ジョルジュ・ラビ「日本通信」
【原典:Georges Labit, Communications au Japon, 1890】
【ジョルジュ・ラビ〔Georges Labit (1862-1899)〕は南仏トゥールーズの裕福な商人の家に生まれ、生涯を旅行家として過ごし、世界各地で美術品を蒐集しました。1889(明治22)年に来日し、神戸、横浜、東京、日光、鎌倉などを訪れ、この旅行記をトゥールーズ地理学会の会報に寄稿しています。その後も地中海を周游したりヨーロッパ各都市の美術館を歴訪したりしたのち、トゥールーズに戻って民族博物館を作りました。これがジョルジュ・ラビ美術館で、1893年に開館しますが、その6年後にラビが急死したため、コレクションはトゥールーズ市に寄贈され、現在は市立美術館となっています。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文ローマ字です】
旅の思い出
G. ラビ氏による
ほんの数年前まで、日本へ旅しようと試みる者はほとんどいなかった、この極東の国は長いことヨーロッパ人に対して閉ざされたままだったのだ。今日、日本へ行くのは簡単である。マルセイユからメサジュリ・マリティム〔Messageries Maritimes、フランスの海運会社〕の豪華蒸気船に乗れば、中国を経由して42日後には横浜に着く。リヴァプールから日本へ行くなら、アメリカと太平洋を経由して33日だ。中国航路のほうが風光明媚で興味深いと、わたしは思う。スエズ、アデン、セイロン、マラッカ海峡、コーチシナ、中国、そして日本の内海〔瀬戸内海のこと〕には、数えきれないほどの名勝がある。確かにアメリカ航路のほうが速いが、岩山のある地域を除けば、思いがけないものを求める旅行者にはほとんど魅力がない。わたしは前者のほう、つまり中国航路を選び、1889年5月17日、マルセイユでジェムナ号〔Djemnah〕に乗りこんだ。
この先のページで、わたしは自分の旅の正確な記録を、とりわけ景色について、お伝えすることに努めただけで、日本についての深い研究があるわけではない。
中国から日本に着いた旅行者は、とても印象的な対比で迎えられる。もはや眼前にあるのは見渡すかぎり棺に覆われた天子の帝国〔Céleste-Empire〕の平原ではない。中国の大河で黄色く濁った海を離れ、青い内海に入ったのだ。
海岸の輪郭がはっきりと見え、奇妙で気まぐれな形をした松の点在する、小さなギザギザの山々に目が留まる。富士山の雪が雲を破って聳え、幻想的な姿を見せている。一目瞭然、これぞ日本であり、日本の藝術や産業を描いた絵で見たような、火山、風景、植生である。
内海には大小さまざまな形の島があって、そのほとんどに人が住み、耕作が行なわれている。家々や寺が旅人に素晴らしい景色を一望させてくれる。日本は素晴らしい島国だ。日本の地理学者は、日本に3800の島を数えている。鮮やかで多様な色彩が、風景にこの上なく陽気な雰囲気を与えている。寺、森、黒い岩、小舟のさまざまに照らされた白い帆が、感嘆すべき無上の光景を見せている。
わたしたちは日本のボスポラス海峡にある大都市のひとつ、下関の前に着いた。人口25000人の都市だ。ジェムナ号はしばらく停泊したが、わたしは下船できなかった。下関専用のパスポートを持っていないので、日本の警察が下船を認めなかったはずだ。それに、この都市はあまり面白くない。どこであれ内海の航行は難しいが、下関ちかくは潮の流れが激しいため、ひときわ難しい。
内海を進むあいだ、日本の小舟の優美な姿をゆったりと眺められる。この水上家屋に住む者たちは、中肉中背で、肌は黄色く、しなやかで筋肉質で均整のとれた手足を持っている。そうした水夫たちは極めて疲れにくいのだと、あとで知った。長くて重い櫓の上に立って全体重をかけ、力強く器用な手足で操り、炎天下で何時間も休みなく、疲れも見せずに働く。たいてい水夫は拍子のよい単調な曲とともに仕事をしている。さらにしばしば、中国の苦力に似て、短かい間隔を置いて鋭い声を上げ、何秒間か叫び続ける、主に肺を拡げるためだ。夜になると小舟の舳先に大きな色つきの提灯が光る。
内海の島々は、よく耕作されている。米、小麦、ジャガイモ、トウモロコシ、そして何種類かの野菜を作っている。島民は朝鮮人と日本人の混血で、学はなく貧しいが総じて清潔である。
うれしいことに、わたしは香港で、現在はズアーヴ第3連隊の大隊長を務めているド・モントルイユ氏が世界一周を楽しんでいるところに出会った。母国から遠く離れた地で遭遇した、この感じのよい陽気な旅の仲間と一緒に、わたしは日本を訪れた。地理学会の会員の何人かは、ド・モントルイユ氏を知らないではない、というのも、彼がセティフで自分の大隊に合流するためにトゥールーズを通ったとき、わたしが紹介したのだ。
神戸は、ジェムナ号が寄港する日本で最初の都市である。気候は健康的で温暖だ。最も暑い日でも摂氏35度を超えない。平均気温はフィレンツェ並みである。冬もナポリ並みに温暖だ。
到着すると、この都市の素晴らしい地の利と美しい眺望に驚かされる。港は広く、高い丘は豊かな草木、よく耕された畑、村、寺に覆われている。その光景は、いくつかの景勝地のように壮大で見事な姿ではないものの、欠点は皆無で、全てが目を魅了しようと競い合っているかのようだ。親しみやすく晴れやかな自然を前にすると、幸福感のようなものを感じ、この惜しみない輝きをひたすら堪能したいと思う。
日本では、中国のような椅子駕籠は移動手段として使われていない。日本にはジンリキシャというものがあって、逐語訳すれば人間-力-車輪である。他の極東諸国も日本から借用した人力車は、ジンリキシ〔俥夫のことと思われるが当時このような呼び方があったのか不明〕の牽く小さな二輪馬車のようなものだ。後述するように、このジンリキシ、つまり日本の走者は、並外れた走りを見せる。
ド・モントルイユ氏とわたしは、それぞれ人力車に乗って、数分後に神戸の租界に到着した。租界とは、貿易のために日本が外国に譲渡した区域のことだ。そして、横浜のあとに第一級となったのは、間違いなく神戸である。
お分かりいただけるだろうが、日本人は、自分たちの趣味や嗜好を、文明開化された彼らの国や政府のもたらすものと完全に調和させるために、想像力を働かせる必要はなかった。ヨーロッパの工学やアメリカの発見は、日本人に恐れの混じった憧れを抱かせた。外国との交易で得られるものは、自分たちの失うものに見合わないと感じていたし、それは故なきことではなかった。高度な教育を受けた賢明な日本の支配者たちが、西洋諸国の代表たちの申し入れを冷たくあしらうのは、自分たちが国民精神の忠実な代弁者だと示しているにすぎない。
