タイピングと物語の二極分析(3):認知の物語/行為の物語
の続き。
前回は、オンバランスなタイピングはリアクション的な執筆、オフバランスなタイピングはアクション的な執筆と結びついており、物語としては客観的/主観的であるという説を述べた。
というか飲み会の席で議論したのがだいたいこのへんまでだ。今回の一連の記事は、「その先」を思い付いたので書いている。
つまり、ここからが本題。
今回のテーマは、客観的/主観的に物語を書く作者の、物語そのものの捉え方の違いについて。
それぞれに適した書き方、メディアがあるのではないか、という話だ。
僕がXでポストした内容を受けて、大岡さんに再びまとめていただいた記事を挙げる。
主観と客観が前回とサイドチェンジしているので、先にそこだけ整理しよう。
オンバランス系の書き手は、客観的にキャラクターを観察し、主観的な物語(小説など)を書く。
オフバランス系の書き手は、主観的にキャラクターを演じ、客観的な物語(映画など)を書く。
読者が主観的に読む物語を書くには、作者は客観的になる必要がある。
観客が客観的に観る物語を書くには、作者は主観的になる必要がある。
そういう説だ。
物語の二極分析の前に、メディア特性による物語の違いについて整理するほうがわかりよいと思うので、大岡さんの分析を借りて自分なりにまとめ直す。
演劇と小説
まず、受け手にとってのメディア特性の違いを考えてみよう。
大岡さんは、物語のメディアを以下のように分類した。
(それぞれのメディアで展開される物語の違いではなく、表現技法の違いであることに留意されたい)
主観視点:小説、漫画(特に少女漫画)
客観視点:演劇、実写映像
アニメは微妙で、リクツでは映像なんだから客観視点のはずだが、主観的な物語との相性も悪くないように思われる。これはあとでゆっくり考えたい。
とりあえず、それぞれを小説と(実写)映画に代表してもらおう。
映画では、観客は登場人物の心情や、シーンの持つ意味を直接知り得ない。演技・演出から想像するしかない。
小説では、読者は登場人物の心情や、シーンの持つ意味を直接知り得る。モノローグによる心理描写や、地の文での状況描写があるからだ。
これらはメディア特性の違いであり、それぞれの技法を工夫なく反対側に持ち込んでもうまくいかない。
ここで冒頭の話に戻る。
映画のキャラクターは観客に心情を見せないが、心情がないわけではない。行動には心情が伴っているのだから、脚本家はキャラクターの心情を把握しなければならない。
小説のキャラクターは心情を露にするが、それは他のキャラクターには見えていない。見えない上で反応するのだから、小説家はキャラクターの表情を観察しなければならない。
だから、作者のほうはサイドチェンジする必要がある。
客観的な執筆とはリアクション、主観的な執筆とはアクションであり、タイピングという身体動作にまで影響する、というのが前回の話だった。
このようなメディア特性・表現技法の違いは、当然そこで展開される物語にも影響するはずだ。
認知の物語/行為の物語
僕はそれを、認知/行為の軸で分けるのが適切だと考えている。
小説は認知の物語、映画は行為の物語だ。
(僕が認知(オンバランス)側なので認知ヘビーになるのを断っておく)
とりあえず、主人公の話としておこう。
認知とは、主人公が世界をどう捉えるか。
行為とは、主人公が世界においてなにをするか。
ここで、近年、国内で歴史的大ヒットを飛ばした、対照的な映画を比較してみよう。
『鬼滅の刃 無限列車編』の名台詞といえば、「煉獄さんは負けてない」だと思う。
認知(どう捉えるか)の物語だ。(もちろん、これは原作漫画に由来する)
『シン・ゴジラ』の名台詞といえば、僕は「まずは君が落ち着け」だと思う。
行為(なにをするか)の物語だ。
『鬼滅の刃』においては、最初に
ゆえに、
という煉獄の認知(捉え方)がある。
これは、後の炭治郎と猗窩座の戦いにおいても、
と語り直されている。
このような認知が、柱たちが後輩を守る行為、鬼殺隊が鬼を狩り人を守る行為に繋がっている。
そもそも、炭治郎が禰豆子を守ることを選択したところからして、妹を鬼ではなく人と捉えているからだ。
