グザヴィエ・ド・メーストル「出版者への手紙」
【原題:Lettre à l'éditeur】
【メーストルの存命中に全集を刊行していた出版者のシャルパンティエに宛てた手紙です。メーストルより36歳下の、当時フランスでは無名だったテプフェールを勧める記述が見られるため、追ってシャルパンティエから1841年に刊行された『ジュネーヴ短編集』〔Rodolphe Töpffer, Nouvelles genevoises〕にも序文として収録されました。原典はŒuvres inédites de Xavier de Maistre, Tome 2, 1877を使用しました。()は原註、〔〕は訳註です】
於パリ、1839年4月3日
ご恵送いただいたわたしの著作集の新版見本と同封の親切な手紙を今しがた受け取りましたので、とりいそぎ感謝の気持ちをお伝えします。パリに着いたとき、多くの予期せぬ喜びで、わたしは大いに自尊心をくすぐられるばかりでした、それはあなたがこの小冊子のために打ってくれた素晴らしい広告のためだけでなく、あなたのおかげで新聞ではこの小冊子がフランス文学のうちに重要な位置を占めるかのように書かれているのを見たからでもあります、じつに望外のことです。フランス人でなく、人生の最期になって初めてフランスを訪れたわたしの驚きは、容易に理解できるでしょう。
わたしの最初の随筆『部屋をめぐる旅』がローザンヌで出版されてから40年以上も経ちました。他の作品を著したのはその20年後です。長い年月の間に、わたしはロシアやイタリアで暮らしましたが、自分の作品について耳にしたことなどありませんでした。そう、忘れるだけの時間は過ぎたし、また皆も忘れたものと思っていたのです。だから、わたしからすれば、あなたがしてくださったのはまさしく奇蹟的復活なのです。
わたしの著作集は、もう続きは出ないだろうということで長らく『全集』と題されてきましたが、あまりに薄いから幾らか章を加えてはどうか、と手紙で勧めてくださいましたね。わたしはその予想を喜んで認めました。ふつう才能には多作がつきものであることはよく知っていますし、わたしもその自分にはない特権に与りたいと思うべきところでしたが、しかし他の有名作家たちは何と多作なことでしょう!
それゆえ、またもっと重要な理由が他にも沢山あって、あなたのご期待に沿おうにもできないのです。時間がわたしにのしかかってきます。ちょうど『部屋をめぐる旅』『部屋をめぐる夜の遠征』の概要を広告していただいたところですが、かつてわたしをそれに導いてくれた細い糸を、どうしたら今日ふたたび見つけられるでしょう?もう遅すぎます!あらためて部屋に籠らねばなりません、しかし家の外に用件が多すぎ、落ち着いて家にいることができないのです。それに、もしパリで見聞きしたことを何でも書こうとすると、部屋で書いたのと全く同じ調子にしたら、何巻あっても足りないであろうことは、よくお分かりでしょう。何とも名残惜しく去ることになったナポリや、わたしがパリに着いたとき雨や霧に迎えられたのとは全く対照的な素晴らしいイタリア気候のヴェスヴィオ山について話すほうが簡単でしょう。もう天気はよくなったではないかと仰るでしょうが、しかしパリに滞在できる僅かな時間を執筆に使っていては、ナポリで知り合えてとても嬉しく思った友人たちに、きちんと応えられなくなってしまいます。寛大なるフランス人の方々と知り合うのもまたいつでも嬉しいことですが、それもできなくなってしまうでしょう。
ですから、友情と感謝の義務をできるかぎり果たしたのち、自分の眼福としてパリを縦横無尽に歩き回ったら、もう充分なのです。言うまでもないでしょう?わたしは心ゆくまで遊歩したいのです。ルーヴル美術館にはもう行きました、ノートル=ダムの塔のてっぺんでは眼前にパリの眺望が広がっていました。銅像を倒す嵐にも耐えたほどの威容を誇る大円柱も周りました、像のあったところには立派な人物が立っています、栄光の翼によって自力でそこまで昇ったのです〔ヴァンドーム広場に立つ円柱のこと。もとは1702年に太陽王ルイ14世を称えるために建てられ、頂上に王の騎馬像を載せていたが、フランス革命で破壊されたのち、ナポレオンがオーステルリッツ戦勝記念碑として円柱を建て、頂上に自身の像を据えた。ナポレオン失脚により皇帝像は降ろされたが、七月王政期に再びナポレオン像が載せられた。当時メーストルが見たのはこれだろうが、円柱の上の像のみ代わったものと思っているようだ。その後も政治体制が替わるたびに破壊と再建を繰り返し、いま建っているのは1871年にパリ・コミューンで破壊されたあと第三共和政時代の1875年に再建されたもの〕。わたしにとってパリは、ただ目を開けて見ているだけで楽しんだり学んだりできる巨大な美術館のようです。科学や藝術や産業によって作ることのできる素晴らしいものが何でも眼前に陳列され、向こうから観察者を迎えに来ているかのようです。
本屋の前を通るとき、店に入ったり目録を見せてもらったりする必要はありません。本は整理して並べられ、題名を読むこともできます。本を隠すことなく覆っている透明なガラスさえなければ、手に取ったり開いてみたりもできるのですが。河岸の欄干や橋は本屋で一杯でした。それに、どこもかしこも大きな活字で、先月の名作を埋もれさせる今週の名作を宣伝しているのが目に入ってくるではありませんか?