この慎重さは、日本を外国の侵略から守るには充分でなかった。英米が日本の友好国となると決めた以上、恐るべき友好の抱擁から日本が逃れるのは不可能だった。この新たに来日した者たちは、今日、日本で外国との交易に開かれている場所の全てに定着しており、文明開化や国益のためという名目で豊かな土地を巧妙に開発したから、どうやっても追い払われまい。今ではイギリス人とアメリカ人にドイツ人と中国人も加わって、神戸と横浜の租界に実質的な植民地を作っている。フランス人は非常に少ない。神戸の租界は新しい都市で、清潔で整然とした道路だが、個性はない。英国企業、英国バー、英国ホテル。わたしたちはスターリング・ポンドをドルや円に両替して、神戸と混同されがちな旧市街、兵庫を散策する。ふたつの街は湊川で隔てられており、川岸には見事な松が植えられ、神戸や兵庫に住む者の遊歩道となっている。兵庫の街はかなりの面積を占めており、清潔さで知られている。すべてが小さく、家は低く、店は狭く、店員は小柄で、装飾具は極小だ。真光寺と、その池の真ん中にある仏像を参拝したあと、神戸で最も注目すべき散歩道である滝の散歩に出発する。途中、生田の寺〔生田神社のことか。寺と神社を区別していない〕に立ち寄り、赤い目をした模様ひとつない真っ白な神馬に数粒の大麦を捧げる。この神馬は坊主〔原文ではbonzeとなっているが、神社ならば神主であろう〕によって買われ、信者たちが大麦の入った小鉢を数サンチームで買って、忘れずに餌をやることで飼われている。間もなくわたしたちは山のふもとに着いた。運転手が、これ以上は進めないといって、チャヤという茶の店の前で停車した。たちまちわたしたちは可憐で愛想のよい娘たちの集団に取り囲まれた。キモノという服は幻想的な姿で、とても独創的である。小さな茶碗で何杯か飲んだあと、わたしたちは山登りをはじめた。半時間ほどで最初の滝、高さ16メートルの、女の滝という意味のメタキの下に着いた。楠と杉の茂る森の中にあって、じつに絵になる場所だ。小さく素朴な橋で川を渡り、しばらくすると高さ25メートルの、男の滝という意味のオタキに到着する。この滝からは街と港が一望できる。
しかし時間が迫っている、在リヨン日本領事で、ジェムナ号の乗客でもあるオカシ氏〔原文Okashi、大樫か、あるいは大橋か?〕が、神戸で最も居心地のよい「茶屋」での和風昼食に招待してくれたのだ。――わたしたちは山のふもとでまた人力車に乗る。――確かに、この移動手段は素晴らしい。ゆったりと座れるし、フランスの馬車のように御者で視界を遮られることもない、それに、盲目で粗暴な動力ではなく、素直でいつも陽気な使用人がクルマの中にいて、わたしたちを引っ張ってくれるのだ。神戸や横浜のように外国人のいる街では、人力車の運転手が片言の英語も理解しないことは滅多にない。もっとも、日本では英語はほぼ一般的に通用している。帰るとき、人力車は湯屋の前で停車する。共同の浴室で、男も女も子どもも体を洗う。最も厳格で最も敏感な日本人も、この混浴を不快に思わない。良心に従えば、祖国におり、育った環境での礼儀作法に反していない者を、恥知らずと非難することはできない。日本人は羞恥心を知らないが、恥知らずではない。わたしたちは、オカシ夫妻が親切にも招待してくれた茶の店に着いた。玄関先で、ぜいたくに着飾った、しかしそれなりの年齢の女が、わたしたちを出迎える。眉毛は剃られ、歯は黒く塗られ、唇は紅で赤く染められている。歯を黒くする習慣は、かつて結婚した女性にとって一般的だった。女性が結婚後に自分を醜くするという犠牲を払うのは、無意味ではなかった。誠実な妻かつ思いやりある母としての義務のために、美しさを犠牲にしたのだ。もっとも、この習慣は消えようとしている。日本の家に入る前には、どこの家であれ必ず靴を脱がねばらならない。だから、全ての床を覆う畳が上品で清潔なのだ。狭い階段を登ると、1階〔2階のこと。ヨーロッパでは地上階をゼロ階とするため、階がひとつずれる〕の部屋には、溝を滑る紙の板しか仕切りがない。他の日本家屋と同様、家具もない。正座をして、上質な畳の上に半円状に並ぶ。片側にはジェムナ号の船長であるヴァキエ氏、オカシ夫妻、初来日の若いイギリス人女性、反対側にはド・モントルイユ氏、洋行帰りの若い日本人、そしてわたしだ。これから食事をする下の部屋には、睡蓮に覆われた小さな池があり、目の前には兵庫の日本人街、そして最も奥には、多くの船の停泊する港のある海が見える。やがて、この店の女中たちが次々と現われ、額を床につけてわたしたちに深く挨拶する。高価な服で、まばゆい布だ。みな化粧を尽くしており、赤と白が額と頬に厚く重なっている。わたしたち各々の前に盆が置かれ、その上に小さな箸が置かれる。小さな箸を差し出されたヨーロッパ人はいつも、細長い首の壺に鼻を突っこめと言われたラ・フォンテーヌの狐のような顔になる。
最初に苦いお茶と菓子が出され、次に芳しい香草に囲まれて湯の中を泳ぐ煮魚が出される。そのあと、さまざまな料理の盛られた小皿が続く。肉は皆無だ。食事は魚だけで構成されていた。魚はしばしば釣ったままの生で出された。生で食べられるのは大きな赤い魚で「タイ」と呼ばれる。それを「ショウユ」と呼ばれるとても濃い汁で味つけして食べる。日本人が何よりも好む料理だ。パンの代わりに、塩なしの水で茹でた米を、それぞれ一杯ずつ食べた。黒塗りの歯をした女主人が、畳に座って、わたしたちの真ん中で食事を見ている。とても複雑な配膳を命じ、女中たちはわたしたちの小さな杯に熱いサケを絶え間なく注ぐのに忙しい。酒は日本人にとって日常的な飲みもので、米を発酵させて作られ、風味はさほど不快ではない。食事が終わると、まずは小さな杯に入っている酒を飲み干し、それから再び杯を満たして、食事を注文したひとに差し出すのが習わしである。これは満足の証だ。すべてが初めての経験だったので、独創的な日本風の食事を大いに楽しんだ。
1時間後、わたしは鉄道で明石へ向かった、それは特別に神戸からパスポートなしで行ける小さな街だ。
話ついでに言っておかねばならないが、日本では自分を理解してもらうのは難しくない。日本語は、学者が深く研究するには難しいが、旅行者には日常的なことを手短に伝えられる簡単な言い回しを用意している。音が同じという意味では、イタリア語によく似ている。母音が多く、強勢は常に正確に置かれる。その証拠となる日本語の単語をいくつか挙げてみよう。「オメデト、祝福する。――アリガト、感謝する。――サヨナラ、また会いましょう。――コンニチ、今日。――ミヨウニチ、明日。など……」しばらく日本に住んでいる外国人は、たいてい日本語をとても流暢に話す。書き言葉については、あまりに難しいので勉強しようという者はほとんどいない。
