学校再開後,早1カ月。
今年度はこれまでと同じが通用する年度ではない。
一つは,もちろん長い休校期間に加え,
「新しい生活様式」に代表される様々な制約の入った学校生活になること。
もう一つは,自分自身が学校を異動して新しい学校文化での挑戦になること。
特に,三校目となる今回は,より俯瞰して学校を捉えられる立場になる。
理想と現実をふまえながら,1カ月間の実践での取り組みをふり返る。
まず,子どもについて。
3年生は2年間担任によりみっちり鍛えられてきた学年である。
新しく学習する教科が増え,子どもたちの興味関心が広がる時期である。
今年読んだ書籍では,3年生時点での読解能力・計算能力で,
将来の学力も決まってくるというアメリカの研究も載っていた。
新しく始まる教科も含め,学ぶ力を形成する大事な学年である。
発達段階としては,
自分中心の世界から徐々に周りへの配慮を考えられるようになる
時期でもあるとともに,やんちゃにもなっていく時期で,
ギャングエイジと呼ばれることもある。
今年度に関しては,
長い休校期間で,これまで身に付けてきた学習習慣も
失っている可能性がある。
長い間,友達と会わなかったこともあり,
交友関係に不安を覚えている子もいるかもしれない。
そのような中で,この1カ月間一番強く感じたことは,
判断規準が「他人」になっていることである。
言い換えるなら,叱られないことや先生に言われたこと,
が大前提になっているということだ。
「先生〇〇してもいいですか?」のオンパレード。
「それ,何の意味があってやっているの?」という行動。
入力されたことのみを反復するロボットのよう,
は少し言い過ぎかもしれないが,
いわゆる産業化時代の学校文化の弊害があちこちに散らばっている。
この子たちの授業にするためには,
まず,自分を回復する必要があると考える。
つまり,自分の行動を適切に選択できるようにすること。
自分の行動に自分で責任を取れるようにすること。
自分の行動をふり返り,適切に説明できるようにすることだ。
そして,友だちのことばに反応できる学習文化を
子どもたちとつくり上げることが,
彼ら自身の学ぶ力に培うことにつながる。
正解を教える授業ではなく,
教室にいるみんなで,
共通了解をつくりあげる授業。
友だちのことばを聞き合い,
互いに響き合い,
切磋琢磨できる授業。
そこに至るまでには,
教師のコーディネート力が最も必要だということを,
前任校で痛感している。
今,探りながら紡いでいることを少し整理したい。
今週収穫があったのは,
子どもたちがめあてをもつ力をもっている事実がわかったことである。
勤務校では,過去3年間の算数科の研究において,
「めあて」「まとめ」「ふり返り」を軸とした授業展開をしていた。
今回,学校全体の評価の研修会を経て,
学年で統一のワークシートを用いて算数授業を行う機会があった。
そのワークシートには「めあて」の枠が一番上に設定されていた。
今年度の個人課題でもあり,
取り組みたいと思いながらここまで実現できていなかったが,
一つチャレンジだと思い,問題文を読み,
めあてを考えることから学習をスタートした。
1時間目から半分以上の子どもたちが,
自分なりのことばでめあてをまとめることができていた。
私自身,めあてをもつことの重要性は理解しているものの,
子どもたちの力を信じきれていなかったことを反省した。
やはり,教育は継続したことが,子どもたちにしみわたっていくのだと思う。
子どもたちのもつ力を信頼し,今の取り組みを続けることを大事にしたい。
また,今週の木曜日には感動体験もあった。
おそらく水曜日の社会科の学習の趣意説明
「たくさんのわからないを見つけられる人・
たくさん自分の考えを書ける人が賢くなれる人です」
に影響されたのだと思うが,
理科のノートでたくさん書く子たちが続出した。
その中には,3年生からの転入生の姿もあった。
朝は声かけしないと提出物が出ない,
みんなが出す提出物を机の中にしまってしまう,
ノートや教科書は個別に声をかけられるまで出さない,
といった転校の影響なのか休校の影響なのかわからないが,
これまで学習に前向きな姿勢が見られなかった子が,
ノート2ページに渡って,2時間の学習をまとめていたのである。
ふり返りジャーナルには,
「ふり返りが書きたすぎて,授業に集中できませんでした」
との記述が。
…何かが違う…
…気はするが,この子に火をつけたものがきっとどこかにある。
その何かを探りながら,来週ももがいていきたい。