「脳脊髄液減少症」闘病記
すこし前に、Xのトレンドに「脳脊髄液減少症」という病名があがった。
女優の米倉涼子さんがかかってしまったという病気の名だ。
「ああ、去年も記事で読んだけど、そうか、治療後も寝たきりになられてたんだな……。恐ろしかっただろうな」
深く感情移入をしてしまったのは、私自身が昔、この病気にかかったことがあったからだ。
2008年のこと。
二十代だった私は、お医者さんからいきなり告げられた「脳脊髄液減少症」の病名にとても戸惑った。
「聞いたことがない……今後いったいどうなるの?」
そこで、即入院が決まった私が真っ先にやったのは「この病気について知ること」だった。
病院のベッドに横たわり、ガラケーでネットをあさりまくった。
そして、小さな画面のなかに、個人ブログの闘病記を見つけた。
このブログに、どれだけ不安な心を支えてもらったろう……。
闘病記は、同じ病気を患い、不安に駆られているひとの心の支えになることもある――。
そこで私も、個人の体験談として「脳脊髄液減少症闘病記」をnoteに掲載しておこうと思う。
かつての私のように不安に駆られているあなたのために。
(とても長い話になるので、どうぞぼちぼちとお読みください)
初期症状~猛烈な背中の痛みと吐き気~
それは、2008年6月下旬に起こった。
当時は、二十代無職。
半人前もいいところだった私を、きちんとした社会人に育てあげてくれた国際協力団体を辞めてしばらくのこと。
次の仕事を見つけるまでのあいだ、人生のリフレッシュ休暇と称し、ずっと憧れていた「帆船セイルトレーニング」に挑戦することにした。
その体験記は別の機会に譲るとして……小笠原諸島までの二週間の大航海を終えた私は、帰港地である「大阪南港」に到着した。
神戸で観光をしているときだ。
強い背中の痛みを覚えた。
やがて、頭痛、吐き気までが襲いかかってきた。
「ああ、偏頭痛か……」
中学生時代からの偏頭痛持ちだった私が、真っ先に思ったのはこれだ。
いつもよりも痛みが「強烈」だったことを除けば、症状は偏頭痛そのもの。
「航海の疲れが出たんだろう。神戸観光はあきらめて、帰ろう」
新幹線の切符を買い、ほとんど気を失うようにして眠り、東京都世田谷区の自宅に帰った。
このときは、まだ「ああ、疲れたけど、面白い旅だったなあ」なんてのんきに思っていた。
悪化~ふたたび襲いかかる頭痛と吐き気~
帰宅して数日後、前職の総会に招かれた。
退職のご挨拶をしていない方もおり、「おいで」と言っていただけたこともあって、遠方の会場まで足を運んだ。
総会が終わり、場所を移しての懇親会になったときだ。
首から頭にかけて違和感をおぼえた。いったんは鎮まっていたあの痛みが、蘇りはじめたのだ。
「偏頭痛め。神戸の観光を台無しにしてくるどころか、懇親の場まで邪魔してくるのか、こいつは」
偏頭痛は、長年の宿敵だ。
「閃輝暗点」と呼ばれるタイプの頭痛で、発症したての中学生時代には「外に出かけたくない」と引きこもり状態にまでさせられた。
頭痛だけなら耐えられる。厄介なのは、吐き気だ。外でこれに見舞われると「吐いてはいけない」という恐怖と戦うはめになる。
偏頭痛の症状は大人になってからはぐっと軽くなったが、今回の症状は中学生時代を軽く超えるものだった。
どうにか懇親会を乗りきり、理事の一人と電車に乗って、ガタンゴトン。
お喋りしながらも、すごい勢いで血の気が引いていく。
気が遠くなる。頭は鈍い痛み、首はバキバキ。腕で顔を拭うと、汗でぐっしょりと濡れていた。
素直に「具合が悪い」と言えばいいものの、つい隠してしまうのは昔からの悪い癖だ。「迷惑をかけたくない」という思いが強すぎて、ひとを頼ることができない。
理事が先に下車した。次の駅で耐えられなくなり、トイレに駆けこんだ。
何度も嘔吐し、ほとんど気絶状態。
それでも立てるまで回復し、一時間以上かけて自宅へと帰りついた。
「久々に強烈な偏頭痛がきたな。そういえば、小笠原までの航海で、背中もずいぶん凝ってたしな……」
思いだすのは、小笠原諸島までの航海のさなかのことだ。