大阪からの鉄道で神戸を出発すると、畑に覆われた広大な平野に入り、1時間後には明石に到着する。この街を囲む高原は、日本一のお茶の産地である。茶の木が葡萄畑のように規則正しく並んで植えられている。小さな丸い茂みになるように剪定されている。ほんの数年前まで、明石は森に囲まれた丘の上にある有力な大名の領地で、堀と城壁のある城がそれを証明していた。しかし、先の革命で大名は城塞から追い出され、かつての侍の詰め所に現在は仏教寺院が建っている。
ここで少し脱線して、日本の政治についてお話しせねばならない。われわれフランス人にとって、これは身近な話題である、なぜなら革命にかかわることだからだ。約30年前、日本に用事のあるヨーロッパ人やアメリカ人は、タイクンという、江戸にいて政府の全権を掌握している文句なしの権力者とだけ交渉した。神々の子孫であり、地上における神々の代理人であるミカドは、明確な精神的権力を全く持たず、京都に追いやられていた。もっとも、大君の権威は帝よりもはるかに低かった。ただ、少しずつ政権を奪い、権力を世襲するようになった。メロヴィング朝の宮宰〔maires du palais〕のように、大君が帝に取って代わったのだ。しかし大君は完全に帝の権力を破壊することはできなかった。日本にとって帝は、古代ギリシャの王のように、英雄や神々の子孫である。したがって、日本では帝は陰ながら絶大な精神的権力を持ち、大君は表で事実上の権力を持っていた。
国は小さな統治権で分割され、それぞれダイミョウという領主が、領地の広さやサムライという兵士の数に比例して権威を持った。薩摩や長門のように、大君の権威を無視する有力大名もいた。1868年以降、大君の国は崩壊した。南部の大名たちが最後の大君に反抗し、帝の旗のもとに戦争を起こした。日本人にとって神聖な紋章であるこの旗に逆らう者はほとんどなく、帝は後にトウキョウと呼ばれるようになった江戸の大君の館に居を構えた。
しかし革命はそこで終わらなかった。大名や封建領主のあらゆる権力を一度に崩壊させたのだ……。これは16世紀のヨーロッパで王権が至るところで封建制に取って代わったのと全く同じである。封建領主は突然かつ完全に消滅した。ひとつの革命がこれほど短期間のうちに完了したところは他にない。大都市はヤシキという木造の大きな兵舎のようなもので埋め尽くされ、大名が私兵を持っていた。公の場に姿を現わすときは、いつも二本の刀を下げた男たち、つまり侍が護衛して、駕籠が通り過ぎるときには、平民は膝をつかねばならなかった。今日、封建制度の痕跡はことごとく日本から消え去り、かつて侍や大名の持っていた古い鎧や刀だけが、骨董屋に持ちこまれて売られることで残っている。
明石で古い藩邸を見学したあと、わたしは神戸に戻って、横浜へ向かうジェムナ号に再び乗りこんだ。
神戸から横浜までの距離は350マイルで、海がよければ高速蒸気船が24時間で着く。
正直なところ、初見では横浜は神戸ほど面白くはなかった。風景が陽気でない。もちろん、規模としては、この2都市は比較にならない。横浜は日本の主要港であり、帝国の巨大な商業倉庫であり、アジアとアメリカの中継地点である。横浜以上の快適さは望むべくもない。旅行者は、大きくて立派なアメリカ式ホテルにゆったりと泊まり、ヨーロッパ人に囲まれて、ヨーロッパから離れているとは感じないだろう。
街は主に4つの区域に分けられる。海岸に広がる洋風街、「ブラフ」と呼ばれる丘陵〔山手地区のこと。崖(bluff)のような地形のため居留外国人からそう呼ばれた〕、中華街、そして日本人街である。
横浜の洋風街は取りたてて特徴がなく、イギリスの地方都市そっくりだ。清潔で整然とした通りにはイギリス風の名前がついている。ロンドンやニューヨークのような店ばかりで、茶屋ではなくカクテルやジンやウィスキーを出すバーで溢れている。白壁の家々は兵舎のようだ。造りも意匠も全く日本のものを取り入れておらず、建築家たちは遠い祖国の大まかな雰囲気を住民に感じさせることしか考えなかったようだ。それぞれの集まりは、ヨーロッパの植民地の只中で、一種の特別な社会を作っている。それぞれの構成員に、それぞれの利害がある。生活し、気晴らしを楽しみ、商売し、そして何より喧嘩し合っている。
横浜には5000人の欧米人が住んでいる。そのうち85人が領事館に登録しているフランス人である。この数字には領事館職員やメサジュリ・マリティムの代理店職員も含まれる。日本最大である横浜の外国人居留地の内訳は、以下のとおりだ。
高級商社と高級銀行をすべて所有するイギリス人、それに対抗しようとしている北アメリカ人、そして最後に、ここ数年で日本のみならず極東全域で急速に数を増やしつつあるドイツ人である。中国人はこの並びに入れていないが、他の外国人と同じく非常に多い。大手の商社や信託会社で出納係や経理係を務めたり、小規模な銀行や商社でヨーロッパ人よりもはるかに安く売ったりしており、長期的には他の外国人を一掃するだろうと思う。
ブラフという丘陵は、日本の開港とともに欧米のさまざまな地域から集まってきた新興の金持ち、あるいは金持ちになりそうな人物の住む場所である。また、裕福な銀行家や商人たちの憩いの場でもある。横浜における「ブラフ」は、ロンドンにおけるセント・ジョンズ・ウッドやパリにおけるパッシーのようなものだ。のどかな丘の斜面に別荘が建ち並び、屋根には日の出から日の入りまで多種多様な国旗がはためいている。
中華街は遠くからでも分かる。あちこちの中華街と同様、粗末な家屋の集まりで、悪臭の溜まり場であり、いかがわしい宿や賭博場がひしめき、横浜の裏社会の者たちや行きずりの船乗りがよく訪れる。
横浜の日本人街は広大な土地を占め、美しい街並みを持っている。無塗装の木造家屋はまさしくスイスの山小屋のおもちゃのようだ。軽い屋根は樅の木の柱で支えられ、窓格子の代わりに半透明の紙が嵌められている。日中は4面の壁が滑って重なり合い、4本の軽い梁の上に屋根だけが残る。したがって、住居の中で何が起こっているか全て見えている。どの家も驚くほど清潔だ。中国人の家とは大違いだ! 日本に来て最初に驚かされるこの清潔さを説明するのは、火事の多さである。家屋が燃えやすい材料で建てられているため、ちょっとした事故で一地区まるごと灰燼に帰すのだ。古い家は田舎にしかない。1876年から77年の1年間だけで、帝国全体で12143件の火災が発生し、45000戸が焼失した。生まれてから暮らして死ぬまでを同じ屋根の下で過ごした日本人などひとりも見つかるまい。家屋が火災を免れたとしても、日本で頻発する地震に壊される、そのために建物が軽く作られているのだ。
