土台にフマニスムスがある。すなわち、フマニスムスが古典研究という一部の学究者によってなされたように、聖書の研究も一部の学究者に委ねられ、その成果が伝達され、理性的に承認され共有されることによって、集団化される。その学究の頂点にいたのがカルヴァンでありツビングリであったと言える。その理性的承認の核が「信仰義認」という宗教的認識であるがゆえに、これもまた、個人から伝達・伝搬化され集団化されていくという方向性を持つ。

Ⅰ-4 ルター派と改革派の位置関係
 ルターに属する系譜の宗教改革の本質は心の宗教の回復である。それに対して、ツビングリ・カルヴァンの宗教改革は理性と倫理の宗教の構築である。なのに、二つは本質においては異なっているが、一つの宗教改革という枠組みの中でとらえられるのはなぜだろうか。また、その関係はどのようになっているのだろうか。
 カルヴァンについて言うならは、カルヴァンがルターより24歳も若く、宗教改革者として世に出る段階では、ルターよって始まった宗教改革運動はほぼ一定の成果と評価を得ていた。それゆえに、カルヴァンが宗教改革者として立つ場合。すでに一定の成果を収めていたルターの改革の主張に知的同意を持って受け入れた可能性は十分にあり得る。
 実際カルヴァンは、サドレへの返書で次のように述べているところがある。「(筆者註:罪の赦しに対してカトリック教会が教えてきたことよりも)それよりよい手段が提示されていなかったので、わたしは、これまでの道(筆者註:カトリック教会に教え)をとり続けました。ところが、非常に違った教理が提唱されたとき、このあたらしい教理は、わたしたちをキリスト教的信仰から迷い出させるものではなく、それの源泉に連れ戻し、いわばその濁りを再び澄ませ、本来の純粋さを回復するものでありました。」(*6)この返書は、カルヴァンのジュネーブでの改革運動を弁証する立場で書かれたものであり、それゆえに、この新しい教理というのは、宗教改革のことであろう。
カルヴァンは、ここにおいて罪の赦しと言うことに関して、ルターの宗教改革が、新しい教えとして従来のカトリック教会が提示した罪の赦しを与える手段よりよりよい手段で、「それの源泉に連れ戻し、いわば、その濁りを再び澄ませ、本来の純粋さを回復するもの」であると認められ、そしてそれが教会の権威を毀損するものでもなく、教会を汚すものでもないことがわからされたともいっている。
このように、カルヴァンは先行するルターの宗教改革に対するして、それを知的受容したと考えられるのである。実際、それが知的受容であるからこそ、後に聖餐論争に置いてはカルヴァンが理性的にはどうしても受容できないルターの思想を退けるのだが、ここでは本題とは直接関わらないことなので、省略するが、いずれにせよ、ルターはカルヴァンに置いて知的ではあるが受容されていのである。

 では、ツビングリの場合はどうだろうか。ツビングリはカルヴァンと違ってルターと同時代(*7)の人間である。ツビングリの改革運動は1518年に彼がチューリッヒの司牧司祭に選出されたことによる。
このように、ツビングリの改革とルターによる改革運動とは時期を平行するが、両者には直接的につながりはない。むしろ、すでに述べたように、ツビングリのチューリッヒの改革は基本的にはエラスムスの影響のものになされたものである。
 F・ビューサーによると、1519年頃からツビングリの往復書簡にルターの名前が頻繁に見られるようになったという(*8)。しかし、だからといってそれは、ツビングリがルターの影響を受けたと言うことではない。ツビングリの改革は、あくまでもエラスムスによるところが大きいのである。それはツビングリ自身が、みずからの「福音的回心」を常に1516年のエラスムスのキリストの哲学に置いていたということからもうかがい知れる(*9)。

 このツビングリとルター関係はカルヴァンとルターのそれと比べるとやや複雑である。F・ビュサーが指摘するところに従えば、ツビングリ自身は改革運動の源泉や思想的源泉はエラスムスであり、ルターを介さない直接的なアウグスティヌスからの継承であったとしても、それは同じローマ・カトリック教会に対峙する存在としてのルターに対しては敵対的ではでなかった(*10)。
しかし、ルターのツビングリに対する態度は、ツビングリがフマニスムス的傾向と同時に心霊主義的傾向もつことに対して警戒をし、それゆえにルターはツビングリを異端視している。このように、ツビングリとルターの間にはねじれがみられるし、その精神性は互い独立しており、両者の間に相関性は見られない。このツビングリによる宗教改革の系譜は、ツビングリが従軍牧師として参加したカッペルの戦いで戦死したこともあり、やがて同じようにフマニスムスから出発してカルヴァンの系譜に吸収され改革派を形成する。けれども、ツビングリもルターも、同時代の同時期にともにローマ教会から敵視され、ローマ教会に対峙して立つということにおいては共通したのである。

