エッセイ|心象の街に焦がれる
どういうわけか、坂の街を見ると、心の奥がうずく。
うずく、という表現が正しいかどうかわからない。
ときめく、とか、わくわくする、だとかいう言葉でも正しい気がする。
心の深い深いところ、普段は眠っているようなところが、ふいに目を覚まして、なにかに感動している……そんな感じ。
その「心のうずき」は、とてもかすかで、それでいて爽やかな風をともなって、心のなかに吹きあれる。
――思いだして、とだれかが言っている。
その感覚は、小さいころからあったように思う。
坂道を見ると心が浮きたち、とくに丘の斜面に築かれた街を遠くから発見したときには、わけもなくときめいた。
旅に出たくなるような、長い旅から帰ってきたような、安堵感をともなったそれは、「心象風景」というものなのではないかと思う。
心象風景……
それは、心に刻みこまれた風景。
現実ではなく、感覚や体験が生みだす、想像上の景色。
坂の街を見たとき、脳の片隅にはいつも、どこともわからない、西洋風の街並みが浮かびあがってくる。
深い緑の森を抜けると、ふいに視界が開け、谷をはさんで向かい側の丘の斜面に、赤い屋根の家々が上下に連なっているのだ。
煙突からは、煙。
まだ遠く、人の声は聞こえない。
けれど、あたたかな光景だ。疲れきった旅人を、そっと包みこんでくれるような、「いらっしゃい」とも「おかえりなさい」とも言ってくれているような優しい景色。
いったいどうして、私の胸にはこんな心象風景があるのだろう。
街を歩いているとき、ふと視界の隅に坂や階段が見えたとき、おもわず足を止めてしまう。
誰もが行きすぎる、なんてことはない景色なのに、視界の端に映った瞬間どうしようもなく心がひっぱられ、呆然とその光景を眺めてしまう。
ああ……。
言葉は出てこない。
ああ……、と、ただ感動する。
たまたま一緒にいた友人や家族などは、いきなり足を止めてぽかんとするわたしを見て、「猫でもいた?」とか「なにがあるの?」と不思議そうにする。
答えたい。
これがどれほどすごい景色なのかを伝えたい。
けれど、伝えようとすればするほど、胸のなかにわきあがった感動は煙のように消えていき、いったい自分がなにに感激したのかすらわからなくなる。
前世とやらで、坂の街に住んでいたのだろうか。
いや、私の心がうずくのは、遠くから、あるいは一歩離れた位置から、坂の街を見たときだ。
たぶん、住んではいなかった。ただ、あこがれていた。
もしこれが前世の記憶なら、わたしは自分のいないどこかの街にあこがれ、あこがれのままに死んでいったのだろう。
思いかえすと、私の心がうずくのは、それが決して手に入らないとわかっているからのように思う。
けっして、たどりつけない、あこがれの街。
だからこそ焦がれる。掴みたいと思う。それは掴もうとすれば掴もうとするほど、どこかへと消えていってしまう幻の街だ。
いま、わたしは坂の街に住んでいる。
美しい街だ。商店もなにもないけど、帰るたびにほっとする。
けれど、谷間にある我が家にむかって坂道をおりながら、いつも焦がれるように見つめているのは、自分の街ではなく、谷をはさんで向かい側の丘陵地にひろがる別の街。
斜面に広がる家々が、黄昏の空のした、ほのかに明かりをともしているのを見つめる。
――思いだして、とだれかが言っている。
なにを思いだせと言うのだろう。
わからないまま、わたしは今日も、心象の坂の街に恋焦がれる。