日本の家は必ず1ピエか2ピエ地面から持ち上げられている。日本人であれヨーロッパ人であれ室内に入る前には必ず靴を脱がねばならない。家具はなく、衣類を入れる箪笥が注意深く隠されているのみである。調度品は、貧しい家にも裕福な家にもある、日本中で広く使われている2つのもので全てである。藁の畳とシバチ〔原文shibatchi、続きを読めば分かるとおり火鉢のことなので、以後そう表記する〕だ。椅子はないので、日中は畳の上にしゃがむ。ベッドはないので、夜は畳の上に布団を敷いて寝る。家の真ん中には暖炉の代わりに火鉢がある。「火鉢」の外側は木製の箱、内側は灰と炭火で満たされた金属の箱である。小さな火の上で、薬缶が常に温められているのだが、これは家ごとにお茶を淹れる水を用意するためで、いつでもお茶を飲める。「火鉢」を囲んで、女たちがお喋りし、家族が食事をする。その弱い熱で冬に暖を取る。男女とも常に吸っている小さな煙管に火をつける燠となる。商店も茶屋も民家も、わたしたちは興味津々で眺めたが、とても礼儀正しく快く迎えてくれた。出会うのは笑顔ばかりだ。そもそも、村人であれ都会人であれ、老いも若きも、日本人は皆いつも笑っている。
横浜の日本人街でわたしが好んで歩いた場所のひとつに、宵の市と呼ばれるものがあった。8時から真夜中まで、売るもののある個々人がこぞって出店するのだ。蒐集家にとっては宝の山だ! 古い大名の服、古い刀の鍔、愛書家にとって本当の宝物である彩色本、京都の古い磁器が並んでいる。
とはいえ、日本人街で間違いなく最も興味深いのは、劇場通りだ。賑やかで陽気な群衆に出くわす。茶屋は満杯で、あちこちに酒で上気した顔がある。軽業師、占い師、飼い鳥や野良猫の見世物師、蝋人形館がある。曲藝や綱渡りの後には、射的やさまざまな競技が続く。横浜の劇場通りは、わたしが最もお国柄に出会えた日本の一角のひとつである。劇場を訪ねるのは、とりわけ興味深い。入口で靴を脱ぎ、靴と引換えに券を貰う。
日本の劇場の公演は、夜明けに始まり、夜遅くに終わるのが普通だ。何週間も上演されることもある。
室内には装飾も座席もない。客席の床には藁の畳だけが敷かれ、観客はその上にしゃがむ。四角い木の仕切りが各々の席を表わしている。舞台はヨーロッパと同じように劇場の奥の全域を占めるが、楽器席は隅にあり、ヨーロッパでは一階桟敷席〔baignoire〕の占めるような位置にある。女の役も含めて、すべての役を男が演じる。女形は、化粧をしたり女性の声を真似たりする高度な技術を持っている。ここでは、幕は開くが、上がるのではない。芝居は日本の伝説に基づいている。たくさんの殺陣と終わりのないハラキリがある。主題は、簡単に言えばこうだ。息子が、妹を殺した犯人と思いこんで父親を殺したため、その首を切り落とし、男側の家族はハラキリをする。20年ほど前まで残っていたこの野蛮な風習は、名誉を回復したい男が親戚や親友を全員集め、彼らの前で腹を切るというものだ。さいわい、今ではこのような愚かな自殺は存在しない。大道具は廻り舞台の上に置かれ、場面に応じて家屋の内部と外部を見せる。日本人は優れた役者だが、芝居はあまりに複雑で、朗唱は単調で、いつも同じような引きずる声で詠う。そのため、ヨーロッパ人は劇場で1時間も過ごせば出たくなる。横浜の劇場は、わたしの最も美しい旅の思い出のひとつである。日光への長旅から帰ったあとは、ほぼ毎晩を劇場で過ごした。
元海軍砲兵大尉で、地理学会の日本特派員である親切なフーク氏〔Prosper Fortuné Fouque, 1843-1906〕は、わたしが横浜に到着するとすぐに訪ねてきてくれ、彼の住む東京に迎えてくれた。東京の貴族学校〔学習院〕の教授であり、日本に住むフランス人の中で最も古い人物のひとりであるフーク氏は、敬意を表してもしきれないほどの親切さで、わたしのために何でも取り計らってくれた。しかし外国人はパスポートなしでは日本の内地に入れない。
パスポートは横浜のフランス領事館に出向くと入手できる、領事館が東京の外務大臣に要請するのだ。パスポートは予め指定した一箇所か二箇所に対してのみ発行される。ド・モントルイユ氏とわたしは宇都宮と日光を指定した。48時間後、わたしたちはパスポートを手にした。その全文を公開するのは面白いと思う。
日本政府によって表明される、全ての旅行者が従うべき指示
I. この旅券の所持者は、内地を旅行する際、以下に示す現地規則を遵守しなければならない。現地当局および本国の住民との関係においては、節度と正義をもって行動しなければならない。
II. 所持者が旅券の日付から30日以内に出発しない場合、領事館を通じてこの書類を公使館に返却しなければならない。
III. 旅行者は、内地に滞在中、旅券に記載された期間内に旅行を終えることができないと判明した場合、郵送で、前項で指定された手順によって、旅行を完了できない理由を公使館に通知しなければならない。
IV. 当局(公庁)や警官から要請されても旅券の提示を拒否した場合、所持者は旅行中に逮捕される可能性がある。また、滞在先の旅館の主人にも旅券を提示しなければならない。
V. 旅行者は、旅券に記載されている全ての地点を訪れていない場合であっても、旅行が終了するか、乗船港に到着したら、直ちに領事館を通じて公使館にこの書類を返送しなければならない。新たに旅行をする場合、新たな旅券が必要となる。
VI. 内地滞在中の旅行者は、狩猟、商売、日本人と商業契約を結ぶこと、旅程を超える期間で家や部屋を借りることを禁じられている。
VII. 旅券は個人のものである。
VII. これらの規定に違反した場合、日本政府は公使館に通知し、違反者は将来も旅券の発給を拒否される可能性がある。
附記
上で言及した現地規則は、特に以下のことを禁じている。
1. 無灯火で夜間に馬車や馬で移動すること
2. 馬に乗って火災現場に向かうこと
3. 通行禁止区域を通過すること
4. 狭い道で馬を駆けさせること
5. 渡し船や橋の通行料の支払いを無視したり拒否したりすること
6. 距離を示す貼紙、看板、標柱を破壊または破損すること
7. 寺社や民家の壁に文字や絵を描くこと
8. 道路や公園の作物、樹木、耕作地、およびあらゆる種類の財産に損害を与えること、溝や運河などの水の流れをいかなる形であれ妨げること
9. 田畑、植林地、囲い地、その他の指定場所を横切ること
10. 森でも山でも平原でも、不用意に火をつけること
日本ではパスポートの所持が義務づけられている。どこでも要求されるから持っていないと何もできない。