乗船した帆船は、比較的ちいさめの帆船だ。航海中は、狭いボンク(ベッド)で眠る。体を存分に伸ばして寝ることができなかった。
加えて、ロープを引いたり、帆を開くために帆柱に登ったり……普段は使わない筋肉を使ったことで、首と肩に凝りがきてしまっていた。
だから、こう考えた。「凝りが引き金となり、血行が悪くなって、偏頭痛を起こしてしまったのだろう」と。
自己判断というのは、だいたい悪い方向にしかいかないものだ。
「整体にいく」という愚策
どれだけ日数が経っても、吐き気と頭痛はおさまらなかった。
身動きがとれなくなり、ひたすらベッドに横になり、うだうだとすごす。
「このまま死んだら、誰が発見してくれるんだろう」
ひとり暮らし特有の恐怖に見舞われた。
このままじゃいけない。そう思い、多少動きのとれた日に、近所の整体に行くことにした。整体は初めてだったので、ゴキゴキ言うようなやつじゃなくて、マッサージ感覚で骨盤矯正してくれるところを選んだ。
一時間の全身コース。5000円。
高いよ、高いよー! 無職にはきつすぎる出費だ。
でも、体調と金なら、私は体調を取る!
というわけで、一時間たっぷり、パキポキしていただいた。結果、だいぶ楽になった。
施術後は、久々にまともな食事をとることができた。ラーメンと餃子だ。むふふ。「消化にいいものを食べなさいよ」と罵倒してくる内なる己の声を無視し、ひたすらエネルギーを貪る。
施術してくださった方の話だと「背骨が歪んでいる」とのことだった。もしかしたら、それが原因かもしれない。施術後、軽く頭痛があったため、食事を終えるとすぐに帰宅したが、数日ぶりに外に出られただけでも成果だ。
体が軽かった。首を回すことが怖かったのだが、それも楽にできるようになった。それまでは、首を回すと攣ってしまい、一気に頭痛と吐き気が来てしまっていたのだ。
ありがとう、整体。
感謝を捧げた十日後、体調は急激に悪化した。
「ハイッ、お大事に!」
ベッドから起きあがることができない。
横になったまま、いっさい動けなくなってしまった。
物理的に動けない、という意味ではない。横になっているかぎりは元気なのに、起きあがった途端、吐き気、めまい、耳鳴り、頭痛、肩や首が痛むなど、さまざまな症状に襲われてしまうようになったのだ。
どうも肩凝りだとか、背中の凝りだとか、偏頭痛だとか、そんな単純な話ではなさそうだ……ここまできて、ようやく実感した。
「病院に行こう。でも、これってなんだろう。内科かな、整形外科かな」
這うようにして、近所の整形外科に行ってみた。
「うーん。ストレートネックですねえ。パソコンよく使う? あー、原因はそれでしょう。何時に寝てるの? 夜中? だめだよ、10時には寝ないと。ハイッ、お大事に」
その整形外科の院長先生がストレートネックの研究者であったようで、ずいぶんストレートネックを強調された。実際、レントゲンを撮ると、私の首はまっすぐだった。
だが、もしストレートネックであるなら、一朝一夕では治らないのではないか。途方に暮れるなか、さらに状態は悪化していく。
洗濯物すらできず、洗濯物は突っこんだ洗濯機からもあふれるほどになった。
ゴミ捨てにも行けず、放置しっぱなしのゴミから虫が飛びはじめてしまった。さすがにすぐに捨てにいったが、「ゴミを捨てにいく」、それがこのときの私にできるギリギリの行動だった。
もう一度、整形外科に行った。
そのときには、徒歩五分の距離が途方もなく遠くなっていた。
一歩一歩と歩き、病院に到着するなり「寝かせてください」と頼んで、待合室のソファで横にならせてもらった。
「うーん。まだだめなの。そう。まあ、ストレートネックはね。……え、耳鳴り? ストレートネックや偏頭痛では、耳鳴りは起きないよ。あ、じゃあ耳鼻科かなあ。とりあえず、国立病院の耳鼻科に行ってください。紹介状、出します。ハイッ、お大事に」
ぱんっ、と手を打ちならされる。
匙を投げられるとはこのことかと思うほど、あっさりと別れを告げられた。
結果的に、お医者さんのこの判断が、治癒に導いてくれたのだが……ともあれ、私は世田谷区ではかなり大きな国立病院の耳鼻咽喉科に行くことになった。