対峙するところには、争点がある。その争点がルターなりツビングリなり、カルヴァンなりが、改革の中心として着目したところであるが、そこには宣教の問題は確かにない。それは彼らがカトリック教会の問題点として意識した内容が宣教的内容ではなかったからである。だから争点にはならないし言及もされない。しかし、言及されないと言うことは、そこに改革に対する争点を見いだせないということであって宣教に対する視座がまったくないと言うこととかならずしも一致しない。むしろ、ルター派にしても、改革派にしても、その本質的性格において、外への広がりという方向性を必然的に持っているのである。
Ⅱ. 16世紀初頭のヨーロッパ社会情勢の中での宗教改革
さて、宗教改革がその発生とそれが持つ主たる本質に違いがあったとしても、外への伝達・伝搬という性質を共有していることは既に述べたとおりである。同時に、宗教改革期に、実際の今日我々が言うところの海外宣教がなされなかったと言うこともまた事実なのである。
それでは、なぜ外への伝達・伝搬という性質をもつ宗教改革運動が宣教活動という営みとして表出しなかったのであろうか。この点について、筆者は宗教改革が置かれていた社会情勢から考察してみたい。 

 Ⅱー1「ひとつのヨーロッパ」とナショナリティの萌芽
 宗教改革が始まった16世紀初頭のヨーロッパ社会を総括的に言えば、キリスト教一体社会と言うことができよう。このキリスト教一体社会とは、宗教としては一つのキリスト教(ただしこの場合のキリスト教とは、ローマ・カトリック教会である。)、政治としては一つの国家としての神聖ローマ帝国、また、原語としては共通言語としてのラテン語の存在をあげられる。
カトリックの立場に立つトーマス・ボーケンコッターは、その著書「世界キリスト教史」で次のように述べている。「1517年の時点で、カトリック教会は、多くの欠陥にもかかわらず、いまだキリスト教世界ではもっとも強力な組織として、公私の面では非常に大きな影響力を持っていた。ローマ教皇の解釈に従うキリスト教の信仰は、社会と個人の在り方の基盤になっていた。聖職者の発言は、一般的に、思想や生活の大部分と哲学と科学、裁判の施行、それに慈善活動の分野まで及んでいた。国家の在り方までが、キリスト教哲学に左右されていると思われた」(*11)

 このように、16世紀初頭のヨーロッパは一体性を「一つのヨーロッパ」ではあったが、しかし、その「一つのヨーロッパ」を政治的側面から支えていた一つの国家としての神聖ローマ帝国は、実質としては領法と帝国自由都市とによって成り立つ緩やかな統一体であり、政治的対立がなかったわけではない。また、領報国家も基本的には封建体制であり、今日の近代国家とは状況は違うが、フランスやイギリスなどでは、近代国家の萌芽も見られるし自由都市などを含めてナショナリティが萌芽し始めた時代であると言える。
 このナショナリティ萌芽は、もはや政治・経済・文化の単位がヨーロッパと言うという統一体で捕えられるのではなく、領邦国家、あるいは自由都市単位で考えられるようになってくると言うことである。
事実、16世紀初頭のヨーロッパ社会における政治・経済の主体は領邦国家、自由都市にあった。そのようなにナショナリティが萌芽する中に、宗教改革運動という新しい教会の在り方をもつ新しい教団が起ってきたのである。

 Ⅱー2 ナショナリズムと宗教改革の間にある矛盾
宗教改革はこのナショナリティと結びついていく。つまり、ルターによる改革はドイツ・ナショナリズムと結びつくし、ツビングリのそれはチューリッヒ・ナショナリズム。また、カルヴァンのそれはジュネーブ・ナシャナリズムとなって展開する。こうして、本来キリスト教一体社会であったヨーロッパのローマ・カトリック教会の世界観は分断される。それゆえに、カトリック教会にとって宗教改革運動は教会分裂運動であり、社会的にはキリスト教一体世界の分断運動でもあるともいえる。
しかしながら、既に述べたように、この宗教改革によるキリスト教一体世界の分断は、その背後にナショナリズムとの結び付きがある。それゆえに、宗教もまた国民、あるいは市民単位で考え、そこにはいまだ今日的人権意識に基づく個人の自由は考えられていない。

しかし、ボーケンコッターが指摘しているように、当時の社会に置いてはカトリック教会の考え方や在り方は社会の隅々まで行き届いている。それは結婚制度や葬儀といった社会儀礼から、個人の生活全般にたるまでにおよび、それはカトリック教会の教会法の下での規定に基づく。つまり、国民、あるいは市民単位で宗教を考え宗教改革に踏み切ったとしても、個人生活はカトリック教会の考え方や在り方が残っているのである。
 そのような状況の中で、国民、あるいは市民単位で宗教的立場を変えるということは、個々人の生活の全般まで変えるということであり、当然、個々人の生活全般や考え方の根底にまでおよばざるを得ない。それが宗教的社会集団のもつ特質である。
しかも、加えてルターの宗教改革の本質は心の宗教の回復であり、実存的救い、恵みの経験を喚起するものである。それゆえに、宗教改革は、本来は集団から始まるものではなく個から始まるものだといえる。それゆえに、ルター派における宗教改革においては、絶対的に個人の信仰という問題が取上げられなければならないのである。つまり、ルターにおける宗教改革は、基本として心の宗教としての個人の神に対する信頼という宗教的経験を喚起するものであり、そこにおける教会とは、その宗教経験を共有する信仰におけるゲマインシャフトであって、国家や社会を利益として結びついたナショナリズム的ゲゼルシャフトとではないのである。