金の文字で書かれた親切な誘い文句が、どれほど散歩中のわたしを誘惑することか!大通りを歩いていると、どれほど多くの発見があることか!しかし何といっても夜です、煌々と光る商店や喫茶店のひしめく並びに沿って馬車で行きながら、わたしは考えたこともなかった新しい光景を楽しむのです。奢侈と産業の才によって想像しうる、皆を楽しませ役に立つものが何でも、わたしの進むごとに次々と現われてきます。わたしの馬車の窓は、本当の万華鏡、市民生活の豊かさと便利さが高い水準にあることを分からせてくれる驚くべき光景の連続となるのです。あちこちで輝いて目を眩ませる、ガスで輝く千もの太陽の残像は、夜に寝ているときまでわたしを離れません。
もっとも、余すところのない、まさしく自分の趣味に適った楽しみを道すがら味わいたいとき、わたしが好んで探すのは、巨大な記念碑や現代的な発明ではなく、今では存在しない、歴史や旅行記がパリの昔の記録によって伝えてくれたひとやものなのです。そうすると現在に過去を比べ合わせることができます。セヴィニエ夫人の住んでいた道や、謁見に行くラシーヌの通った道を調べるのです。ボワローの家やボシュエの家、わたしに読むことや話すことを教えてくれた全ての大作家たちの家を知りたいのです。
わたしは、かつて美しい社交界のあったマレ地区に迷い込むのが好きです。パンテオンへは行かず、あなたがたの守護聖女でありながら追放された聖ジュヌヴィエーヴの丘の丸屋根を遠くから眺めて楽しむのです〔パンテオンは、もともとパリの守護聖女ジュヌヴィエーヴを祀る聖堂だったが、革命以降はフランスの偉人たちを祀る霊廟となった〕。ヴォルテール河岸を足早に通り過ぎつつ、セーヌ川を眺めます。川の流れに沿って、ようやくブルボン宮殿に着きます。それが国民議会の議事堂――ヴェスヴィオ山です〔喧々諤々の議論を火山に喩えている〕!
ヴェスヴィオ山のことを考えると、わたしは心躍るのを感じ、イタリアの空や、幸せなパルテノペ〔ナポリの古名〕に輝く太陽を見たくなります。忘れなければならないのですが、しかし忘れるためには生きるのを止めねばならないでしょう。ナポリ!ナポリ!歓喜の地よ、ここでわたしの悲しくも最後の別れを受け取ってくれ!――さようなら、永遠に!
雨がぽつぽつと降ってきて散歩の終わりを告げ、黒い雲が遠くから迫ってきます。宿に戻り、わたしを昂奮させていた感興を紛らわすため、ラ・フォンテーヌの寓話をひとつ、小さな声で口ずさみます。
大勢の名士たちの集まる会のひとつに喜んで赴き、夜を過ごすことにします。パリのひとたちは優しいので、すんなりと迎え入れてくれます。しかし女性は集まりに入れてもらえません、女性がいないのでは、政治の話でもするより他に何をするというのでしょう!ここだけの話ですが、わたしはその種の知識には全く向いていないのです、わたしの知り合ったうちで最も辛抱強いひとが、純理派〔doctrinaire:復古王政~七月王政期の穏健な立憲王党派〕とか中道左派〔centre gauche:王政を容認する左派〕とか中庸派〔juste milieu:絶対王政と民主政の間を取ろうとすること〕とか連立〔alliance:これは今でも使う言葉だが、ここでは王政を認めない共和左派とも手を組むこと〕とかいった、わたしがフランスに着いて以来ずっと耳に入ってくる知らない名称の数々が何を意味するのか、苦労して詳しく説明してくださったけれども、全くの徒労でした。そう、何も理解できなかったのです。結局わたしの足りない頭の中で混ぜこぜになっただけで、その混乱ぶりは毎日まさしく国民議会で見られるものと同じくらい支離滅裂なのです。
今日わたしが書きものをできない理由を、もうひとつお話ししましょうか?わたしが若いころに思っていた文学と、目下大衆の人気を集めている作家たちの書く文学とが、あまりに違っていると思うのです。現代の文学はわたしを戸惑わせ、しばしば感嘆させられるけれども理解できないのです。変てこな、わたしには意味の分からない単語や表現が目につきます。わたしがしばらく北国に住んでいる間に、いったい何があったのでしょう?この歳になって新しい言葉づかいを覚えねばならないのでしょうか?そんな気力はありません。
わたしのささやかな作品集に何か加えることはできないと、ご理解いただけたらさいわいです。とはいえ、あなたの親切な申し出にお応えしたいので、手に入れたばかりの本を何冊か送ります、それがわたしの本の続きとなるでしょう。自分の作品を書けない代わりに、ぜひ形にしてほしい作品を紹介するのです。わたしは著者であるジュネーヴのテプフェール氏と面識はなく、ただ作品を楽しく読ませてもらっただけですが、もし出版すれば、あなたも読者の方々もやはり楽しく読めるに違いありません。とくに、おどろおどろしい時代の惨劇〔1839年4月3日という手紙の日付から考えるに、1830年の七月革命か1832年の六月蜂起のこと、あるいは1789年のフランス革命勃発から続く混乱の全体を指しているか〕から数年を経ても後味が消えず、笑いとともに温かい涙を零させてくれるような本を読んで落ち着きたいという読者の方々に、作品を勧めることができるでしょう。
(訳:加藤一輝)
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