国立病院の中をぐるぐる
「耳鳴り、眩暈、頭痛、体の痛みですか……。症状がたくさんありますね。もしかしたら、複数の病気が複雑に絡みあっているのかも」
耳鼻咽喉科の先生はそう言った。
眩暈と耳鳴りを組みあわせるなら、メニエール病かもしれない。
眩暈と頭痛、吐き気を組みあわせるなら、緊張型頭痛かもしれない。
病名の候補は山のようにあり、出ている症状をパズルよろしく組みたてて仮の診断をくだし、検査をする。
結果、耳鼻咽喉科を主治医としつつ、あちこちの科へと回されることになった。
だが、どのお医者さんも「なんだろう?」と首をかしげる。
ともかく、明確な原因がわからない以上、消去法でいくしかない。
まずは、突発性難聴「メニエール病」と、急性低音なんらたらなんたら難聴、耳管開放症あたりと仮定し、薬を飲みまくることになった。
「もし薬がきかなければ、これ以外の病気である」という診断になる。
薬がまた変な味だった。粉末、錠剤、液体の三種なのだが、液体がまるでみかんを食べたあとに吐いたときのゲロの味――失礼しました。
もはや一人では生活できないため、都内在住の祖母の介護のために、たまたま近くに仮住まいしていた母に回収された。
久しぶりに家族のありがたみを実感した。なにせ母に救助される前の最後の五日間は地獄だった。食料がないのに、買い出しにもいけない。たったの五日間で、4キロも痩せてしまったのだ。
寝たきりの間にしていたことと、ささやかな目標
母が仮住まいしているマンションの一室で、寝たきり生活が始まった。
当時、ひたすら寝転がってなにをしていたかというと、読書やラジオを楽しみ、ニンテンドーDSで「レイトン教授」シリーズをやり、あるいは公募に投稿する小説のネタを考えていた。
このとき、自分のなかで毎日の目標をいくつか決めた。
一、筋肉量キープのため、一日15分は立ちあがった状態でいること
二、飯を食って体重を戻すこと
三、薬を欠かさず飲むこと
すこし調子がよくなってくると、もうひとつ、目標を加えた。
四、食べたあとの皿は、自分で洗うこと
人生のなにがしかを悟ってしまいそうな生活だ。家族の支えや、友人の日々の励ましメールがあって、どうにか元気でいられることを実感する。
学校に通ったり、社会に生きていたりすると、努力をしなくちゃいけないことが山のようにある。それが、時には大きなストレスになったりもする。
けれど、生きる上で努力すべきなのは、家族や友人との関係を大切にするぐらいで、あとのことは、してもしなくてもいい努力なのかもしれない。少なくとも、ストレスを抱えてまで、がんばることではないのかもなあ……。
なんてことを、暇に飽かして思ったりした。
そんな人生哲学めいたことを考えはじめてから、約一か月後の真夏。
ついに病名が判明した。
「至急、病院に戻ってください」
総合内科で診察を受けたときのことだ。
「まあ、偏頭痛でしょうね」
お医者さんの言葉に、私は絶望しかけた。
振りだしに戻ってしまった。初手で自分自身が「まあ、偏頭痛だろう」と思ったからこそ病院に行くのが遅れ、ここまで悪化してしまったというのに。
断言できる。ぜったいに偏頭痛ではない。
少なくとも、私の知る偏頭痛とはちがう。
「偏頭痛持ちですが、これは偏頭痛とはなにか違うんです」
私は食い下がった。こちらがきちんと症状や違和感を説明できないかぎり、お医者さんだって診断できない。意見があるなら、きちんと言わなければ。
「そうですか? うーん。……じゃあ、念のため、MRI撮ってみます?」
「お願いします」
前のめりでお願いした。
けれど、お医者さんの軽い口調もあって、あまり期待はしていなかった。
だが、その「念のため」で撮影した脳のMRIに、まさしく写りこんでいたのだ。私を苦しめてきたモノの正体が。
「念のため」の撮影だったから、撮影後はすぐに病院を離れた。
この日は調子がよかった。久しぶりに近所の本屋に寄り、大喜びで漫画を選んだ。すると精算前、病院からガラケーに電話がかかってきた。
「至急、病院に戻ってください。初見で異常が見られまして……もしかしたらそのまま入院の可能性もあります」