 このあたりの事情はカルヴァンにおいても同じである。確かにカルヴァンは、ルターの本質にある宗経験にといったものはみられない。むしろカルヴァンに置いては先行する宗教改革に対する知的承認として宗教改革者の道が開けてくるわけだが、その知的承認には、それに先行するカルヴァンの個人的苦悩を見ることが出来る。
カルヴァンは、カトリック教会が救いに関して教えている事柄に対して次のように述べている。「わたしがこれらすべてのこと(筆者註:カトリック教会が罪の赦しについてカルヴァンに教えてきたこと)を、とにかく、成しとげたとき、多少なりとも静かな休みの時間を持ちましたが、それでもない、良心の真実の平安からはるかに遠かったのであります。すなわち、わたしがいかにしばしば自身のうちに深く降りていっても。また、たましいを高くあなたに挙げましても、宥めの供えものや償いでは決していやすことのできない極度の恐怖が、わたしを打ったからであります。わたしが、おのれ自身をつまびらかに検討すればするほど、わたしの良心は鋭いとげで突き刺され、自己を忘却のかなたへ拉し去る以外に、残っている緩和策は何もないことになりました。」(*12)

 このように、カルヴァンは個人的苦悩の中で、よりよい救いの手段が宗教改革によって提示されたと認めそれを受容したわけだが、それもまた個人が知的に受容することによって成り立つものであり、個々にも個人という問題が取上げられなければならない。つまり、ルターにおいても、カルヴァンにおいても、宗教改革は、国家宗教・市民宗教としてナショナリティの問題として受容されるべき問題では終わらず、個人の信仰として受け入れられなければならないものなのである。

Ⅱ-3 教育と宣教
 Ⅱ-3-ⅰ.ルターにおける教育と宣教
 さて、宗教改革は領邦国家を単位、あるいは自由都市を単位として行われた。これは、当時の封建体制のなかでのcuris regio eius relegio(*13)として改革が進んでいったと言うことであるが、それは、領民、市民にとってはいわば上からの改革である。したがって、Ⅱ-2でしめしたように、宗教改革運動は、個人の信仰が中心であり、その個人の信仰にもとずくゲマインシャフトとしての社会集団が教会である以上、個人への信仰の伝達・伝搬、そして浸透が宗教改革運動の課題となる。
この課題に対して宗教改革運動は教育という形で応答している。すなわち、信仰の教育を通して、プロテスタントの信仰を浸透させていこうとしたのである。

 さて、筆者はここまで宗教社会学的視点から宗教改革を捉え、宗教改革によってもたらされたプロテ
スタント教会という新しい教団のもつ本質を提示し、16世紀初頭の文脈の中で、それを見てきた。そのうえで、プロテスタントそれ自体が教団として集団化される、個人から外に向い伝達・伝搬を必然とすること、そしてその伝達・伝搬は個人を対象としている点を明らかにしてきた。
 そして、ここにおいて、その伝達・伝搬が教育によってなされたと言うことを明らかにしようとしているが、ここからはその視点を神学的視点に置き換えなければならない。なぜならば、この宗教改革における教育は、信仰を育成するための教育であり、宗教経験の伝達とそれに基づくケマインシャフトたる教会を形成するための教育であって、それ自体が神学的テーゼであるからである。それゆえに、それを問う視点もまた神学的でなくてはならない。

 そこで、宗教改革における教育の問題であるが、金子晴勇はその著書「ルターとその時代」において次のように述べている。「ルターにとり教育の中心課題は『子どもたちを治め導くこと』(die Kinder regieren)に求めている。『治め導く』とは元来『支配する』をという意味である。しかし、そこには子供を勝手に支配することは許されず、自分の意志に従うのではなく、あくまでも神の意志に従って育て、神への奉仕が同時に『礼拝』になるように、つまり、ひとりひとりの子供が神との人格的関係に入るように導くことが課題として立てられている。」(*14)

 ここにおいて述べられていることは子どもに対する教育であるが、ルターが子どもに対する教育を述べるとき、それは単に子どもだけを指しているのではない。前出の金子は、同著でルターの教育に対する根本姿勢を、彼の大教理問答にある記述(WA、Vol.30 Ⅰ,p126 *15)や「ドイツミサと礼拝順序」の記述(WA,19、p78)にたって次のように述べている。「(筆者註:ルターは)真理は個人的に確信する所になった場合のみ現実になることを感じ取っていたのである。実はここに彼の教育思想の大切な基礎があると言えよう。それは教育が教会や学校をとおして実践されるにしても、ひとりひとりを真理の前に立たせ、真理に従って人間を内的に形成するという偉大な思想である。そこには真理を自らの力によって形成すると言うよりは、真理の導きに従い、真理の越えに耳を傾ける態度、つまり真理に対する信仰が求められている。だから教育とは真理を受容すべく謙虚になることであり。結局自ら一人の生徒または子供になることなのである。」(*16)

