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『1%じゃだめなんでしょうか?』それでもインフレ目標は変わらない

前項、前々項で、日本銀行のインフレ目標2%の根拠について、黒田前総裁の説明を一部記した。
https://note.com/catapassed/n/ndfcf360eab4c
https://note.com/catapassed/n/n258d0ac1f3d2

グローバル・スタンダード論やCPIの上方バイアス論は甚だ怪しい。しかし、根拠が怪しくなったからと言って日銀が勝手に目標を取り下げますとは言えない。2013年に公表された政府と日銀の「共同声明」にこう明記されているからだ。

「日本銀行は、物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とする。」
https://www.boj.or.jp/mopo/mpmdeci/mpr_2013/k130122c.pdf

日銀のインフレ目標は政治問題なのである。共同声明が作成された当時、日銀はデフレ脱却を(その正当性はともかく)社会から強く求められており、政府の圧力を受け入れざるを得なかった。共同声明は今も生きており、2%の物価目標を改めるには政府との調整が必要だ。当時のアベノミクス人気は絶大であり、多くの政治家は成功体験を記憶しているだろう。今、共同声明に政府が手を入れるメリットはあまりなさそうに見える。

共同声明から10年以上が経ち、首相は交代し、日銀総裁も代わった。しかし2%のインフレ率という目標だけは日銀に残された。根拠の疑わしさが明白になりつつある今、やるべきことは目標の見直しではなく、根拠の再構築だと考えるのが優秀な役人のあり方だ。

日銀が実施している多角的レビューでは、以下のような分析が提示されている。

  • 正の一般物価インフレ率を保つことが、価格のシグナリング機能を通じて、資源配分を効率化する、あるいは、 企業の前向きな投資行動を後押しする

  • 緩やかな正の一般物価インフレ率のもとで、企業の新陳代謝や効率的な 研究開発投資が促進される

  • 賃金設定の柔軟性を確保することが、賃金のシグナリング機能を高め、 資源配分を効率化し、生産性の上昇に繋がるhttps://www.boj.or.jp/mopo/outline/bpreview/data/bpr240405a2.pdf

一見しただけでは意味が分からない小難しさであるが、要するに、価格を柔軟に変えられる方が、効率的で無駄のない経済が実現できるというような議論である。日本は低インフレが長期化したために価格設定を変更することが難しくなってしまい、値上げすべきものも値上げできず、値下げすべきものもなるべく値下げしないという非効率が生じているのではないかという指摘だ。

植田総裁は、
『価格を上げないことが当然視されると、値上げのハードルは更に高まることになります。マクロ経済学では、企業の価格改定のコストをメニューコストと呼びます。メニューコストの語源は、価格改定時に「値札」を変えるコストということですが、実際に値上げを行うにあたっては、顧客への説明・交渉など様々なコストが生じます。わが国では、価格の据え置きが長期化し値上げのノウハウが喪失されるなどする中で、このメニューコストが著しく大きくなってしまい、本格的に価格が動かなくなった面もあるかもしれません。』
と説明している。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2023/ko231225a.htm

一般に、メニューコストの存在を考慮すれば、価格変動は少ない方が経済全体のメニューコストが最小化される。即ち、物価変動は小さい方が良い、ゼロインフレが望ましい、と考えられる。しかし、経済構造の変化、外的ショックが生じた場合に適切な価格改定が行われなければ、相対価格に歪みが生じ、最適な資源配分が達成されない。これはこれで問題である。

価格を変えなくてよいならば出来るだけその方が良い。しかし、価格を変えなければならないのに変えられないのは望ましくない、ということだ。

今の日銀が提示しているのは、ゼロインフレが長期化することで、必要な価格改定が実施できない状況が生じてしまうのではないか、従って緩やかな正のインフレ率が望ましいのではないか、というロジックである。

こうした理論的可能性にコンセンサスはない。あくまで仮説、可能性である。植田総裁は、
『ここのところ、ここ 1年くらいですかね、0%のインフレ率の状態から 2%に移ること自体が多少なりとも生産性上昇に寄与するような効果をもたらす可能性があるという立論をところどころでしておりますが、これがご質問にありましたように、経済学でものすごいきちっと裏付けられた話かどうかについては、必ずしもまだ何とも言えないと思いますが、仮説の段階にとどまっている面があると思います。』
と、述べている。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240617a.pdf

確かに、日本のCPIの構成品目別分布を見ると、特にコロナ前の時期、価格変化が0%付近に集中する傾向が見られた。

出所:日本銀行 安達審議委員 金融経済懇談会(2023年6月20日)

ただし、これが価格を動かすべきなのに動かせない状況が生じていた証左だとは断言できない。価格を動かす必要がなかったから動かさなかっただけかもしれない。また、仮に価格を動かせない状況にあったとしても、それが低インフレの継続によるものだったのか、それとも低インフレの継続とは無関係だったのか、それも分からない。

妥当性を実証するのは容易ではなさそうだ。同様に、妥当ではないと実証することもおそらく難しい。ロジックのすり替えが密かに、そして円滑に進んでいる。

しかしやはり改めて問いたい。あくまで2%というインフレ率の持続的、安定的達成を目指すという姿勢が、本当に必要なのだろうか。

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