血の気が引いた。なにせ撮影したのは「脳」なのだ。
電話を切ってすぐ、付き添ってくれていた母に「すぐ病院に戻れって」と伝えた。母は私の顔を見て、びっくりして言った。
「唇、紫だよ」
表面的には冷静なつもりだったが、動揺は唇の色となって表れていた。
そして、その日のうちに入院となった。
MRI画像に映っていたもの――それは脳の血腫だった。
痛い検査と、下される診断
入院してからは、経験したことのない種類の検査がつづいた。
この検査、痛い。腰椎に太い針を刺し、髄液を採取するという検査だ。
いや、痛いというよりも……神経の束を他人にぎゅっと素手で握られているような、本能的な恐怖をともなった、真っ白な痛みなのだ。
数日に及んだ検査の結果、脳神経外科のお医者さんがくだした病名は、「低髄圧症候群」。「脳脊髄液減少症」と言われることも多い病名だ。(追記:近年では「脳脊髄液漏出症」という呼び方も使うようです)
本来、頭蓋骨のなかには髄液があり、脳みそはその中にぷかぷか浮かんでいる状態。それがなんらかの原因で、腰、首、頭蓋のどこかしらに亀裂が入り、体をめぐっている髄液が漏れてしまう、という病気らしい。
髄液が漏れることによって、普段は髄液の中をぷかぷか浮いている脳みそが「ズドンッ」と頭蓋骨の底に落下する。その影響で、頭蓋内に血があふれ、血腫ができ、脳を圧迫する。さらには、脊髄内をめぐっていた髄液もなくなり、全身にさまざまな支障をきたす……ということのようだ。
(これは2008年当時、お医者さんがわかりやすいようにと説明してくださった内容を、自分なりに解釈しなおしたものです。素人説明は危険なので、ちゃんとしたことは下記をご参照ください)
血腫と聞いたときには、「腫瘍?」「頭蓋骨を開くのかな?」と怖い想像をたくさんしたが、どうやらそういうものとも違うらしい。
未知の病名に対する恐怖はあったものの、まず私が感じたのは、
病名がわかってよかった。
これでやっと治療ができる。
ということだった。
今まではなにがなんだかわからなかった。わからないということが、いちばん怖い。わかってしまえば、カラクリがわかる。カラクリがわかれば、治療法もきっとある。
もちろん、そんな単純な話ではない。治療法がないこともたくさんある。ただ、「わからない」から一歩前進したことは、このときの私に大きな安心感を与えてくれた。
第一の治療「安静臥床」
治療方法は、初期段階では「安静臥床」ということになった。
つまり、ひたすら寝る!
「横になっているだけで、自己治癒するという人も多いです」
トイレ、ご飯以外は起きてはいけない、と言われた。
もちろん、起きようにも、つらくて起きられないのだけど。
ただ、ここに至るまでの三週間強、家でずっと横になっていたが、状況はさほど変わってはいない。あまり効果は期待できない。
……いや、そうでもないか。毎日の目標に「一日十五分は立ったままでいる」とか「皿洗いをがんばる」とか、勝手に決めていた記憶がある。自己判断ほど恐ろしいものはないと痛感する。……あれ、しかも病院に行く前、整体に行かなかったっけ……思いだすと震えが走る。
私の場合、「横になっているかぎりは」元気だ。
本来、髄液の中に浮かんでいる脳みそが、今は裸も同然の状態。私が立ったり、動いたりするたび、頭蓋骨の底に落下した脳みそが、ゴロンゴロンと転がり、己を傷つけてまわっている状態なのだ。
横になっているということは、脳みそを安定させるということ。横になっている分には体調がいいが、立ち上がった瞬間、めまい、吐き気、耳鳴り、頭痛、肩こりに首の痛みなどの症状が出る。だが、横になると、五分以内に回復する……。
「安静臥床」をしているあいだに、髄液が漏れているだろう箇所にあいた亀裂が自然にふさがり、ふたたび頭蓋骨内が髄液で満たされる……そうなれば、万事解決、ということらしい。
寝ているかぎりは元気な私がいま戦うべき相手は「退屈」だ。
大好きな夏は窓の向こうにすぎさっていく。
それにしても、その髄液が漏れている「亀裂」とやらは、いったいいつできたのだろう?