 ここにおいて金子がルターの教育に対する基本姿勢が「教育とは真理を受容すべく謙虚になることであり」と述べるとき、それは信仰に示された真理を知的に受容することではない。そのような信仰理解は中世スコラにおける信仰理解(fides qua creditor *17)に基づくであり、ルターが拒絶した信仰理解である。
ルターにとって信仰とは神に対する信頼であり、イエス・キリストの出来事がわたしのための救いの出来事であるとして自分自身の存在をその出来事に投げかけることである。すなわち金子が、ルターの教育に対する基本姿勢が、「教育とは真理を受容すべく謙虚になることであり」というとき、その真理とは、「イエス・キリストの出来事が『わたしにとって』救いをもたらす出来事であると信頼すること」なのである。
 このことは、大教理問答の序文に引き続く本論部分で最初に述べられる十戒に対する教えの第一戒の冒頭にあるルターの言葉に表れている。すなわち、「一人の神とは、人間がいっさいのよいものを期待すべきかた、あらゆる困窮にさいして避けどころとすべきかたである。したがって、ひとりの神をもつとは一人の神を心から信頼し、信仰することにほかならない。私がしばしば述べたように、ただ心の信頼と信仰のみが神と偶像の両者をつくるのである。信仰と信頼とが正しくあれば、あなたの神もまた正しいのである。反対に信頼が偽りであり、正しくないところではまことの神もまたおられない。なぜなら、この二者、すなわち信仰と神とは一体をなしているからである。そこで(思うに)今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである。それゆえにこの戒め(筆者註:十戒の第一戒「あなたは他の神々を持ってはならない」)の主意は、この戒めが正しい信仰と、唯一のまことの神に向けられ、その神にのみかけられる心の信頼を要求しているということである。」(*19)とルターは言うのである。

 この神に対する心の信頼を養い育てるために、ルターは「大教理問答」「小教理問答」の二つのカテ
キズムを現すが、このカテキズムに対してルターは「ドイツミサと礼拝順序」の中でこう述べている。「まず第一にドイツ語の礼拝では、質素で簡潔な平易でよい教理問答が必要である。しかし、教理問答というのは、それによってキリスト者になろうと欲する異教徒が、キリストについて信じ、行ない、控え、知らなければならないことを、教え導くことである。」(*20)と述べている。
ここには、教理問答がまだキリスト者ではない者をキリスト者とに導く意図のもとにあるということがはっきりと現れている。もっとも、「ドイツミサと礼拝順序」は1526年の著作で、この時点ではまだ「大教理問答」も「小教理問答」も現されてはいない(*21)。したがって、この「ドイツミサと礼拝順序」で述べられている教理問答がそれらを指しているわけではないと思われるが、少なくとも、1526時にはルターによって、宣教的意味合いの中で教育が宣教として考えられていたことは間違いがない。
 そしてそれは、ルターの改革の当初からの理念である。なぜならば、ルターは1516年からほとんど毎年、教理問答集に収められている主題である十戒・主の祈り・使徒信条に関する説教をくり返し行っているからである(*22)。これらの説教、あるいは説教に基づく著作が、1529年の「大教理問答」「小教理問答の土台にある。

 Ⅱ―3-ⅱ.カルヴァンにおける教育と宣教
 それでは、カルヴァンの場合はどうであっただろうか。カルヴァンもルター同様もカテキズムを書いている。1542年に書かれたジュネーブ信仰問答である。しかし、このジュネーブ信仰問答に先駆けて1536年に「キリスト教綱要」の初版を現している。この「キリスト教綱要」の初版は、ルターの小教
理問答の構成と極めて似た構成によって書かれている。また1537年には、「信仰の手引き」が書かれているが、これらは、人びとに対する教化・教育的意図を持て書かれたものであるといえよう。このように、カルヴァンが人びとを教化・教育しなければならないと考えた背景、特にジュネーブでの教育ということを考えた背景について、渡辺信夫は次のように述べている。「この都市(筆者註:ジュネーブ)は、1536年5月、宗教改革に踏み切った。しかし、宣言を出し、宗教改革的な説教をしているだけでは、改革された教会の実質は何も持っていなかった。そこへカルヴァンがきて留まることになったのである。カルヴァンが死の床で、ジュネーブの牧師たちと決別の挨拶をしたとき言った言葉がある。『私が始めてこの町に来たとき、福音は確かに説教されていましたが、初版のことは極度の混乱の中にありまして、キリスト教とは像を引き倒す以上の何物でもないと考えられているようでありました。』緊急に必要なことの一つは、今ある市民がその信仰を告白し、またやがて市民、あるいはむしろ教会員となるべき子どもたちに信仰の教育を施すことである。」(*23)