横浜から東京までの駅は、イギリスの駅を手本にして作られた。日本で最初に敷設された鉄道である。機関車、客車、鉄橋、設備はすべてイギリスから輸入さされた。客車はとても快適で、通路やデッキもあった。イギリス人技師が線路を設計し、敷設した。
右手には家の並ぶ丘、左手には青い海の広がる、絵のような路線を1時間ほど行くと、東京に到着した〔横浜から東京へ向かうなら車窓の左右が逆ではないかと思われるが原文ママ〕。駅でフーク氏が待っていてくれた。人力車に乗って向かった東京ホテルは、東京にある日本のホテルで唯一、多少なりともヨーロッパ風の暮らしができる。東京では外国人は店もホテルも経営できないのだ。外国人居住者は、各大使館の随行員と官立学校の教授だけである。ご存じのように、東京は世界有数の面積を持つ都市である。神戸や横浜で見たのと同じような木造家屋の巨大な集まりだ。街は海に面しており、多くの川や運河が流れている。庶民の住居の中に、金文字の看板を掲げた豪華な商店、かつて大君の住まいであった帝の城の三重の壁、多くの神道や仏教の寺院がある。
つまり、全てがまさしく首都のような雰囲気なのだ。道のりは果てしなく長い。屈強で足の速い走者ふたりに牽かれた人力車でも、駅からホテルまで約1時間かかり、それでも短かいとされるのだ。東京には路面電車や乗合馬車もあるが、大通りは大変な人だかりで、進むのも困難である。行程が長くなるのは、東京の城壁内に広大な公園や庭園があるからだ。昼食後はフーク氏がこの巨大な首都で親切な案内役を務めてくれた。通りは忙しない群衆でごった返している。長い列をなした人力車がすれ違ったり続いたりしている。しかし、都市生活が最も絵になるのは、神明前と日本橋である。神明前は狭い通りで、両側には工業製品や贅沢品の店が並んでいる。煙管、煙草入れ、磁器、あらゆる種類の繊細で藝術的な品々、日本人が日常的に使っているものばかりだ。
日本橋はレ・アール地区に例えられる。バシは橋、ニッポンは日出ずる処という意味だ。橋の下を漁船が荷物を積んで上ってゆく。魚が日本の主食であると知っていれば、この場所の船や漁師の混雑を想像できるだろう。江戸は今では東京と改名したが、大君の気に入った場所だった。代々そこに住み、そこに埋葬された。この都市の現在の姿を作ったのだ。新しく見える地区は全て最近の火事で焼失したところである。東京の中心部は、三重の城壁で囲まれた「シロ」によって占められている。これは昔の大君の要塞である。ふたつ目の城壁は、この都市で最も美しい遊歩道である。道に沿った城壁には、歪んで奇妙な形をした木々が茂る。睡蓮で覆われた堀は、広大な庭園のようだ。三番目の城壁は皇族のためのもので、中には入れない。大君は城では満足せず、浜御殿に離宮を作った。浜御殿で驚くのは、捻じれた木の皆無なことで、自由で絵画的な様式はイギリス式庭園のようである。
城と芝の距離は、生と死の距離と同じくらい短かい。芝には日本で最も美しい寺のひとつがある。松と桧の林で囲まれた墓地に大君が埋葬される。鴉と鷹の鳴き声だけが、この場所の静寂を破る。それぞれの墓は一連の建物で構成されており、主要な建物は仏教の礼拝堂で、とても豪華な装飾が施されている。ギリシャ式やゴシック式とは無関係の、新しい種類の建築である。芝から、傑出した歓楽街である浅草へ行き、比較するのを忘れてはならない。この地区の中心には、東京で最も人気のある浅草寺がある。浅草寺の建築は、芝の寺に比べると、かなり劣っている。芝は墓地の入口だが、浅草は縁日の真ん中にある。商人や軽業師は神聖な前庭に屋台を出す。本堂は35メートル四方で、回廊に囲まれている。寺の前にある塔の上からは街全体を見渡すことができ、白い首の眩い富士山が再び現われる。無数の神聖な鳩が散歩する人々の手をつつく。日本では、宗教は身近で、煩わしくない。茶屋に行くかのように、その時々の気まぐれで寺に行く。
坊主への施しであるお布施を渡すと、老若男女は道化師や手品師のところへ行く。あとで日光の話のときに説明するが、驚くことに、日本では宗教的な感情がしょっちゅう表出されるものの、その感情の内実には見合っていないのだ。
わたしたちは寺を出て、蝋人形館、奇術師、綱渡り、太った巨人、透視画、写真家、日本の写真家はこの分野で間違いなく世界一の藝術家である、2サンチームで船酔いを体験できる動く竹橋、力士、そしてあらゆる種類の劇場を訪れる。ある縁日の屋台に、いたく驚かされた。扉には、フーケ氏の翻訳によれば「文明の驚異」という掲示があった。中には、ウィーンの女声合唱団のように、4、5人の日本人女性が、いわゆるヨーロッパの音楽を演奏していた。彼女たちは、イギリスで何人もの手を経たあとの珍妙な服を着て、足には靴を履かず、太平洋を何度も渡ったに違いない帽子をかぶっていた。道化師が、畳に座った観客に、ひどく真面目に電気と蒸気の説明をしていた。近くには、奇妙な姿をした小さな木ばかりの苗木屋の庭があった。
その晩、フーク氏はわたしたちを自宅に招待した。日本人であるフーク夫人は、ド・モントルイユ氏とわたしにとって忘れられない親切さでもてなしてくれた。この歓迎の家で、わたしたちは日本に住む他のフランス人と知り合った。東京の士官学校の教授であるデグルモン氏と、レガメに並ぶ才能を持ち、日本に恋して6年間も住んでいる、画家のビゴー氏である。ビゴー氏は、画壇や、特派員を務めるフランス語の彩色新聞で、藝術的で絵のように美しい日本を宣伝するだけでなく、東京でフランス語の諷刺新聞「トバエ」を創刊し、棘のある筆致と魅力的な挿絵で、近年フランス的要素を捨ててアングロサクソンに傾倒している日本政府をからかっている。
フーク氏の晩餐会は、ご想像どおり素晴らしかった。フランスのこと、親戚のこと、友人のこと、話題は尽きなかった。フランス人の利益を害そうとばかりする外国人たちに囲まれて日本に住む数少ないフランス人、勇気ある者たちの中に、フランスの記憶がどれほど深く残っていることか。
夕食後に音楽会が開かれた。ビゴー氏がベランジェ〔Pierre-Jean de Béranger〕やナドー〔Gustave Nadaud〕といったフランスの古い曲を歌ってくれたが、母国から遠く離れていると、忘れるどころか、記憶に蘇ってくる。しかし、主人がしばらくの沈黙を求めた。フランスに乾杯! ここにはいない親戚と友人に乾杯! 彼らに神のご加護がありますように、と杯を掲げながら言った。丁寧で感情の籠った乾杯は、祖国を心から惜しむ気持ちの表われである。ここにいない者たちは、遠い国の友人からどれほど愛されているか、知らないのだ。だから遠い国の友人は、誰であれフランスから届けられ、親しみを込めた筆致で懐かしく忘れがたい祖国の記憶を伝えてくれるのを、何と待ち望んでいることか!