ガラケーで調べてみたかぎり、普通、この「脳脊髄液減少症」は交通事故が遠因となって起こることが多いようだ。
つまり、怪我だ。体が受けた衝撃によって、髄液の通り道のどこかに、亀裂が入る。そこから髄液が漏れ出る……ということのようだ。
「船かなあ。みんなで船上綱引きしたとき、尻もちついたけど」
それぐらいしか思いつかない。
けれど、尻もちで? 交通事故ほどの衝撃が?
2008年当時、日本ではようやく「脳脊髄液減少症」が認知されはじめたころだった。
むち打ち症と診断される、保険が適用されない、なまけ病と言われる……心ない扱いを受けた時代を経て、「いや、実はそうではないのだ」と認知されはじめた――ちょうどその境目あたり。
原因も「交通事故」と言われることが多かったが、「そうでないケースもあるけど、よくわかってないんです」とお医者さん。
そんな私はベッドに横になって、ニンテンドーDSでひたすら「レイトン教授」シリーズで謎解きに明け暮れる。
帆船の旅によって、すっかり日に焼けていた私は、看護士さんたちから毎度「いかにも健康そうだよね」と笑われるのだった。
「縦になるな」
点滴、そしてひたすら安静臥床の日々。
やはり効果が出ず、ついには今までは許可の出ていた食事とトイレ、たまのシャワーにまで「縦になるな」司令が出てしまった。
横になったまま食事をしろ、と?
横になったままで、いかに快適生活を営むか……研究を重ねる日々がはじまった。
横になったまま、歯磨き。(結構つらい)
横になったまま、みそ汁を飲みほす。(吹きそうになる)
横になったまま、バナナを食う。(皮がべろーんて顔にかかる)
目下もっともつらいのは、髪のかゆみだ。たまにできていたシャワーまで禁じられ、いよいよ耐えがたくなってきた。「洗わないシャンプー」を使うのにも限界がある。
ついには母に「寝転がったままの私の散髪を頼める?」と請うた。創意工夫が大好きな母は「やるか」と意気揚々と了承してくれた。
寝たままの散髪で、髪形はひどい状態になったが、一気に頭が軽くなって気分も爽快だ。
事前に話していなかったので、看護師さんには「ぇえ!?」と驚かれた。
第二の治療「ブラッドパッチ治療」
三週間の安静臥床は、まったく効果がないままに終わった。
治療はいよいよ次の段階に入る。
治療の手段はいろいろあるが、もっとも効果があるのは「髄液が漏れている箇所を探しだし、塞ぐ」というものだ。
私は3、4回のCTとMRIなどを経ても、漏えい個所を見つけることができなかった。
この検査がまた痛い。腰椎に太い針を刺し、そこから直接薬を流しこんで、それを画像に映しだし、薬が漏れている箇所を探すという検査だ。麻酔はするのだが、それでも痛い!
何回やってもなお、漏えい個所がわからなかったときには絶望した。
結局、最後まで漏えい個所はわからなかったが、可能性が高いのは「首」だと言われた。
「なんとなく……白いもやが映っている……気がするんだよねえ」
お医者さんも確証が持てないまま、どこかにあるだろう亀裂を塞ぐため「BP(ブラッドパッチ)」という手術を実施することになった。
自分の新鮮な血液を、腰椎に刺したチューブから流し入れ、亀裂を血液の凝固によって塞ぐ――つまり、血(ブラッド)で継ぎはぎ(パッチ)をするのだ。
漏えい箇所がわからないため、一かばちかの勝負だった。
だが、これが見事に成功した。
一度目は失敗だったのだが(チューブが刺さらなかった)、二回目で成功。
一時間半の手術だった。
治療は全身麻酔ではなく、局所麻酔だ。危険の多い治療なので、患者に「手足のしびれはないか」と問いながらの手術となる。
緊張する私を見てか、看護師さんやお医者さんは、ドラマによく出てくる強烈な照明を「サービスです」と言ってつけてくれた。
「これもサービスです」と呼吸器をつけられたり……ユーモアあふれる皆さんにどれだけ救われたことだろう。
そして、このブラッドパッチ治療もやっぱり痛かった。
ただ、腕からとった血液をすぐさま背中から戻しいれる作業はなんだか笑えた。
術後、熱を出したり、全身が痛くなったりと、不安定な状態はすこし続いたものの、それでも飛躍的に回復した。なんと手術直後には身を起こしても症状が出ないまでに回復していたのだ。
そして、7月26日。
突然、退院が決まった。
突然の退院と、後遺症
自由の空だーー!!