認知→行為。この順番だ。順番が肝心だ。
逆に『シン・ゴジラ』においては、
のように、国を建て直すという行為、ゴジラを制したという経験が、この国を信じるという認知に繋がっている。
そこに至る過程でも、ゴジラという異様な存在をどう捉えるかということをとりあえずおいといて、矢口たちは悲劇を食い止めるために行動を続ける。その果てに、やっとゴジラを捉え直す機会を得るのだ。
行為→認知の順番だ。逆ではない。
このような物語の違いもまた、メディア特性の違いによっている。
映画はActである、というのは大岡さんが指摘した通りで、映像としてのAct(行動)は、物語としては行為であると言っていいだろう。
(行動ではなく行為とするのは、「どう動く」というより「なにを為す」のほうが、物語としては重要だからだ)
逆に小説や漫画の内話的表現、あるいは比喩的表現は、事物・世界への認知を露にする。
(アニメ版『鬼滅の刃』1話を音を消して観てみて欲しい。義勇さんがただただヤバイ人になる)
小説は認知、映画は行為を軸にする。
しかし、純粋すぎる認知の物語はオナニーに堕す危険を孕み、純粋すぎる行為の物語はレイプに堕す危険を孕む。
物語は両者を併せ持つし、傑作ほどそうだろう。
シン・ゴジラは「人間とこの国を信じる」という話でもあるし、無限列車編は「断固として守るべきものを守る」話でもある。
比重、というよりは軸の違いだ。始発点の違いと言ってもいい。
ここで、認知/行為から始発した物語が、反対側の行為/認知に至る転換に注目して欲しい。
認知に基づく選択が行為を生む。
行為に基づく経験が認知を生む。
つまり選択/経験という軸が存在する。
オタクどもはわかったかもしれないが、これは『ブルーアーカイブ』からの引用だ。
というのは、ブルアカが認知の物語だからだ。
これはかなり露骨なので、先生方にはおわかりいただけるだろう。
認知に基づく選択が行為を生み、世界に干渉する。
しかし、それは認知側の話。行為の物語では、「大事なのは選択ではなく、経験」となる。
行為の物語の境界例といえる作品について、大岡さんが解説している。
後で観ます! すいません!
とりあえず上記記事を元ネタに書いてしまうが、ウィルの行為には明らかに選択が伴っていない。
「自分はこう思うから、こうする」なんてものではない、衝動的な行為だ。
では物語の流れにおいて無意味なのかといえば、それは違う。
行為がもたらす経験が、ウィルを傷付けたり癒したりし、その認知に影響を与える。
主題は認知でありその変容なのかもしれない。つまり比重は認知にあるのかもしれないが、始発点は行為だ。
恐らく、『英国王のスピーチ』も似たところがある。
アルバートの吃音症は明らかに心因性で、つまり認知が行為に悪影響を与えている、といってもいい。
しかし、だから、物語は(アルバートではなく)エリザベスの、ライオネルを招く行為から始まる。
とにかく彼は吃音を治さなくてはならない。そのための行為が出会いをもたらし、出会いが経験をもたらし、経験がアルバートの自己認知を変えていく。
つまり、
小説:認知が行為を生む選択の物語
映画:行為が認知を生む経験の物語
というメディア特性を意識して作品づくりをしなければならない、という話なのだが、同時に、これは書き手のタイプわけでもある。
オンバランス/リアクション型
オフバランス/アクション型
つまり書き手は、
自分のタイプに合ったメディアで
自分のタイプに合った物語を
自分のタイプに合った思考で
自分のタイプに合ったタイピング
することで、よりハッピーに生きられるのではないか。
まとめ
認知の物語と行為の物語がある
小説は認知、映画は行為の物語である
認知は選択、行為は経験によって反対側に越境できる
メディア特性を意識した作品づくりと同時に、書き手のタイプを意識した作品づくりも必要
今回の一連の記事はひとまず終わりだ。
僕は認知/オンバランスの民として、より自分の特性を活かせる活動をしていきたいと思う。
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