夜遅くに人力車で「東京ホテル」に着いた、このホテルは東京でも最上級だが、扉には鍵がなく、部屋は簡素な屏風で仕切られているだけだ。
翌日も東京散策を続け、あちこちに広い庭園のある上野へ行って、大きな湖を眺める。大通りの両側には、17世紀に大名の寄贈した「灯籠」と呼ばれる巨大な石や青銅の灯りが並んでいる。
帰りに広大な演習場を横切る。多くの点でドイツ軍と似ている軍服を着た兵士たちが演習をしている。日本は軍隊にヨーロッパの規則を採用し、ほぼ全てを取り入れている。フランスでは、われわれの軍事使節団が帝の要請で日本を離れたと誤解されていた。事実無根である。実際はこうだ。ドイツの使節団が日本政府から、軍隊を指導し、フランスの原則に続いてドイツの原則を教えるよう要請されていたため、わが軍の士官たちは新たな指導者たちとの接触を避けるため、日本を離れるのがよいと考えた。ひとりだけ残った使節団の士官が在東京フランス大使館附武官のド・ベグエン氏で、嬉しいことにわたしもお会いする機会があったが、とても感じのよい人物であり、日本の士官たち皆から尊敬されている。
次の日はビゴー氏の画室で日光旅行の計画を立てた。
フーク氏によれば、日光は間違いなく日本で最も面白い場所である。東京と日光を見れば、全てを見たことになる。ただし旅路はとても長く、とても疲れる。しかも日本語が流暢でなければならない。しかしフーク氏は貴族学校の授業があり、わたしたちに同行できなかった。ビゴー氏が親切にも代わりを買って出てくれた。日本語に精通し、何度も日光を訪れているビゴー氏ほど、親切で信頼できる案内役はいないだろう。
出発は翌朝、宇都宮行の始発列車と決まった。
東京での最後の夜は、とても楽しく過ぎた。首都の風変わりな地区である吉原を見に行かずにはおれなかった。日本の旅行者で、この有名な、世界でも類を見ない独特の地区について、語らない者はひとりもいない。吉原は地区全体がまさに迷路のようで、夜には色とりどりの提灯に輝く。
奇妙でもあり非常に実用的でもあるのだが、この本当の都市、東京に属する地域には、門と壁があって、その地区の門を閉めてから警察が極悪人を探すと、たいてい盗んだ金を吉原の茶屋で使っているのが発見されるのだ。案内役のビゴー氏が、料亭として、またゲイシャという歌手でも最も有名な店へと連れて行ってくれた。靴を脱ぐと、老婦人がわたしたちを寄木張りの床に美しい畳の敷かれた部屋に通した。数分後、若い娘たちが、黒い木でできたお膳、杯、磁器の瓶、そして必要な食器一式を持ってきて、生の海老、さまざまな種類の魚、菓子、果物からなる食事となった。食べはじめるとすぐに、豪華な衣装を着た藝者という歌手が登場した。
娘たちは皆、日本人の好きな、弦楽器の一種であるサンシンを持っていた。斧の形に彫られた象牙を使って三線の弦を叩き、演奏を始めた。節回しの非常に難しい調子が正確に守られた。音楽に合わせて、真の役者である10歳くらいの少女が、日本の路上でよく見る典型的な姿を演じた。仮面を使わず、単に表情を歪めるだけで、驚くほど自在に老若男女を真似た。正直に言うと、わたしにとっては劇場よりも面白かったのだが、座るための簡単な腰掛さえあれば完璧だった。男が膝を曲げてしゃがむ姿勢は、わたしにとっては全く寛げなかった。表現力豊かな形態模写のあと、若い娘たちは立ち上がって舞を披露した。
無理のある身振りや奇妙な仕草は、われわれの優雅さの概念には合わなかったが、しなやかで正確な動きは、ときに遅く悲しく、ときに速く騒々しく、音楽の性質に一致して、藝者の詠う歌詞に添えられていた。藝者はとても美しかった。わたしたちが最も感銘を受けたのは、慎ましい雰囲気だ。流行の美女というより貴族の娘のように見えるだろう。舞と歌は続き、その後わたしたちは、日本の細やかな習慣に倣い、紙に包んだ心づけを各々に渡して藝者を解散させた。こうした歌手は、子どもの多い家から集められる。たいてい美貌や才能に応じて、月額50、60、100ドルで、場合によってはそれ以上の値段で、実業家に貸し出される。購入者は娘のあらゆる要求を満たし、月ごとに新しいオビ、つまりベルトを贈る。ご存じのとおり、日本人は帯に粋を込めている。
吉原の長く広い通りの多くは、きわめて特殊な外観をしている。通りに並ぶ家々は、わたしたちがこれまで見た家々とは全く異なっていた。商人や職人の住居よりも大きく広かった。頑丈な木の格子が一帯を守っていた。格子の向こうの広々とした部屋には、畳が敷かれ、色とりどりの提灯に照らされ、8人、12人、ときにはそれ以上の若い娘たちが、高価な生地の長い服を着て、日本のしきたりどおりに正座し、自分の見ているものが何だか分かっていない者に特有の据わった目を輝かせている。
世界で最も風変わりであろう地区を訪れたあと、ホテルに戻る途中、わたしたちは棒の先に提灯を下げて家に帰る夜更かしの日本人たちとすれ違った。
翌朝、約束の時間にわたしたちは駅に着いたが、思いがけない不都合が起こった。日本の首都たる東京ならば、フランスの紙幣を日本ドルに両替できると思っていた。しかし実際には違い、フランス銀行の紙幣では東京のどこでも通貨を一銭も買えず、そのため日光へ出発できなかった。もし南仏の同胞のひとりで在東京フランス公使館の書記官であるベドゥー氏が、わたしたちが戻るまで一定額を貸してくれなかったら、わたしたちはイギリスの通貨を手に入れるために横浜まで引き返すしかなかっただろう。スターリング・ポンドは英語と同じくらい世界共通なのだと、あらためて思い知らされた。イギリスの通貨は、日本全国で、何の損失もなく、何の困難もなく、日本の通貨の代わりに受け入れられる。フランスの通貨は横浜以外ではほとんど両替できず、両替でどれほど損するかは神のみぞ知る!
