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わたし王国ができる前

子どもの頃は、早く大人になりたかった。進級しても進学しても延々と終わりなく続く学校通いは好きになれなかったし、なにより自分の意思で環境やら行動を変えることができない、無力な日々に飽き飽きしていた。着るものも、食べるものも、行く場所も、会う人も、何もかもすべて自分で決めたかった。まあ列挙したことの半分くらいの裁量は子ども時代にも与えられていただろうけれど、とにかく誰かに迷惑を掛けない範囲において、何者にも干渉されることなく過ごしたい。鳥籠の中で、外の世界を眺めては果てしなく広がる空のことを想像してみるような、もどかしい思いを抱いていた。

実際、大人になってみて、「子どもの頃に戻りたいか?」と訊かれると、やはり答えは否。日々の大半の時間を仕事と育児、諸々の雑事に費やすことになろうとも、もっと余裕があったあの頃のことを懐かしく思い出したりはしない。自分の足で立って稼ぎ、納得のいく人生の歩み方に悩んでいる方が、ずっと生きている実感がある。また同時に、誰の顔色も伺わず、思ったことをはっきりと表現できる精神的な自由があることに安堵している。わたしは血の繋がりというものの尊さのようなものをあまり信じていなくて、その理由は自分の生まれた家で、わたしは「自分」でいられなかったから。とはいえ、ある時までは自分を抑圧しているということに気付かないくらい、ごく当たり前に「窮屈な服」を着こなしていた。

たくさんの本を読んだ。日常は思いのままにならないけれど、小説の中には別の世界が広がっていて、何か嫌なことがあった日もページをめくってワープすることができるから。教室でひとりぼっちの時も、家庭の中が不和な時も、わたしはずっと本を傍らにやり過ごしてきた。本がなければーー現実から片時も離れることができなければーー多分、わたしは今も虚に、鳥籠から羽ばたくという選択肢を知らぬまま生きていただろうと思う。物語は、たくさんの平凡な、あるいは数奇な人生や生活に満ち溢れていて、誰とも話をしない1日でも、他人の心の内を垣間見ることでずいぶんとたくさんの言葉を交わしたようで、お腹いっぱいになった。そのせいか、今でも人と話をするよりも、書き言葉をやりとりする方がより相手のことを親密に感じられ、自身も率直に心中を吐露できる気がしている。

自分の線にしっくりと馴染む衣服があると知ったとき、わたしはもう無理に窮屈な服に身を包むことはできなくなってしまった。無意識ながら、他人の機嫌を害さないように、自分の気持ちを押し殺してしまうような生き方をおぼえてしまっていたから、肌に触れる新しい服の質感やかろやかさには、しばらく慣れなかった。レディボーデンのファミリーパックをつつきながら一晩中映画を観て、朝からお風呂でお酒を呑んで、時には恋人とずっと部屋に篭って、物を書いたり身体をくっつけあったり、お腹がすいたらつっかけでラーメンを食べに行くような。自堕落といえばそれまでだけれど、心をほどき、社会との繋がり方を試行錯誤したリハビリ期間があったから、時にあやういながらも何とか現実にしがみついて生きてこられたのだと思う。

今になってようやく、自分が子どもの頃に見上げていた大人たちも、実はそんなに達観していなくて、失敗したり、小さなことにくよくよしたり、やぶれかぶれになったりすることもあったのかもしれないと、少し寛容な気持ちに持てるようになった。幸いながら、子どもはわたしの気質には似ず、毎朝の学校や夕刻のおにごっこを生きがいとしているので、「無理しなくていいよ」と声を掛ける機会には一度も遭遇していないのではあるが。それでも、いつか何かに悩んだり、迷ったりしたときのために、わたしよりも随分と人生経験豊富で、丁度良い距離感を保って側に寄り添ってくれるーー本たちを、子ども部屋にたくさん積み重ねている。子どもとしての日々も、なかなか悪くないよと言ってもらえれば、脱皮する前のわたしも希望を持てただろうと思う。

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