 カルヴァンが「私が始めてこの町に来たとき、福音は確かに説教されていましたが、初版のことは極度の混乱の中にありまして、キリスト教とは像を引き倒す以上の何物でもないと考えられているようでありました。」と言うとき、それは、ジュネーブと言う都市は、宗教改革の宣言をし、福音的説教が語られていたが、その町の人ひとりひとり、すなわち個人は、プロテスタントであると呼ぶことはできなかった、すなわち正統なキリスト者とは認めがたかったということに等しい。それは彼がジュネーブの人たちが「キリスト教とは像を引き倒す以上の何物でもないと考えられているようでありました。」と言うとき、それは彼らが正しい神認識、信仰認識にいたっていなかったといっていることと等しいからである。
カルヴァンにとって、正統なキリスト者とは信仰は正しい認識、正しい理解、正しい知によって支えられ、神の栄光を現して生きているものであり、そのゲマインシャフトである教会もまた、その共通の認識として神に対する正しい認識を共有する存在でなければならない。そのことは、たとえばジュネーブ信仰問答にも顕著に表れている。
この信仰問答の冒頭は「問1.人生の特に目指す目的は何ですか。答え. 人をお造りになった神を知ることです。」(*24)となっている。このように、カルヴァンはまず神を知る認識について語る。これはカルヴァンの神学の集大成でもある「キリスト教綱要」第5版(1559年)においても同じであり、カルヴァンの神学を一貫して貫く姿勢である。つまり、人は神について正しく知り、認識することによってのみ、神を知り、信じ、崇めるゲマインシャフトである教会に加わることができし、教会もまた神に対する正しい認識をおそえなければならない。だからこそ、カルヴァンは神について正しく知らず、キリスト教徒は像を引き倒すこと以上の何者でもないと考えられているかのようなジュネーブの人びとの認識を、教育によって正しい神認識に変えていかなければならなかったのである。
 このように、カルヴァンにとっても教育は、教育を通して正しい、神認識を得させることで正しいキリスト者として導くものとして、宣教的意味を持つものであったと言うことができる。

 Ⅱ-4. 改革にともなうスクラップ・アンド・ビルトがもたらす問題点。
 このように、カルヴァンにしろ、ルターにしろ、教育に宣教的な意味を見出していたとしても、どうして、どうしてそれがカトリック教会のような宣教活動となって現れてこなかったのかという疑問の解決にはならない。本質的には宣教的要素を持ち、宣教に関する教育という具体的視座を持ちながら、なぜプロテスタント教会はカトリック教会のように宣教をしなかったのか。
しかし、この時、カトリック教会とプロテスタント教会とは根本的に状況が違っている。カトリック教会はプロテスタント教会が別れ出るという痛みはあるが、教会の制度や教会法などにおいては何ら宗教改革の歴史的展開である。
そのため、宗教改革運動は、新しい宗教としてのプロテスタント教会形成し、これが固定化するためには、ルターの塔の経験を通して得られた新しい救いに理解が、教義化され、礼拝・礼典と言った儀礼が整えられ、それに基づく社会的集団としの教会(教団)が形成されなければならない。つまり、社会的集団としてのプロテスタント教会が固定化されるためには、教義の固定化が先行しなければならない。
キリスト教会においては、固定化された教義は信条あるいは教令として、表現されてきた。つまり教理的statementとして、外部に自らが何であるかを言い表してきたのである。
この自らが何者であるかという、self-identityの表明は、プロテスタント教会の場合、多くは信条、あるいは信仰告白という表現でなされてきた。宗教改革期のルター派でいうならば、アウブスブルグ信仰告白(1530年)であり、同じく同時期の改革派でいうならば、四都市信仰告白(1530年)やジュネーブ信仰告白(1537年)であり、他にも第一、第二スイス信条(1561年、1566年)、あるいはスコットランド信仰告白(1560年、1581年)、フランス信仰告白(1559年)等々を挙げることができる。そして、カトリック教会においては、トリエント信仰宣言(1564年*27)やトリエント公会議によって表明された教令がそれにあたる。

 自らが何者であるかと言うことを表明するということは、自らが何者ではないかと言うことの表明でもある。それゆえに、信仰告白を比較検討する事で、その集団が他の集団と区別されるべき違いと言うことを見る
 この他の集団と区別されるべき違いを明らかにする信条や信仰告白、あるいは教令と言ったもの背後には、それを産み出した背景があると言うことを意味する。それは、信仰上の問題、神学的論争であり、それゆえに、信条、信仰告白、教令といったもの現される自らを他者と区別されるべき違いとは、その論点における違いであるといえる(*28)。だからこそ、その時々に信条あるいは信仰告白、教令と言ったものには、論争している両者の間で共に了解されている事項や、未だ相違が明らかにあっていない事項についてのすべてを含んでいるとはかぎらない。

 Ⅲー2 信仰告白におけるプロテスタントの宣教の神学
 さて、信条や教令、あるいは信仰告白といったものの背後には。それを産み出す論争がその背後にあり、その論点における自らを他者と区別する違いが、そこに置いて表明されていると述べたが、宗教改革期におけるそれは、救済論の問題と教会論の問題である。
 救済論の問題は、既に述べてきたとおり、いかにして人は救われるのかという問題であるが、教会論の問題とは、具体的には基本的にはサクラメントの問題と聖書と伝統の問題、そして教職の問題である。サクラメントの問題は、何がサクラメントであるかという問題と同時に救済論的問題としても宗教改革期の論点に深く関わる。
 宗教改革期には、これらのことを争点としてカトリック教会とプロテスタント教会は対峙するわけだが、この争点の中に宣教論は含まれていない。したがって、宗教改革期の各信仰告白の中に、宣教に関する記述が見られないとしても、それは、信仰告白というものの性質から見ても当然のことと言える。
このようなわけで、信仰告白に宣教に関する記述がないからと言って、それをもって即、宗教改革期のプロテスタントの教会、あるいは神学者に宣教の神学がなかったと断言することもできないのである。