東京から日光までの距離は488キロメートルだ。宇都宮まで鉄道で行く。外国人にとって、日本の鉄道、とくに乗客を観察するのは、とても興味深い。一等席でも、ヨーロッパ式の座り方ができず、靴を脱ぎ足を組んで座席に座っている日本人が、まだ多くいる。
日光についてはいろいろ聞いていたので、行くのが待ち遠しかった。日本の諺に「日光見なければ結構と言うな〔原文Nikko mi makerela kekko togu na、「日光を見ずして結構と言うなかれ」のこと〕」、つまり日光を見ていない者は名所を見ていないのだ、というものがある。
列車で5時間ほど走ると、宇都宮に着く。駅員、詰所の警官、人力車を貸し出す業者、そして走者にも日本のパスポートを見せて、ようやく旅を始められる。各々の人力車についている4人のクルマつまり牽き手は、がっしりとした丈夫たちで、とても明るく真面目で、道中わたしたちを決して置き去りにしない。わたしたちは全速力で宇都宮を通り抜ける。牽き手たちは見事に疾走する。宇都宮を抜けるとすぐ、頭上100ピエの高さで枝を絡ませ合う巨大な杉の並木に入る。木の中には幹まわりが5~6メートルのものもある。この道は日光まで80キロメートルに亘って続く。景色は素晴らしく、杉並木の大通りを遮るのは途中で出くわす村落だけで、そこでは必ず運転手が必ず立ち止まって、愛想のよい親切な娘たちに差し出された小さな茶碗に入った苦いお茶を飲む。わたしたちは道中ずっとオハヨウとサヨナラで迎えられる! こんにちは、さようなら。立ち寄って休憩したくならない家などない。また、内陸部に行くほど農民が薄着だと気づいた。男も女もほぼ裸だ。途中で嵐に遭い、ずぶ濡れになって徳次郎宿に着くと、東京から持ってきた食料で気力を取り戻した。もともと悪路だったが、雨でさらに悪くなった。何本かの轍は非常に深く、牽き手が腰まで泥に沈んでしまう。そこで人力車は椅子駕籠に作り変えられた。疲れているにもかかわらず、クルマたちは一瞬たりとも笑いを絶やさない。宇都宮を11時に出発して、日光には夜9時に、疲労困憊しながら到着した。
聖地日光の説明を始める前に、日本の宗教について少し述べねばならない。日本には149285もの寺があり、そのうち27000は原始宗教である神道を信仰する寺で、122280は4世紀中頃にこの国に伝わった仏教を信仰する寺だ。日本中に寺があり、その維持に莫大な費用がかかっているのを見ると、非常に宗教的な国かと思いそうになる。そうではないのだ。日本人は宗教に対して地球上で最も無関心な国民である。社会の上流階級には、孔子の弟子で、自らシャドス〔原文siadosu(s)、儒者・儒生のことと思われるが詳細不明。あるいは「自由思想家」に相当する単語か〕すなわち自由思想家と称する者が多くおり、真の宗教とは行為を賢明な理性による戒律と完全に一致させることだと主張している。神道は日本の原始的な宗教だ。この宗教の寺は、偶像が置かれていないのが特徴である。仏教は多くの異なる宗派に分かれている。神道の信者であれ仏教徒であれ、日本の坊主〔原文bonze、この場合は仏教に限らず聖職者一般のことだろう〕は物乞いで暮らしており、階級や権威や名望しか尊敬に値しないと固く信じている人々からは全く相手にされていない。日本人は宗教を二の次にしており、ほとんど宗教心を持っていないにもかかわらず、どうしてこのような美しい宗教建築を残せたのか、不思議に思う。
日光のホテルに到着するやいなや、人力車を降りる前に、パスポートの提示を求められた。実際、わたしたちはもう慣れている。このホテルはヨーロッパ風を謳っている。部屋を仕切る屏風もない。もっとも、日本では、だからどうということはない。わたしたちが浴室に入ると、浴客は、男も女も子どもも、頭を上げてわたしたちに挨拶し、笑いかける、それが全てだ。
翌朝、前日の疲れを癒したあと、わたしたちは日光の寺を訪ねに出発した。お断りしておかねばならないが、短かい旅行記で日光を説明するのは非常に難しい。寺の豪華さ、景観の美しさ。すべての浅浮彫には物語があり、すべての聖遺物には伝説があり、どんなに小さな木の彫物も傑作でないものはない。国籍を問わず、ヒュブナー、リンダウ、ミットフォード、ライン、ボーヴォワール、他にも多くの偉大な旅行家たちが、世界を旅して見たものの中で、日光を最上位に置いた。この任務はわたしの手に余るように思うが、聖なる都市である日光を何とか紹介してみよう。あまりに簡素な説明を、描写で補足する。聖なる橋は年に一度しか巡礼者のために開放されないが、数メートル離れたところに小さな橋があり、それで大谷川と呼ばれる急流を渡って、いくつもの寺へと向かう。聖なる橋の橋脚はそれぞれひとつの石でできている。橋は赤く塗られ、急流の白い水面と、深緑の森の額縁に映えて、不思議な色の組み合わせによって素晴らしい景観を作っている。橋を渡ると壮麗な森に入り、石畳の小道が三仏堂つまり三体の大仏の寺へと続く。それぞれの寺が数え切れないほど多くの小聖堂、礼拝堂、修道院、仏塔で構成されている。高さ35メートルの五重塔には、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚〔猪のことだろう〕という12の象徴的な動物が描かれている。全てが比類ない技術で色づけられ、彫られている。仏塔は1650年に建てられた。2頭の見事な金獅子に挟まれた階段を昇ると、菊、虎、伝説の動物などの彫刻で文字どおり覆われた、ふたりの王の門〔仁王門(表門)のこと〕の前に着く。もう少し進むと、神聖な馬の飼われている非常に素晴らしい馬小屋がある。馬小屋の扉の上には、耳の聞こえない猿、口の利けない猿、目の見えない猿の彫られた、計り知れない価値のある寓話的な板がある。近くには神聖な亀のたくさんいる大きな池があり、とても優雅な屋根が架かっている。124本の頑丈な青銅の柱は有力大名から贈られたものだが、その中に、琉球諸島の大公から贈られた巨大な灯籠〔島津家から贈られた唐銅燈籠のこと〕があり、その左にはオランダから贈られた巨大な灯籠がある。巨木の森が建築の素晴らしさをいっそう引き立てている。陽明門の左右には長い廻廊が伸びており、格子に透かし彫りで子どもや花や鳥が描かれている。右手には、神楽という神聖な踊りに使われる建物がある。白衣の若い尼僧が正座し、俗世の物事から完全に切り離されているかのようだ。わたしたちは小銭を投げる。彼女は彫像のように硬い仕草で立ち上がり、鈴のついた棒を持って三回鳴らし、その場で何度も向きを変え、跪き、額を床に三度つけてわたしたちに感謝を示し、手を叩き、わたしたちに大仏の加護があるよう祈り、わたしたちの投げた小銭には気を留めなかった、小銭を拾うのは坊主だけなのだ、そして再び正座した。素晴らしい建築物に納められた神聖な山車を鑑賞したあと、わたしたちは至聖所である玉垣〔本殿を囲む透塀のこと〕に着く。この寺の豪華さは言葉にできない。内部で最も感嘆するのは、高さ3メートル50、幅2メートルの金で塗られた貴重な鳥や花の絵である。280段の階段を苦労して昇ると、1601年〔正しくは1616年〕に亡くなった、日本で最も有名な立法者であり、1868年の革命まで権力を握っていた徳川幕府の最初の将軍、家康の墓に着く。墓は金と銅の合金で造られている。近くには銅の鸛がいて、嘴に燭台を銜えている。家康の孫である家光は、山の反対側に埋葬されている。金箔や漆や彫刻で飾られた木造建物が、またしても果てしなく続いている。入口には2体の巨大な像がある。緑に塗られた像は風の神、もう一方は全身朱色の雷の神だ。家光の寺の高台からは、青い空、金の屋根、山、湖、川、緑といった、最も美しい景観を眺められる。日光では、言葉で表わせないほどの壮大な印象を受ける。人間の魂は高められると同時に打ちのめされるように感じる。漆の重なり、巨大な屋根、そして永遠に喪に服した木々の見事な額縁を前にすると、圧倒されるばかりだ。
