クロスワードパズルのように読書する
本を読んでも、どんな内容だったか話せない。おとといの食事と同じで、数日もたてばどんなふうに美味しかったのか思い出せなくなっている。よく考えずよく噛みもせず、読書や食事をしているせいだ。
「必死さが足りないのだよお前は」と心の中でなじりながら、新宿の紀伊國屋書店へ向かった。本屋のドアマットを踏むときはいつも度胸試しのような情けない気持ちになる。
「これはテストだ。今度こそ本当の意味で読書をやりとげなければならない」。
そう言い聞かせながら膝の高さに平積みになっていた本を手に取った。太い帯には『東大・京大で一番読まれた本』と書いてある。
「東大? 京大? それがなんぼのもんじゃい! ついでに芸大もなんぼのもんじゃい!」どこから来るのかよくわからないコンプレックスをムンムンさせながら相当の覚悟を持ってこの本を買った。
それからニュートップスに行ってお茶を飲みながら読もうと思ったら、なんと閉店していた。「青春が消えた」と悲しくなって、どれだけショックか体現するためにビル前にしばらくたたずんでみせたような気がする。
そんなことがあったから、この本を買った2009年の秋の日を今も少しだけ思い出せる。
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2019年になって、この『思考の整理学』を再読した。
本を読んでも身につかないことを相変わらず恥じていたわたしは、読書術や思考術の本ばかり読んでいる。そのうち「身になるまで同じ本を何度も読めばいいんだ」と思い、本棚に残っていたこの本を10年ぶりに開いてみる気になったのだ。
するとどういうことだろう。わたしは『思考の整理学』の内容をほとんど覚えていた。前に読んだときは「この本も身につかなかった」と落ち込んだはずなのに、なぜかスルっと読めた。どうやら頭の中に穴ぼこだらけのクロスワードパズルがあって、潜在意識のなかで解き続けていた感じがする。空欄はもうほとんど埋まっている。
「あっ、それが考えるということか」と思った。
本を読んでも理解できず、説明したり、まとめたり、実践できなくて「まるで身になってない」と落ち込んでも、潜在意識では穴ぼこだらけのクロスワードパズルをずっと解き続けているんだ。
ただし「必死さ」がなければ、潜在意識を後押しできなかっただろうとも思う。
あの日の紀伊國屋書店の空気、書店員の手書きポップ、キャッチーな帯、そのどれもが「お前に売る本はないよ」と言っているような気がした。それでもやっぱり本が読みたい、読めるようになりたい、考えたい、考えられるようになりたい、覚えていたい、覚えていられるようになりたい、という必死さで本を買った。その必死さのおかげでクロスワードパズルが立ち上がり、時間をかけて考え続けることができたのだと思う。
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この本では、「見つめる鍋は煮えない」、「ひとつだけでは、多すぎる」といったたとえを使い、一筋に思い詰めても思考は行き詰るばかりだと説いている。思いつきのアイデアは時間をかけて醸造させ、2つ3つのテーマを競わせながら美味しいカクテルをつくる。そのためのメモ&ノート術も紹介されている。
再読して、新たに立ち上がったクロスワードパズルの欄もある。パズルの答えは必死に考えつつ、必死に考えすぎないようにしたい。
これからはそんな感じでいこうと思う。