 Ⅲー3 正統主義と敬虔主義
 プロテスタント教会の中に、宣教に対する否定的見解があったとすれば、それは17世紀の正統主義のとらえ方の中に見られるもので、宣教は12弟子たちによって既になされており、全世界に出て行った12人の弟子たちによってなされた宣教の結果、クリスチャンになった人と福音に反対する人に分れた。そこで福音を受け入れる可動化の判断をしたのだから、彼らはもうチャンスを失った」(*29)というものである。
 これは、一見すると決定論であり、予定論に近い見方である。しかし、宗教改革における「信仰義認」を論理的に突き詰めていくと予定論的発想は否めない。それは、当初ルターも予定論を肯定している発言をしていることからも伺うことができる。もちろん、最終的にルターは、先の発言からは後退し、予定論を主張はしない。しかし、「信仰義認」という教理は「予定論」と結びつきやすい性質にあることは否めない。その性質は、ルターがたとえ予定論から退いたとしても、ルターとエラスムスによる自由意志論争によって、より強くプロテスタントの救済論の中に潜行した。したがって、ルターの「信仰義認」論を、知的に受容したカルヴァンによって、予定論が明言され強化されていったことは、ある種の必然であると言える。
 というのも、正統主義はプロテスタントの信仰告白を組織神学として体系化し知的に受容する事を求める。その意味でプロテスタント正統主義は、プロテスタントにおけるスコラ化であると言える。そのような、プロテスタント正統主義に対峙して、心の宗教としての宗教改革に帰ることを目指したのが、敬虔主義である。ここでは、プロテスタント教会の宣教の神学を問うものであるから、その一点から正統主義と敬虔主義を見ていくが、プロテスタント正統主義が、先に見られたように宣教に対して否定的であったのに対し、プロテスタント最初の海外宣教は正統主義の中から起っている。その根底には、信仰は、悔い改めて救いを確信して、その喜びに立って神との新しい生活が実践されていくべきであるという敬虔主義の根本的な主張がある。
 
 いずれにしても、心の宗教の回復という宗教改革の原点にたち帰ろうとした敬虔主義によって、1705年にプロテスタント最初の宣教師、バルトロメーウス・ツィーゲンバルクとハイリンヒ・プリチャオとが、インドのトランクバールに向うのである。
 このツィーゲンバルクとプリチャオの宣教はデンマーク王フリードリッヒ4世の求めに応じて、敬虔主義に立つハレ大学から送り出されたものであるが、フリードリッヒ4世が宣教師の派遣を依頼したのは、次のような理由による。
 ヨーロッパにおいては、1555年のアウブスブルグ宗教和議においてドイツにおけるカトリック教会とルーテル派の宗派属地権(curis regio eius relegio)が確立し、さらに30年戦争を経て1648年にウェストファリア条約によって、ドイツ以外の諸国でも宗派属地権が確立する。
 そのような状況の中で、プロテスタント最初の宣教師が温度のトランクバールに送られるのだが、トランクバールはデンマークの植民地であり、デンマークの主権下におかれている地域である。宗派属地権というのは、その領主の宗教がその領地の宗教となるとう考え方であり、デンマークのフリードリッヒ4世はルーテル派の信仰に立っていた。従ってデンマークの領地はルーテル派の信仰に立つこととなる。このところに立って、フリードリッヒ4世は宣教師の派遣をハレ大学に要請するのである。
 つまり、教会と国家が密接に関わるState churchの理念に立つがゆえの宣教師派遣であり、自らの領地に住む領民に対する信仰の教育と教化のための宣教師の派遣であったと言える。これは、宗教改革の原点に置いて、信仰教育によって、プロテスタントの信仰を伝えていったルターの在り方と相通じる
ところで、改革派の宗教改革の原点は、既に述べたところのものであるが、それは理性的信仰の確立ということであるが、同時に、改革派教会は予定論という決定論に立つ。その意味では、改革派教会の信仰は、正統主義的要素を強くもっていると言えよう。
それに対して敬虔主義の根底にあるものは心の宗教の回復である。その意味に置いては、この心の宗教の回復としての敬虔主義とカルヴァンの系譜にある改革派教会は異質のものであるといえる。しかし、同時に心の宗教としての敬虔主義の、悔い改めてイエス・キリストの十字架に信頼を置き、神との新しい生活が始まることを喜ぶと言うところの、実践的、かつ実際的信仰を求めている。それによってディアコニア(奉仕)や宣教として実践されていくのであるが、このような、敬虔主義の考え方は、信仰義認とフマニスムスを総合したところの救済観にたつ改革派の救済観にも通じるものがある。すなわち、信仰義認によって義とされたキリスト者は、具体的な生活の実践の中で聖化されることのよって義となるという聖化という思想にたつ救済論(*30)と相通じるものを持っている。
つまり、極めて正統主義的遺伝子をもつ改革派だが、同時に敬虔主義的遺伝子もまた認めることができるのである。
          