日光には寺だけではない。周囲も美しいのだ。残念ながら、道は非常に険しく、人力車では行けない。移動手段には、「カンゴ」という、非常に小さな楕円形の籠のような拷問器具を使わねばならない。それはふたりの男の肩で支えられた長い横木に吊られている。しゃがむのに慣れている日本人にとってはとても快適だが、ヨーロッパ人にとってはそうではない。わたしたちの駕籠にはそれぞれ8人の担ぎ手が交代でつき、人力車の牽き手と同じくらい陽気である。5時間も駕籠に乗って、わたしたちは大谷川のほとりにある憾満ヶ淵に着いた。泡立つ激流が巨岩の入り乱れる中を流れる。やがて、山のふもとに並んだ大小さまざまな石仏194体と、ひとつ頭抜けた大きな仏像が現われる。曲がりくねって並ぶ石仏は、圧巻であると同時に奇妙でもある。わたしたちが忘れずに駕籠で行ったもうひとつの旅は、華厳の滝だ。高さ105メートルで、かなりの水量である。中禅寺湖から日光の川へと流れこむ唯一の水路だ。
駕籠の痛みも治まったあと、わたしたちは名残惜しく日光を後にし、宇都宮のホテルの前で勇敢な牽き手たちと別れたが、ちょっとした心づけを渡すと喜ばれ、礼を尽くされた。わたしたちは、大して働くわけでもない、そのくせ客に対してそんな敬意を払うこともない、ヨーロッパの御者のことを考えずにはおれなかった。
宇都宮は人口28000人の都市で、とくに見どころはない。日本の都市をひとつでも見れば、他の都市も全て見たのと同じである。日本式の食事のあと、女中がわたしたちの部屋の畳の上に綿の布団を広げ、小さくて心地よくない木製の枕を渡し、蚊帳を張った。夜明けになると、頼んでいないのに、同じ女中たちが紙の扉を外し、蚊帳を降ろす。わたしたちは丸見えの状態で急いで着替える。すぐにわたしたちは列車で東京に戻った。日本の主なホテルは安価だが、主人が少しでも英語を話すと非常に高額な請求が来る。
わたしは横浜駅へと急ぐために東京を通り過ぎ、しばらくしてヴァキエ司令官と握手できた、というのも、その日の夕方に横浜を出発して上海へ向かい、そこでジェムナ号を修繕して、ヨーロッパへ帰る途中に蒸気船を綺麗に掃除する予定だったのだ。翌日、わたしはド・モントルイユ氏と一緒に、横浜の非常に興味深い地域を訪れることにした。最初に散策すべきは間違いなく鎌倉だ。将軍家の古都の寺や、ダイブツという巨大な青銅製の仏像がある。横浜にとっての鎌倉は、ナポリにとってのポンペイである。二都市の距離は40キロメートルだ。鎌倉には、廃墟となった、あるいはもはや何も残っていない洞窟がたくさんある、というのも、日本の寺は、ひとたび燃えたり壊れたりすると、何の痕跡も残らないのだ。この見事に耕作された平原には、かつてそこに20万軒の家が建っていたと示すものは何もない。鎌倉村の主な産業は木面作りである。村を横切ると、すぐに大仏の巨大な頭が見え、さらに進むと、恐ろしいほど静かで神々しい威厳を持った巨像の前に到着する。
仏陀は、足を組んでしゃがみ、瞑想の姿勢で作られている。神前には青銅の蓮の刺さった花瓶が置かれている。わたしが皆さんに描写する大仏は、かつては寺の中にあった。その身体は、まさしくオリンポスの神々のようだ。そこには仏教の神々が多く祀られており、あらゆる場所あらゆる高さに置かれている。
大仏
高さ18メートル
周囲30メートル
顔の大きさ 2メートル56
耳から耳まで 5メートル41
目の長さ 1メートル21
眉の長さ 1メートル27
耳の長さ 2メートル00
鼻の長さ 1メートル14
口の大きさ 0メートル96
指まわり 0メートル91
膝から膝まで 10メートル85
灼熱の日差しにもかかわらず、わたしたちは人力車に乗って江ノ島へ向かって再び出発した。道は素晴らしい。一方には竹や椿の茂みのある田園地帯が広がり、もう一方には美しい森に覆われた小さな島々の連なる海が広がっている。
目の前には、すらっとした輪郭を持つ火山、富士山が、カラシ岬〔原文Kalassi、位置的には小動岬のことと思われる〕と江ノ島の間から蜃気楼のように浮かび上がっている。江ノ島は島でもあり半島でもあり、1日2回、干潮時に露出する砂浜で本土と繋がる。
住民は皆、漁師か宿の主人だ。地面は山がちで、起伏が多く、割目だらけだ。道沿いには礼拝堂が並んでいる。山頂の茶屋からの眺めは見事で、足元には海に突き出た岩があり、散策者の投げる小銭を子どもが集めに行く場所もある。この休息の地にいるのは何と素晴らしいことか! 日本人は自然の美しさを活用する術をよく知っている。しかし時間が迫っており、わたしたちはフジガワ〔原文Fouzigava、位置的には藤沢のことと思われる〕に行かねばならない、そこで人力車を降りて鉄道で横浜に戻るのだ。
日本ほど急速に進歩を遂げた国民は例を見ないと、わたしは思う。わずか30年前は完全な封建制だったのに、今日ではわたしたちとほぼ同じように統治されている。この刷新作業において、いわば各国の国民がそれぞれの役割を担っている。イギリス人は電信、鉄道、灯台の建設を主導した。海軍学校だけでなく、われわれの中央学校〔エコール・サントラル、フランスの工学・技術系エリート養成学校〕を思わせるテクニカル・スクールにも教授を派遣した。大阪に造幣局を建てたのもそうだ。アメリカ人は開拓の実験を、オランダ人は運河建設の実験を主導した。ドイツ人は医学部と多くの冶金工場を指導した。フランス軍は日本軍の指導を担当し、ヨーロッパの軍隊を手本に組織した。東京に陸軍兵器廠を、横浜に近い横須賀に海軍兵器廠を、そして火薬工場や堡塁機構などを設立できたのも、フランスの士官や技術者のおかげだ。日本の法律を、その国が作ったばかりの新しい制度に適合させたのも、フランス人だ。その任務の過程で、ジョルジュ・ブスケ氏と、すぐに加わったもうひとりのフランス人であるボアソナード氏の協力により、現代の日本を最もよく知らしめた作品のひとつが出版された〔1877年に刊行された『今日の日本 Le Japon de nos jours』のこと〕。
日本人、若い日本は、優美で実用的な着物をそのまま着続けるのではなく、横浜の洋服屋で服を仕立てる。異国の料理を食べ、ライン川流域から運ばれてきたドイツビールやシャンパーニュ地方のワインで流し込む。フェルト帽をかぶり、足を痛めるブーツを履く。日本ではもはやハラキリは行なわれていないが、大臣の暗殺が相次いでいる。
他の日本人は、逆に、この潮流に抵抗し、革命を避けている。地方の奥地に住み、悪魔的な革新を呪いながら、自国の習慣や衣装を忠実に守っている。そうした反抗にもかかわらず、進歩は続いており、とりわけ衛生と公教育に関する分野の全てで顕著となっている。
この旅行記を終えるにあたって他に言うべきことはただひとつ、極東への旅を円滑に進めるために親切にも推薦状をくださった地理学会に感謝するのみである。
わたしの思いがけない旅の同行者、ド・モントルイユ氏は、すでにアメリカ経由でヨーロッパへ出発していた。数日後、わたしはメサジュリ・マリティムのヤン・ツェ号〔Yang Tsé〕に乗って、さようなら、また会いましょう、と言いながら、美しい日本と友好的な住民たちに別れを告げたが、何日か後には、中国と中国人のせいで、また日本が懐かしくなった。
(訳:加藤一輝)