退院後、晴れわたる青空を眩しく見上げ、そう思った。
いや、全身で喜べるほどには体調はよくなかったが、自由の身となった。
じつは秋までは退院は無理かなと覚悟を決めていたのだが、予想よりも早い退院で、私だけでなく、家族全員が驚いていた。
なにせ退院の前日まで、お医者さんからは退院のたの字もなかったのだから。
退院前日の会話。
医者「(いきなり現れ)退院する?」
私「……はい!? え?」
医者「治療もうまくいったようだし、退院したいなら……」
私「え、っと、検査とかはしなくていいんですか?」
医者「まあ……外来でいいかな。入院していたいなら週末まではいいけど」
私「(いいけど、て)。えーと、いつ退院していいんですかね」
医者「いつでも」
私「おお……親と相談します」
このお医者さんが終始「ぬそーっ」とした方で、非常にとらえどころのなく、いつもすべてが唐突だった。すっかり慣れたつもりでいたが、久々に動揺してしまった。
そして、あっさりと退院となったのだ。
退院後も、耳鳴りがしたり、吐き気がしたり、頭痛がたまにしたり、強烈な腰痛があったり、と微妙な症状は残っていた。
それもだんだんと消えてはいったが、あとの数年間は「重いものを持つと耳鳴りがし、気が遠くなる」という謎の後遺症に悩まされた。
さらに数年後、まったく別の病気で同じ病院を訪れた際、べつの科のお医者さんに謎の後遺症について話すと、「腰椎穿刺の後遺症かもね」と言われた。つまり、治療がもたらした後遺症かもしれない、というのだ。
体の中枢に、太い針を刺したのだ。なにも影響がないと考えるほうがおかしいのかもしれない。
ただこの後遺症も、およそ五年ほどで、気づいたら消えてなくなっていた。
結びにかえて
再発の恐れもある病気だ。
そもそも、脳脊髄液減少症になった原因がはっきりとしない。
おそらくは船上でついた尻もちだろうが、医者からは「わからないから、もう帆船禁止」と言われた。
その後もたとえば、知人から冗談半分に「元気にしてるか!」なんて背中を叩かれるだけで、内心ハラハラしていた。衝撃を受け、再発することが、ともかく怖かった。
「ブラッドパッチ治療」は何回もできない。危険だからだ。そして、効果が出ないこともある。今後、病気の認知がさらに進み、より効果的な治療法が確立されることを切に望む。
私自身の体験としては、「まずは診断がくだるまでが大変」ということ。
発見のためには大きな病院に行くこと。この病気に詳しくないお医者さんも多いので、自分自身がまず症状をよく理解し、お医者さんが診断しやすいよう、症状を語れるようにしておくこと。
専門の病院もある。ただし、予約をとるのがかなり大変なので、なんにせよまずは近くの大きな病院に行って、助けを求めるなど、「はやめに行動する」ことが大事だと感じた。
交通事故などで「むち打ち症」と診断されたけど、なかなか治らない……。あるいは、寝ていると楽だけど、立つといろいろな症状に襲われる、と悩んでいる方は「脳脊髄液減少症かも?」と疑ってみてください。
また、身近にこの病気で苦しまれている方がいたら、どうかそっと寄りそってあげてください。「寝ている分には楽」という状況は、周囲から「なまけてる」と誤解をされやすく、また、そのことで誰よりも苦しんでいるのは当人です。十分すぎるほど、がんばっているのです。
以上が、私の「脳脊髄液減少症闘病記」です。
2008年当時の記録を起こしたもののため、現在では病気の解釈、治療法などが変わってきている可能性もあるので、くれぐれもご注意ください。
このnoteが、いつか誰かの不安をやわらげる記事となれますように。
余談。
病院でバッサリ切った髪の毛ですが、退院後、通いの美容室に行き、「なんとかできますか」と言ったら、「うーん。ベリーショートにするにしても厳しいな。女性向け雑誌じゃなくて、男性向けの雑誌から、やりたい髪形を選んでくれる?」と言われました。えぇ……。