【結論】
本小論は、Dr.ウィルバート・シェンク師が2007年度TMRS研修会における講義においてたてた「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」と言う命題を検証するために、「宗教改革にも宣教の神学はあった」という対立命題を仮説として立て、その論証を試みたものである。
その結果、宗教改革期のルターの宗教体験が「信仰義認」という宗教改革の中心教理となり、それがルーテル教会という宗教集団を構成している宗教社会学的現象から、ルター派教会が本質的にもつ宣教的性格を明らかにしてきた。同様に、フマニスムス的背景を持つカルヴァンによって理性的に受容された信仰義認の教義もまた、それがもつ学究的性質であったとしても、その本質として学究的性質のゆえに宣教的体質をもつことを明らかにした。
この二つの宣教的体質を持つ宗教改革主流派はそれぞれ、教育によってその宣教的性質を実践し、社会的集団としての教会を築き上げてきたのである。つまり、宗教改革期のプロテスタント教会は、宣教は教育であるという宣教の神学を持っていたのである。もちろん、それは指摘されるように16世紀前半には、宣教のベクトルは領邦国家内や自由としないに向けられ、外側の方向性を持ってはいない。
しかし、それは「キリスト教一体社会」であった当時の社会状況の中で築き上げられたカトリック教会の信仰にたつ文化社会・文化体系の中で、宗教改革の中心的教理のもとずく新しい社会・文化の体系が伝搬されていくという、いわば国内における異文化間での信仰の伝達・伝搬が優先されたためだからである。
そもそも、伝道は単に国内向けの伝道と国外向けの宣教に違いがあるわけではない。伝道は信仰という、人間の存在の根幹に関わる宗教的認識のシフトを求めるものである。たとえば、現在の日本に置いては、同一国内間での世代文化に大きなギャップが生じている。したがって、旧来のキリスト教の在り方、宗教的認識を新しい世代に伝達・伝搬するということは、いわば異文化に対して伝達・伝搬することであり、それは国外という異文化に信仰を伝えることとなんら代わりはない。宗教改革期のプロテスタント教会は、ルターの塔の体験によって確立された「信仰義認」に立つ新しい宗教認識を、カトリック文化という異文化に伝達・伝搬するのであって、それゆえに、それは宣教的働きなのである。
ルター派にしても、改革派にしても、プロテスタントとしての信仰が形式的・慣習的に受容されることを容認できない。それが心の宗教の回復であったとしても、理性的宗教の確立であったとしても、心と理性という人間存在の根幹部分で信仰を問うものであるがゆえに、徹底した人格の中に結実することを求める。それゆえに、宗教改革期のプロテスタント教会は、「宣教は教育である」という宣教の神学を持ったのである。
 このように、「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はあった」という対立命題は十分に論証できる内容を歴史的に持っていると言うことができる。それによって、Dr.ウィルバート・シェンク師の「旧教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」という命題は必ずしも真とは言えないのである。もちろん、今回筆者は、ヨアキム・ワッハの宗教社会学における宗教の定義をメスとして、宗教改革を腑分けすることによって反証したが、別のメスを持って、Dr.ウィルバート・シェンク師の命題を擁護する事ができる可能性もないわけではない。歴史的出来事というのは、それを解剖するメスが何であるかによって、その認識に違いが生じるということは、十分にあり得る。そのさい、問題は方法論的にどちらに優位性があるかである。そしてその優位性は、それによってもたらされた結果のどちらに蓋然性があるかによって現れる。
 しかし、今回のシェンク師は、その「旧教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はなかった」という命題を、宗教改革期のプロテスタント教会がState churchであったことと関連して捕えている。ところが1705年という18世紀初頭の出来事ではあるが、心の宗教の回復という宗教改革の原点に立ち返ろうとする未だ宗教改革の残照のなかにある敬虔主義におけるまさに異文化へ宣教は、皮肉にもState churchであるがゆえの宣教である。それはつまり、State churchであるということは、決して宣教を疎外するのではないのである。この事を持っても、蓋然性は「宗教改革期のプロテスタント教会には宣教の神学はある」という対立命題にあるといえよう。

