でもやるんだよ(2)
それはまた小岩の街外れのソウルバーで繰り広げられた我々の社会的詭弁の一節であった。
「そういえば君の好きそうな本を思い出したんだよ」
彼は少しの無邪気さと共に僕に語りかける。
「因果鉄道の旅って言ってね...」
それはサブカル雑誌周りでは有名な方が書いた本だそうで、因果を持つ者たちの愛すべき矮小さを教えてくれるモノらしい。
僕らはそれからみうらじゅんの話に花を咲かせる。
「君、一見無意味なモノに熱を注いでそこに何かを見出す活動好きだろう?」
コクリと頷き、僕はみうらじゅんの「スティーブン・セガール概論」のお話をする。
セガール
ビザール
バザール
ゴザール。
黒板に書かれたそれらの等比セガール列を指差し、彼はこう言うのだ。
“これがセガール四段活用ですねえ”
これは有用性と無用性との二項対立、概念の脱構築、そしてその間に詠まれている詩、スピノザ的善悪。
その全てが矢印となり地続きある事を教えてくれる。
セガール四段活用は人類の生来的及び善へと向かうコナトゥスを孕んだ社会的かつ超個人的命題なのだ。
彼は全国の看板の文字を撮って周り、般若心経の文字を集める“アウトドア般若心経”なるモノを行っていたりする。
彼が駐車場で「空アリ」という文字に仏教の真髄を見出した事、そして「空ナシ」もある事を発見し、非常に感銘を受けたそうだ。「ないことはない」と書かれている、と。
そこから彼は「空」を集め始める。
そして夢でなぜか井上陽水の口から「なぜ般若心経の文字を全て集めないのだ」とお告げがあってから、アウトドア般若心経を始めたそうだ。
これらの活動は一見無意味である。無意味である事というのは有用性と無用性の二項対立があるという事。
そしてそれは対極の力を持ち相対している。
それらの二項対立を揺さぶる脱構築の方法として、その相容れない二つの間に意味を見出していく。
つまりそれは詩を読む事。
そしてその何の足しにもならない働きを楽しくする。
その運動を“自分にとって活動能力をあげてくれる善”として仮固定してしまう。
デリダ→詩→スピノザの串焼きである。
その働きが成功する時、理論的には僕らはこの世の運動全てに幸せを感じることができるのだ。
それはこの世の全てを内包する二項対立を、そしてその間までもをスピノザ的善に変換する超・脱構築活動なのだ。
僕は友人に語りかける。
「いやぁ、意味わかんない事に意味を見出して楽しむ活動大好きなんですよ」
彼は答える。
「それはさ、実はみんなやってるんだよ。だって俺が今話しているこの“声”でさえただの空気振動なんだ。そこに勝手に意味を見出し、一喜一憂してるだろう?我々は。みんなそれを行っているのに気づいていないだけなんだよ」
「ハハハ、じゃあそれは人間の積み重ねられた社会的かつ生来的な活動じゃないですか。なんだ、皆んなそれが好きなはずだ」
この時代のサブカル周りの強烈な合言葉として、
「でもやるんだよ」
という言葉がある事を彼は教えてくれた。
「〇〇君、この言葉の雰囲気、好きだろう?」
と彼は笑っていた。
僕は“うーむ、確かにとても好きだなぁ”と思う。
それは無意味な事をやり通す為の言葉と捉えられがちだが、もはやこれは全てを幸せに導くための祝詞ではないかと思えるのだ。
「でもやるんだよ」
この世界に幸せをもたらす引力を感じるこの祝詞を、僕はこれからも愛し続けるであろう。