寂しさで自殺することになっても孤独で居たい気持ちと、誰かに救われたい気持ち
めちゃくちゃ久しぶりに投稿します。
ハゲ・童貞・ひねくれ・ヘルニア・スケベ・キモいの多重苦で死んだ方が良い。
で、おなじみチャンハジメと申します。
6月で29歳になり、完全に大人なんですが、
最近わかってきたのは、
・人は二律背反的に生きていて、結構両極端な気持ちをずっと抱えている。
・二律背反的に生きることは、自分自身にとっても複雑でわかりにくく、言語化できないから、片方に寄って物事を捉えたり、発言したりする。
ということです。
当たり前なことなんですが、今さら気づきました。
ずっと毎日死にたい気持ちと死にたくない気持ちで生きていますが、2ヶ月に1度ぐらいの頻度で、何かしら「この歳になって、今更ながら気づいたけど…」ってよく考えている気がします。
僕は頭固くて、こういうものだと思ったら、考え変わらない方なんですが、年を取るというのは、普遍的な考えに近づいたり、はたまた真理に近づいたり、こういうことなのかとわかってくるものも多い気がします。
でも言ってまだ20代、来年から30代に突入しますが、まだまだシャバ僧でわかった気になってるだけの、諦めモード装ってヌケヌケと生きている奴なんです、僕は。
先述しましたが、毎日死にたいです。
小学生の時と大学生の時に、首吊って死のうとしましたが、いずれも失敗しました。
高所から飛び降りた方が致死率でいうと上がると思いますが、死にたいけど死にたくないので、助かりそうな方法を取りました。
なんで毎日死にたいんでしょうか?
考えてみましたが、最初の頃は人生がなんとなく上手くいってないなって気づいたり、自分は無能だからと理由がありました。
しかしここ2、3年は特に理由もなく死にたい気持ちで溢れています。
例えるなら、シコった後のいわゆる賢者モードが日常でずーっと続いている感じです。
もし女性読者が居たのなら、お聞きしたいんですが、女性もセックスやオナニーの後に虚無感を感じるもんなんですか?
二律背反の話に戻りまして、
死にたい気持ちと死にたくない気持ちの相反する感情ともう1つありまして、タイトルにある通り、孤独で居たい気持ちと誰かに救われたい気持ちです。
たった今、軽く「孤独」という言葉について調べましたら、どの辞書サイトにも寂しいとかひとりぼっちというニュアンスが含まれており、僕の解釈でどうやら合っていたようです。
だから孤独で居たいと反するのは、誰かに救われたいで大丈夫そうです。
誰かに救われるというのは、傍に人がいるということですからね。
正直、29年他力本願で生きてきました。
求める求めない関わらず既に誰かに救われて生きてきました。
そう考えると一番誰に僕は救われたいのか。
僕は僕自身を助けてやらないといけないみたいです。
いつも最終結論は、「結局自分が一番、自分を見放しているから手を差し伸べないといけない」という所に落ち着くのですが、1度も手を差し伸べたことはありません。
何でなんでしょうね?笑
全然わかりません。
こうやって、思ったこと書きなぐって、見返した時に「ちょっと違うんやけどなぁ…。」って言語化できないことにまたイライラする日が一生続きそうです。
それではここまで読んでくれて有難うございました。