脚注
*1. 脇本平也「宗教学入門」 講談社学術文庫 2000年p108
*2.この点に関しては、プラシュケ「ルター時代のザクセン」、モンター「カルヴァン時代のジュネーブ」両書ともヨルダン社やブリックレ「ドイツ宗教改革」教文館等が参考資料となる
*3.もちろん、プロテスタント教会とカトリック教会は歴史神学的には連続性をもっており、救済論における違いが相互に違いはあったとしても、同じ一つのキリスト教の伝統を受け継ぐものであって、その意味に置いて両者は、歴史神学的には別々の宗教として決して分断されるべきではない。
*4. カルヴァン「カルヴァン・旧約聖書注解 詩篇Ⅰ」出村彰訳 新教出版社 1970年p9参照
*5.当時は、贖宥や煉獄と言った思想は、まだ思想であって正式に教義決定はされていなかった。正式に教義となったのはトリエント公会議(1547年~1563年)であるが、しかし、このときは既に一般化されており、ほぼ教義化されていたと言って良いであろう。
*6.カルヴァン「サドレへの返書」渡辺信夫訳(キリスト教古典叢書第8巻・カルヴァン篇 新教出版社1959年pp99~100)
*7.ルターは1485年~1546年であり、ツビングリは1484年~1531年
*8. F・ビューサー「ツビィングリの人と神学」 森田安一訳 新教出版社1980年 p41
*9.id.p49参照
*10.id.pp53~54参照。
*11.トーマス・ボーケンコッター「世界キリスト教史」石井健吾訳 エンデルレ書店 1992年 p226
*12.カルヴァン「サドレへの返書」p99
*13.「領主の宗教はその支配地の宗教となる」ということであり、これが確立したのはドイツにおいてはルター派とカトリック教会の間によって1555年のアウブスブルグ宗教和議によって、スイスにおいてはカトリック教会と改革派の間で不完全なものではあるが、1531年のカッペル平和条約によってなされている。
*14.金子晴勇「ルターとその時代」玉川大学出版部 1985年 p218 この書は2006年に教文館に「教育改革者ルター」と改題改訂されたが、本レポートに置いては前書を用いている。
*15.WA=D..Martin Luther Werke,KritscheGesamtausgabe,Wimar,
*16.金子晴勇「ルターとその時代」pp138~139)
*17.「それによって信じるもの」すなわち、人びとによって共通理解として受け入れている信仰の事柄が信仰である。
*19.M.ルター「大教理問答」、本訳文は信条専門委員会訳「一致信条集」聖文社1982年 pp535~536によった。
*20.M.ルター「ドイツミサと礼拝順序」(ルター著作集第一集第6巻 青山四郎訳) 聖文社 1963年p424、原文はWA,19 P76
*21.「大教理問答」も「小教理問答」も1529年に出版されている。
*22.十戒に関しては1516年~1517年、1518年、1520年1522年、1525年、1526年、1527年に、主の祈りに関しては、1518年、1519年、1520年、1521年、1523年、1526年に、使徒信条は1523年、1525年、1526年に説教あるいは、それに関した著作が出ている。
*23.ジャン・カルヴァン「ジュネーブ信仰問答」渡辺信夫訳 新地書房1989年 P119 引用した部分はカルヴァン自身の手になる本文部分ではなく、訳者がカルヴァンのカテキズムが書かれた背景関して言及した部分である。
*24.id,P9
*25.M.ルター「小教理問答(1529年)」(宗教改革著作集第3巻 徳善義和訳 教文館 1983年)P9, 原文はWA,30,Ⅰ,P501
*26.ルター「大教理問答」P526
*27.この時期のプロテスタント教会が、その信仰の立場を信仰告白(confassio fide)と言う形で表明したのに対して、カトリック教会は信仰宣言(professio fide)という表現を用いている。こう言ったところにも、立場があい違う論敵との違いを鮮明にしようとする姿勢がうかがい知れる。
*28.例外的なものとしてはルター派の中の和教信条(1576年)が挙げられる。これはルター派内における立場の違い純ルター派とフィリップ・メランヒトンらのフマニスムス的要素をもったフリップ派との間に置いて、互いが相違点を鮮明にして分離するためのものではなく、相互に一致できる、あるいは妥協できる点で相互に分離分裂を回避したものである。
*30.この改革派の聖化論はカトリック教会の義化とは異なる。カトリック教会の義化は、人が良き業を行うことによってだんだんと義に近づいていき最終的に義となって救いに至ると言うものだが、改革派の聖化は、まず義と認められ救いに至っているがゆえに、義を完成するという聖化なのである。

脚注外参考文献
*基督教古典双書刊行委員会編「信条集―前後篇―」新教出版社 2004年
*金子晴勇「ヨーロッパの思想文化」教文館 1999年
*カルヴァン「神学論文集」赤木善光訳 新教出版社 2003年
*アウグスト・フランツィエン「教会史提要」エンデレル社 1992年
*A・ジンマーマン監修「カトリック教会文書資料集」エンデレル社 2002年
*ルター研究所「ルター著作選集」教文館2005年
*ルター研究所「ルターと宗教改革辞典」教文館 1995年
*渡辺信夫「プロテスタント教理史」キリスト新聞社2006年
*渡辺一夫「フランス・ユマニスムスの成立」岩波全書セレクション2005年
*J・ペリカン「キリスト教の伝統 第4巻」鈴木浩訳 教文館 2007年
*ヨアキム・ワッハ「宗教学」下宮守之訳 東海大学出版会 1970年
*ヨアキム・ヴァッハ「宗教の比較研究」渡辺学・保呂篤彦・奥山倫明訳 法蔵社 1999年
*「宗教改革著作集14」教文館1994年
*金子晴勇・江藤再起編「ルターを学ぶ人のために」世界思想社 2008年  他


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